主イエスの祈り 2009/2
福音書のなかに、主イエスが祈ったという記述はあちこちにみられる。それは主が祈りの人であったことを直接に示すものである。主イエスの祈り、それはどのようなものであっただろう。
…ところが、彼ら(律法学者たちやファリサイ派の人々)は怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。(ルカ福音書六・11~13)
律法学者やファリサイ人たちは、当時の人々の信仰を指導する立場の人たちであった。そのような彼らであったが、イエスへの妬みのゆえにイエスをわなに陥れることを計るようになっていた。
そうした悪意に対する道は、祈りであった。徹夜で祈るほどに真剣な、そして長時間の祈りであった。何を祈っておられたのか、聖書はあえてその内容を記してはいない。けれども、主イエスが来られた目的は、その最初のメッセージに要約されているように、「悔い改めよ、天の国は近づいた」ということを知らせるためである。そして、悔い改めとは、人間的なもの、目に見えるものから、目に見えない神へと魂の方向を転換することであり、天の国とは天の支配、すなわち神の御支配は近づいてそこにある、悪の支配でなく、神の支配が近づいてすでにそこにある、ということであり、神の国とはすなわちキリストご自身である。キリストは神の完全な支配権をもっておられるお方である。そのキリストが地上に来られてそこにおられるのである。
主イエスの祈りは、やはりこのこと、人々が、神に立ち返り、目にみえる天の国であるイエスが来られたことを受けいれるように、との願いであったであろうし、それを妨げようとするサタンの力との霊的な戦いでもあったと考えられる。
人々が神へと心を転じるようにとは、自分が目にみえるもの、人間的なものに向かって生きてきたということ、言い換えると罪深い存在であったことを知り、そこから神と主イエスに魂の方向を転じるように、ということである。
さらに、神の愛のご意志によって遣わされたイエスを受けいれないで、かえってその存在を抹殺しようとする闇の力が砕かれるように、そして人々がそのような力に支配されていることから解放されるようにとの願いがあったであろうし、そうしたすべてに対抗できる神の力である聖霊を願ったものでもあっただろう。
そしてそのようなこの世の悪の勢力に対抗するために、自分が殺された後においてその福音宣教を継続する具体的な担い手を選び出された。それが十二弟子たちであった。
徹夜の真剣な祈りによって、この世の霊的な闇の力との戦いのための担い手として選ばれたのが十二弟子たちである。そしてその祈りによって支えられ弟子たちは、この世のなかに出て行くことになる。
また、別のときには、全身ハンセン病とみられる病気にかかった人と出会った。その病人が「御心ならば私を清くすることができます」と、主イエスへの絶対の信頼をあらわした。そのときに主イエスは、そのような人には決して触れてはいけないとされていたが、手を伸べて触れた。そしてその病人はいやされた。この奇跡のような出来事は広く知れ渡ってますますイエスのもとに大勢の群衆が集まるようになった。
そのとき、主イエスはあえてそれらの人々から離れた。
…だが、イエスは人里離れたところに退いて祈っておられた。
(ルカ福音書五・16)
たくさん集まった人々にこそ教えたり特別なわざを示してみせたりするというのが、多くの人間の考えることである。しかしイエスはしばしばこのように一人退いて祈られた。無数の人たちが、飼う者のない羊のように精神的にさまよっているのを見抜いておられたゆえに、そうした限りない人々への祈りがあった。また、その人々が神にたちかえるように、神の力を注ごうとされた。あらゆる人たちに注ぐだけの神の力を受けるためにも、時間はいくらでも必要となる。そして与えられた神の力を周囲の人たちに霊的に注ぐためにもまた限りない時間が必要となる。
主イエスの一人になっての祈りとはこうした目的のためになされたのである。
主ご自身が言われたように、まず神への愛と人への愛を身をもってなされたのであり、その具体的な現れが一人での長時間にわたる祈りであった。
主イエスが、最後の夕食をとったとき、次のように言われた。
「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 (ルカ福音書二二・31~34)
サタンは常に私たちをふるいにかけようとしている。そしてそこでしっかりと神に結びついていないときには振るい落とされてしまう。ここでは、サタンの願いと、イエスの祈り、そしてペテロの人間的意志の三つが交差している。
サタンといえども、神に願って許可を得ているという考え方がある。それはヨブ記にある見方と共通している。神は私たちがわからない理由によってしばしば悪をなすことを聞き入れられるという。なぜそのようにされるのかは私たちにはわからない。それはときには十年、二十年、あるいはメシアが地上に来られるまで預言されてから数百年もたってから実現したように、長い年月がかかって初めて人間にもわかる場合がある。
