私が切実な思いで待ち望むことは、生きるにも死ぬにも、
私の身によってキリストがあがめられることである。
(ピリピ書一・20より)
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(ルカ福音書二・10


リストボタン根を張ること    2009/2

さまざまの野草、樹木は、ふだんは、地上だけを見せている。美しい花が咲くその姿や色、形、また果物や野菜などは私たちに不可欠の栄養となるし、また樹木は、よき果実を実らせる。あるいは、山々の木々は新緑や紅葉の季節にはその美しい姿を私たちに見せてくれる。樹木はときには、数十メートルの高木となって、その堂々たる姿によって人々にある種の力を与えるものとなっている。
こうした地上の植物の姿しか私たちは見ないことがほとんどである。しかし、そうしたいっさいを支えているのは、地下の根である。根があればこそ植物は生育に不可欠な水や養分を取り込むことができる。また、樹木は高木となってその巨大な重量をも支え、また嵐のときにも倒されない。
目には見えないところの部分が、支えているのである。
私たちにおいても、表面に見える活動、それは子供のときには、スポーツや勉強ができるとか、音楽の才能とかが目立つし、大人となっても学歴や職業、また容姿などがまず目に入ってくるからそれらをたいていは見ている。しかし、私たちが真によきことができるためには、根を下ろしている必要がある。 深く神あるいはキリストに根ざしていないときには、簡単にこの世の風によって吹き倒されてしまう。また、自分や他人という人間からの養分だけでは、病気や人間関係や職業上での困難な問題が生じたときには、支えられなくなる。
植物が根から水を吸収するように、私たちも神に魂の根を深く下ろして、いのちの水を受けていかねば正しく生きていけない。そしてそれは、同時に魂の栄養となり、私たちの心や考えをもうるおし豊かにしてくれる。
神に魂の根を下ろすこと、それはふだんの生活のなかでたえず主イエスに向かい、仕事をしつつも、また運転しているときも歩いているときも、主イエスに根ざしていることはできる。特別な時間をとることができない場合でも、天にいます神を見上げる一瞥でよいのである。
私たちは、過去のさまざまの書物、現在生きている人たちの考えや生き方などからもたえず養分を受けている。そこに根を張っている。知識ということひとつをとっても、私たちの現在の考えや知識は過去に生きた人たちの精神的な土壌に根を下ろしてくみ取ったことである。
現在では、インターネットという数十年前には、想像もできなかった手段によって膨大な知識の世界に根を下ろしてくみ取ることができる。
しかし、このような人間的なものに根を下ろすことはまた有害なものをも取り込むことにもなっていく。人間社会には実に数々のまちがったこと、汚れたことが満ちているからである。そうしたものをくぐり抜けてよいものだけを人間社会の土壌から取り込むことは至難のわざである。
神に根を下ろすことによって、私たちはそうしたよくないものが入ってくることを妨げるフィルターのようなものが与えられることになる。それによってこの世の汚れたもの、悪しきもの、不純なものなどが私たちの魂の根から入ってくることを防ぐことができる。
神はそのためにも、私たちのまわりに美しい自然の世界を備えられているのである。それらの自然は、私たちに神に根を下ろせとたえず語りかける働きをしていると言えよう。
日常たえず入り込んでくるテレビの番組や報道には、このような真実や清いものはごく少ない。知らず知らずのうちにそのような人間的なもの、あまりにも人間的なものに私たちの魂はふかく根を下ろしてしまう。
また、印刷物においても、私たちをまちがった方向へと誘うものがはんらんしているが、そうしたいっさいの印刷物のなかで、聖書はまさしく私たちが神に根を下ろすことのできる書、繰り返し読んでも決して飽きることのない唯一の永遠的な書なのである。


リストボタンオバマ大統領の演説の中から

アメリカの新しい大統領の演説は多くの人によって聞かれた。氷点下五度とも言われる寒気のなか、二〇〇万人が集まったという現象は、日本では考えられないことである。そしてそれだけでなく、個人の演説としては、全世界で最も注目を浴びた演説となったと言えよう。 その中から信仰と関連あることについて若干の感じたことを記したい。

未来・過去・現在
大統領の演説の冒頭の部分、はじめの挨拶という形式的なものと思われやすいが、こうしたところにも、私たちがくみ取るべきものがある。
「私は今日、ここに立っています。私たちの前にある職務の前に謙虚とされ、あなた方から与えられた信頼に感謝し、私たちの先祖たちが払ってきた犠牲に心を留めて。」
I stand here today humbled by the task before us,grateful for the trust you've bestowed, mindful of the sacrifices borne by our ancesters.

