リストボタンすべてのものが    2009/2

山道を歩いていると、数々の植物が迎えてくれる。野草や樹木がさまざまの形、大きさ、色合いをもって存在している。小さな草の花だからといってそれがもっと大きかったらいいのにとか、この花がもっと小さかったら、また、この木の葉の形は丸いほうがよいのに等々といった気持になることはない。
小さいものも、大きいものも、また地面を這うようにして育っている苔やシダの仲間、樹木の肌もそれぞれが違った風になっている。
こうしたすべてがそれぞれによさを保っている。主イエスの言葉を借りて言えば、野の花、樹木すら、このように千差万別の姿であるのだから、人間ははるかに心を注いで下さっているはずである。

空の鳥をよく見なさい。(*)種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイ六・2629

*)ここで、「よく見なさい」と訳された原語は、エムブレポー em-blepo で、「見る」という言葉 blepo の強調された形で、じっと見るという意味になる。また後の、「注意して見る」と訳された言葉は、カタマンサノー (kata-manthano) これも「学ぶ」manthano という語に接頭語がついた形で、「じっと見つめる」「考える」といった意味に用いられる。この語は、新約聖書ではこの箇所だけであるが、ギリシャ語の旧約聖書と続編(七〇人訳)にはそれぞれ四回用いられている。

「よく見る」「注意して見る」というように、二種類の言葉を、とくにひとつはほかでは使われていないような言葉をもあえて用いているのは、それだけこうした身近な自然を見つめることの重要性を示していると言えよう。
自然の世界の植物や動物、さらに岩石や山々、雲や川の流れ等々もみな、神の愛や神のご性質を表していてそれを人間に語りかけているものなのである。


リストボタン主が私たちの味方でなかったら (詩編一二四篇)

私たちにはさまざまの困難、試練に出会う。自分の将来はどうなるか、と思われるような事態も生じる。生きていけないというほどのことも、予期しないときに訪れることがある。
旧約聖書の詩編はそのような、著しい困難のとき、死に瀕しているような重大な苦難の際に神からの助けを得て、辛うじて救い出されたという経験が数多く記されている。
それらの詩が、ほかの国々の古い時代の詩集、あるいはそれ以降の時代のあらゆる詩集とは、比較にならないほどに世界中で愛され、親しまれ、用いられてきた理由は、そこにある。人間が最も大切にしたいと思うのは、自分がもう死ぬかもしれない、生きていけない、というほどに苦しんだとき、また闇に落とされたときにそこから救い出してくれたものである。例えば、病気で苦しくて耐えがたい痛みがあったとき、それをいやされたときの経験は生涯忘れられない。
詩編全体が、そうした深い闇からの救いの体験が背後にあるゆえに、これらの詩集は数千年前から現代に至るまで、人々の魂の最も奥深いところに訴えてきたのである。
今月号にも掲載したダンテの神曲という詩の大作もまた、同様であった。著者が深く、暗い荒涼とした森からようやく脱することができた、ということがその一万四千行を越える大詩編の巻頭に記されている。その救いの体験が、世界に多大な影響を及ぼしてきた神曲となって結晶したのである。
次にあげる詩もまた、その困難のなかからの救いの体験を簡潔に、力強く表現したものである。

イスラエルよ、言え、
もしも、主がわたしたちの味方でなかったなら
主がわたしたちの味方でなかったなら
わたしたちに逆らう者が立ったとき
そのとき、わたしたちは生きながら
敵意の炎に呑み込まれていたであろう。
そのとき、大水がわたしたちを押し流し
激流がわたしたちを越えて行ったであろう。
そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう
驕り高ぶる大水が。

主をたたえよ。
主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
仕掛けられた網から逃れる鳥のように
わたしたちの魂は逃れ出た。
網は破られ、わたしたちは逃れ出た。
わたしたちの助けは
天地を造られた主の御名にある。(旧約聖書・詩編一二四篇)

