神の愛と導き―新約聖書から 2008/5
吉村 孝雄
遠くからそして近くから、北は北海道からそして南は、沖縄、台湾に近い西表島から、さらに遠いアメリカからも参加者が与えられ、ここに内村鑑三の流れを汲む無教会の全国集会を与えられました。
このことのなかにも、神の愛と導きがあります。ここに参加されている方々は多数がすでにキリスト者となっておられる方々であり、過去をふりかえりますと、数知れない神の愛が思いだされることでありましょう。遠い過去だけでなく、現在日々の生活のなかでも生活の困難、苦しみや悲しみのときにそばにいて励まし、新たな力を与え、また、内なる重荷である罪の赦しを与えられ、神の愛を日々感じている方々も大勢おられると思います。
また、まだ神を信じていない、信じられないという方々にあっても、その背後にはだれかが祈り、語りかけて来られたゆえに、この会に参加されたのであり、その背後には神の愛と導きがあります。
そして、健康な人、病気の方、人工呼吸器をつけた極度の不自由な生活をされている方、視覚や聴覚、知的な障害をもった方々など、多くの障害者も加わり、一〇代の若い人から、八〇歳を越えておられる方々とさまざまの方々が集まりました。ここにも導きがあります。
唯一の神がおられることを信じられないゆえに、神の愛と導きなどどこにもない、と感じる人が日本では圧倒的に多い状況です。しかし、じっさいに存在しているにもかかわらず、気付いていない、ということはたくさんあります。
例えば、日本では豊かな食事や医療を受けられますが、食べ物すらない、飢えに苦しみ医者にも薬の恩恵にも全くあずかっていない人々は何億といます。
また、身近なところでは、すでに触れたように、この会場には自分では身動きもできない上に、器械の力を借りないと呼吸もできない方がおられます。そのような状況がどんなに困難なことか、筆舌につくしがたいことです。
また、目が見えない方々が五名ほど参加されていますが、ほかの人は見えます。参加者のお顔、またこの部屋の状況や室外の眉山や青空が見えます。それらがいっさい見えないだけなく、少し移動するにも他人の手を借りねばならない、だれかと話しをしたいと思ってもそこに自分ではいくことができない、何でも人に頼まねばならないというようなことも、生きていく上で特別な困難を伴います。
また見える人はそれができるということはどんなに大きい恵みであるか、そうしたことはほとんどの人が日常感じていないはずです。
そのような状況に置かれた人たちに対して、ほとんどの人は食事も豊かにあり、病気のときには医者にかかれるし、そもそも自由に呼吸できること、起き上がって歩くこと、目が見えることなど数えきれない恩恵が与えられています。
しかし、そうした恩恵があるのに、それをほとんど感じていないというのが現実ではないかと思います。
このように、私たちが受けている恵み、神の愛や導きといったことは、私たち自身の心の目、魂の感受性が開かれているかどうかにかかっているわけです。
聖書という本は、そうした私たちの眠ってしまっている状態から目覚めて、神の愛と導きが至る所で存在しているのだということを繰り返し指し示している本だと言えます。
現実には神の愛どころか、それと全く相容れないような出来事がいろいろと生じます。そのために私たちは苦しめられ、神の愛でなく、悪の力が支配しているのだと思い込むことにもなります。
しかし、そうした暗い出来事が生じても、それは最終的には善きことへと神が導いて下さると信じることによって、神の愛がいっそう実感できるようになっていきます。ここでもまず神の愛と導きが必ずあるのだ、と信じることが出発点にあります。
「神を愛するものには、万事がともに働いて益となる」と聖書に書かれてある意味が少しずつわかってきます。
さらに、やはり新約聖書で、「すべてのことに感謝せよ、いつも喜べ」と言われているのも、最終的にすべてを善きとして下さる神の愛と導きを信じるならばそのように感謝できる、ということです。
このすべてに感謝できる、という心は、聖書の一番はじめにある創世記で、神が天地を創造されたときに、「良し、とされた」と繰り返し記されていることを思い起こさせてくれます。そして万物の創造をされたときに、「非常に良い」とされたと記されています。(創世記一・31)
このことは、昔の単なる神話であるとか、創造の最初の良い思い出のようなものと思って、私たちと関係のないことだと思われがちです。私たちのまわりにはあまりにも「すべてよい」などということに反することが満ちているからです。
しかし、神の力、キリストの力によって新しく生まれた者は、それゆえに、まわりのさまざまの出来事の背後に最終的には「非常に良い」という状態に導く神の御手を感じることができるようになっていきます。
すべてに感謝し、すべてを喜ぶという心は、まさにそのような新しくされた魂の状態であり、創世記に言われているような「すべて良し」という神のお心に触れることができるようになると言えます。
聖書の最初に置かれている創世記で、神が天地創造をされたとき、その一つ一つに、「良しとされた」と言われたというのは、なぜだろうと、だれでも思うものです。これは単なる神話だからだろう、というように思う人もいてそれだけであとは深く考えない、というのが聖書を手にとる人たちの多数を占めていると思われます。
しかし、これは、預言でもあるのです。もし、私たちがキリストに深く結びつき、キリストの聖なる霊によって導かれるときには、私たちに生じるさまざまの悪しき出来事、周囲の出来事においても、その背後に万事を最終的に良きものとされる神の愛と導きの御手を見るようになるからです。