ここには、自分が何者か、それは人々から与えられた信頼のたまものであり、大いなる困難事の前にたっているという謙虚さ、そして過去の先人たちの働きへの感謝がある。
私たちはどこに、どのような者の前に立っているのか、だれのおかげで今立つことを得ているのか等、それは私たちもつねに覚えていなければならないことである。
使徒パウロは、その手紙の冒頭にまず、自分はキリストの僕(奴隷)である、ということを書いている。キリストなる真実と愛の完全なお方に全面的に従うもの、何等自分のものというのはないという、砕かれた謙遜な心を最初に提示している。どこに立っているのか、それはつねに神の御前だという気持がそこにある。
私たちは、困難なときには、目先の状況ばかりにとらわれてしまう。しかし、困難なときにこそ、正しい道を見出すために、私たちは過去、現在、そして未来にわたる展望を持たねばならない。
主イエスは、つねにそのようであった。自分は過去はるか昔から神の御計画によって予定され、その結果地上に遣わされた者であること。過去に積み重なった人間の悲劇を見つめ、罪をあがない、永遠の救いをもたらす使命を知っておられた。
そして同時代の人々の苦しみと悲しみを深く見つめ、憐れまれた。また人間の罪深い現状も鋭く洞察されていた。
さらに、未来については自分の道は人間的栄光の道でなく、非常な苦しみと恥を受け、十字架によって処刑されること、しかしその後に復活し、さらには再び神の力を帯びて来るのだという先のことも見つめておられたのである。

多様性の強み
彼が語ったことのなかで、アメリカは世界でも特に多様な人々が集まっている国家であるゆえに、その多様性がさまざまの困難を生んでいると考えられてきた。しかし、彼は、その多様性を積極的に受けいれる発想を明確に示した。

「私たちの多様性という遺産は、強みであり、弱点ではないことを知っている。」(We know that our patchwork heritage is a strength,not a weakness.

このことは、国家について言われたことであるが、さまざまのことに関して言えることである。人間は、画一的にしようとする。効率的に考えると、軍隊がその代表的なものであるように、すべて同じように行動させようとする。会社や学校でも命令通りに忠実に動く者を重んじようとする。
例えば、東京都において、単に「君が代」を歌おうとしない、というだけで、教員としての資質を全面的に否定しようとするなど、実に間違ったやり方である。こんなやり方では、ほかの能力、生徒への愛情、専門教科の能力等々を見ようとしないから、教育がよくなるはずがない。頭や心が固いほど多様性を認めようとしなくなる。
しかし、神の創造はそうではない。神は、確かに多様なものを用いようとされる。木の葉をみても、一つの樹木の無数の葉は一つ一つが異なっており、その多様性には驚くべきものがある。
健康な人や能力のある人たちとともに、弱い人たち、病気の人、能力的に恵まれない人々、障害を持った人たち、年齢的にも老若の人たち、そうした多様な人たちがいることは、強みなのである。神は身近な自然の世界を通しても絶えずそのことを語りかけている。

無宗教者
今度のアメリカ大統領の演説において、オバマ大統領が、「私たちの国は、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、そして無宗教者たちの国だ」
We are a nation of Christians and Muslims,Jews and Hindus,and non-believers)といわれたことが注目された。 日本においては、このようなことはごく当たり前として感じられるであろうが、アメリカでは従来は無神論とか宗教を持たないということは、人間として信頼されないという傾向が強かったから、大統領の演説で公然と無宗教の人たちをキリスト教徒と並べて言及されるということはかつてなかったと言われる。 この演説によってアメリカでは神を信じても、信じなくても同じなのだと思う人たちを後押しすることになるであろう。
そしてそこから、信仰は持ってもなくても変わらない、趣味のようなものだと考える人たちが増えていく可能性がある。
しかし、神を信じないことは、人間にとって正しい道ではない。神とは純粋な愛、そして真実であり、正義そのものである。そのようなお方が実際に存在するのに、そのようなものはない、ということは、そうした愛や真実、正義が存在しないということである。それは事実に反することである。
私自身は人生のあるときに、神の愛と真実を明確に知らされた。それは二×三=六というのが真理であるように、本来誰にとっても成り立つ真理であるということを示された。
人間同士においても、他人の心にある真実な思い、目に見えないその思いがあるのに、それを全く信じないということは、よくないこと、罪である。それと同様にこの世界に完全な愛があるのに、それを信じないのは人間として正しい心のあり方でなく、間違ったこと、罪なのである。
このようなことは、決して大統領のような立場の人は言うことができない。どの宗教もまた神を信じない者をも同列に置くような言葉を出すしかない。いかに強力な権限が与えられている大統領であっても、このような真理にかかわる基本的なことを明確に言うことはできないという弱点を持っているのである。
特定の宗教を表面的に信じているといいながら、武力をもって反対者を攻撃したりするのでは本当に神を信じているとは言えない。神とは愛なのであるから。永遠の真実や不滅の愛がある、変ることなき正義が存在するということを信じることこそ重要なのである。
それゆえにこそ、その確信を与えられている者は、語り続けなければならない。聖書に示された神とキリストを信じることこそ、人間として究極的なあり方であり、永続的な幸いがそこにあるということを。


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