この詩は原文では、詩の最初から「もしも主が私たちの味方でなかったら」という、言葉から始まっている。(新改訳は原文通りに「もしも、主が私たちの」を第一行において訳している。)
もしも、あのとき、主が助けて下さっていなかったら、悪の力によって打ち倒されていた! という強い気持がここにある。
私たちも日常生活のなかで、もしあのとき、一瞬気付くのが遅かったら、たいへんな事故になっていたとかもしあのとき、○○さんに出会わなかったら絶望していただろう、あるいはもしもっと医者に行くのが遅れたら、命はなかったかもしれない等々、思いだすことがある。
この詩にはそうした切迫感が迫ってくる。この作者においても、危機一髪といった特別な危険にさらされ、もう滅びるかと思われたほどの困難に遭遇したと考えられる。
それは、敵意の炎にのみこまれるとか、大水に押し流される、激流が私たちを越えていった等々の表現から、非常な困難が迫っていてあやうく死んでしまう状況にあったと考えられる。
私たちもこうした突然の事態にはいつ出会うか分からない。それはこの詩の作者のように、近くにいる人間の悪意であったり、自分の罪ゆえの苦しみであったりする。また、病気とか家族の大問題、あるいは職業も失われたり、大きな事故によって生じた苦しみであったりする。
また小さい子供であっても、いじめなどにより生きていけないという人もいる。大人であっても、年間三万人という多数の人たちがみずからの命を断っていく悲劇が続いている。これは未遂の人も合わせるなら、はるかに多くの人たちとなるだろう。
ここにも、人生の激流、大水にのみこまれていく姿がある。飲酒運転による事故で家庭も自分の将来も破壊してしまった人もあり、一般の事故でも一瞬にして家族を失ったり、生涯なおらない重い障害者となったりする人も多い。
こうしたすべては、この詩に言われている、大水であり、激流である。こうしたとき人間はまた冷たい言葉や怒りや憎しみの言葉をも投げつけることがある。それは、この詩にある、敵意の炎ということになる。
この詩の作者はこうした危険に対して、神が自分のそばにいて助けて下さったということをはっきりと体験した。このような苦しいところでの体験こそ、愛の神の存在を何よりも確信させるものである。一度このような人間存在の最も深いところでの体験をした者は、周囲のどのような反論も、また神信仰への攻撃にあってもその信仰を捨てないであろう。
私自身も、若き日に精神的に 大いなる危機にあったとき、どのような人間も、教師もまったくそれをどうすることもできなかったその闇に神が光をもたらして下さったことが、原点となった。それは決定的な経験であり、ほかのどんな事柄にも増して私の現在までの人生に重大な変化をもたらしたのである。
それゆえ、この詩の作者の魂の深いところでの体験は、そのまま私自身に重ねて伝わってくる。こうした神の助けを与えられた者は、そこに神の愛があることを全身で体得する。旧約聖書には神の愛が最も深く刻印されているのは、詩編においてなのである。
このような苦しみからの救いを経験したゆえに、この詩の後半には、深い確信とおのずから湧き出る神への感謝と讃美が続いている。神への讃美歌(聖歌)は、世界で最も長い間にわたって歌われ続け、無数に歌われ続けているが、その源泉はこうした体験にある。
人間によっても私たちはさまざまの助けを受けている。生活の一つ一つをとってもだれかから助けられ、教えられている。しかし、死に瀕した者、生きる目的を失った者、魂の死んだ者を本当に助けることができるのは、医者でも、友人でも家族でもないし、また金の力でもない。それはそうした一切を支配し、創造された神だけができることである。 とくにすべての人が必ず向かっていかねばならない死ということも、そこからの助けはただ神のみが可能である。死に打ち勝つ力をもって私たちに永遠の命を与えて下さる神、天地を創造された神のみが、私たちの究極的な助けとなってくださる。
この詩はその確信で終わっている。現代にいきる私たちもまた、この確信を共有するようにとのメッセージがここにある。


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