聖なる霊によって生まれ変わったようになった魂にとっては、それ以前には、単なる神話であり、命のないただの物語と思われていた聖書の内容が新たないのちを得て私たちの魂を活き活きと映し出しているものとしてよみがえってくるのです。
私たちの魂の奥深いところにある罪、闇の部分がよいものへと変えられなかったら、私たちの幸いはありません。新しく生まれるとは、神の霊が注がれ、それによって私たちはキリストの死が単なる刑死でなく、私たちの重い罪を身代わりに背負って死んで下さったのだと信じられるようになり、罪の赦しと清めを受けることができます。 そして初めて魂の平安を与えられます。
しかし、そこで留まるのでなく、そこから、この世を導かれて歩むことが始まります。
そのためにこそ、聖霊が与えられたのです。十字架で死んだだけのキリストでなく、復活して聖なる霊となって下さり、また生きてはたらくキリストとなって私たちの生活のなかに、また心のなかにも住んで下さり、私たちを支え、励まし、導いてくださるようになったのです。
それゆえに、十字架と復活、それは神の愛とその導きを最も深いかたちであらわすものとなっているのです。キリスト者の生活とは、一言で言えば、罪赦され、聖なる霊によって導かれる生活だと言えます。
十字架こそが、私たちが悩み苦しむ根源的な原因である、心の問題の解決となってくれました。心の最大の問題とはいじめや病気ではなく、魂の深いところにある心の自分中心という発想なのです。それを罪といっていますが、その罪を除き去るために、その罪を赦して清め、新たな力を与えるためにキリストは十字架で死んだのでした。それは人間の最も深いところの悩みを知っておられたゆえのことでした。そこに愛があります。
愛とは可愛がるだけのものでなく、私たちの心の根本問題の解決をすることです。あらゆる問題の根源の原因となっているものに手をつけてその難問を解決することです。
それこそが最も深い愛だと言えます。
そのような魂の根本問題を主が解決してくださったのです。 人の表面に見える問題にふれるだけでもやさしさの表現となります。ひと言の言葉でも愛を表すことができます。しかし、そうした慰めはすぐに過ぎ去っていくことが多いのです。
私たちの表面の数々の苦しみや悩み、いかなる民族やどんな時代でも、必ず持っている人間そのものの奥に潜む根本問題にメスを入れてそれをえぐりだし、魂の大手術をしてくださったのが主イエスであったと言えます。
さんざん長い歳月を苦しめられてきた難しい病気がいやされること、それは人生最大の喜びのうちに数えられます。 それゆえ、魂の最大の病気である罪が赦されることこそ、何にも増して大きな喜びとなるわけです。
主イエスが愛と導きそのものであることは、つぎの言葉で簡潔に表されています。
…わたしは道であり、真理(真実)であり、命である。
(ヨハネ十四・6)
自分や他人、あるいは家族の罪ゆえに、また病気や事故などの苦しみや絶望で死にたいと思うようなときに、ほかのいかなるものも与えられないような新たな命を与え、そこから立ち直らせて下さるなら、それはまさしく愛であります。
ただ主イエスを信じ、心を結びつけるだけでこの世のさまざまの闇の力に巻き込まれず、神の国へと歩んでいくことができる、それこそ、導きであり、そにゆえに「道」だと言われているわけです。
そして、イエスは「真理」である、といわれます。ここで真理と訳された原語(*)は、「真実」と訳されている箇所も多く、真理と真実という二つの意味が重ねられて言われていると考えることができます。
(*)アレーセイア alhqeia これは、口語訳では、十数カ所で「真実」と訳されています。例えば、「私はキリストにある者として真実を言う。」(ローマ九・1)など。
イエスは、この世の人間のすべてが罪を持つ、言い換えれば真実であり得ないにもかかわらず、ただ主イエスだけは真実であり、どこまでも偽りがない。しかも、その真実や愛、神の国への道は真理であり、永遠だというさまざまの意味がここに含まれているのです。
このように主イエスが私たちに、神の国にある愛によって私たちを守り、支え、そして神の国へと絶えざる前進をすることができるように、来てくださったのですが、この世界、宇宙の前途は最終的にどうなるのか、ということについても明確な方向が示されています。
それは最も深くキリストに結ばれ、聖なる霊を受けた使徒パウロが神からの啓示を受けて語ったことです。
…すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。 (ローマ書十一・36)
…時が満ちるに及んで、救いのわざが完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめらる。
天にあるものも地にあるものも、キリストのもとに一つにまとめられる。(エペソ一・10)
この世界は全体としてどこに向かっているのか分からない、というのが大多数の人々の実感だと思われます。政治家も、科学者も芸術家も、その方面でいかに優れていても、この世、宇宙が向かう最終的な状況はだれも分からないことです。
しかし、天地創造の神、万能の神の愛と導きを信じるとき、この世界ははっきりとした目標、神とキリストに向かって進んでいるということが受けいれられるのです。
(これは全国集会の開会メッセージとして書いたものですが、実際に語ったのはもっと簡略化した内容でした。)