人間の判断では決して分からない。啓示を受けた場合だけわかる。イスラエルの人々がどうなるのか、それは長い歴史の歩みのなかで神が最終的にキリストを受けいれるようにされるのだという計画は、パウロが啓示によって知った。その深い意味を知らされたパウロは、その啓示の深さに大きな感動を示している。(ローマ信徒への手紙
十一の33)
イエスがここで、とくにシモンという以前の名前を使ったのはなぜか。それは、シモンという名が「聞く」という意味を持っているからと考えられる。原文には、シモン、シモンという呼びかけのあとに、見よ!(idou) という言葉があり、これは、口語訳や新改訳では、「見よ」と訳されているし、外国語訳でも、behold!あるいは、listen! と訳されていて、注意を強く呼び起こしている。
サタンは常に私たちを振るい落とそうとしている。私たちの罪、苦難、疑い、悲しみ、病気等々、それらにつけてサタンは私たちを正しい信仰の道から振るい落とそうとする。じっさい、それによって振るい落とされて信仰から全く離れてしまう人も多くいる。
そしてそれは人間のどんな固い意志でも、どうすることもできない。死をかけた意志であっても、なお挫折する。そしてたいへんな罪を犯してしまう。ペテロが立ち直ることができたのは、彼の強固な意志でも勇気でもなかった。それらはいとも簡単に粉砕されてしまうものであった。彼を立ち直らせたのは、イエスの祈り、その背後にある愛であった。真の愛であるかどうかの試金石は、祈りを伴っているかどうかである。
人間的な愛情は祈りなくして存在している。至るところにある親子愛、男女愛、また友人同士の愛など、みな信仰などとはまったく無関係に存在している。しかし、そうした愛に共通しているのは、祈りがないことである。神を信じないものにおいては、祈りは存在できない。祈りとは神に向かっての魂の呼びかけであり、叫びであり、交わりであるからである。
主を裏切ったペテロが後に立ち直ることができたのは、イエスの祈りによってであり、愛によるのであった。後に最大の弟子となったパウロにおいても、彼が立ち直ったのは、イエスの愛そのものによってであり、パウロの意志は全く逆のこと、キリスト教を迫害することであった。
ペテロに対する主イエスの祈りと愛は、ずっと持続するものであったことは、彼が三度もイエスなど知らないといって裏切ったときの、主に関する短い記述がそれを表している。
主は振り向いてペテロを見つめられた。(ルカ二十二・61)
真実の愛と祈りは従っているときも、背くときも、変ることなく持続していくものなのである。
イエスの祈りは、ヨハネ福音書にも最後の夕食のときの祈りが詳しく記されている。そこでも、その祈りの最後にある言葉は、やはり主イエスの弟子への愛であった。
…私は御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。
私に対するあなたの愛がかれらのうちにあり、私も彼らのうちにいるようになるためです。(ヨハネ十七・26)
御名を知らせた、といった表現は日本語ではわかりにくい。そのような表現は一般の新聞や印刷物では見かけることがない。名前とはその本質を表すものとして、聖書の民では重要なものとなっている。天地創造をされた唯一の神の名は、ヤハウェというが、それは「存在」を意味するハーヤーというヘブル語と関連付けられている。
また、イエスや使徒パウロたちもみなユダヤ人であるが、そのユダヤという名は、創世記に出てくるヤコブの息子の一人ユダから来ている。これは、「讃美する」という意味なのである。原語は、ヘブル語でヤーダーといい、「投げる」という意味を持っているが、そこから、言葉を投げる→告白する→(神を)讃美する、あがめるといった意味を持つようになった。
また、イエスという名も、「ヤハウェなる神は(罪からの)救い」という意味を持っている。
このヨハネ福音書で最後の夕食のときの祈りの終わりの言葉が、神の御名を知らせることであり、これからも知らせるという。もうまもなく捕らえられ、処刑されるにもかかわらずである。それは、イエスという存在が、神の愛の本質を知らせる、とくに十字架と復活によって人類にその愛を知らせるために来られた存在であり、イエスが地上から去ったあとも、聖霊により生きてはたらくキリストによって、全世界に知らせ続けるということを暗示している。そしてそれは過去二千年の歴史を見ればその通りであったことが分る。
主イエスは弟子の筆頭ともいうべきペテロすら、言葉でどんなに忠誠を誓ってもそうした人間的意志はあとかたもたもなく崩れ去ることを見抜いていた。そのために、主イエスは祈ったとある。
キリストは復活していまも生きておられる。それゆえその愛もまた、生きて働いているゆえ、キリストに結びついていたいと願うものを主は祈って下さっていると信じることができる。また、こうした祈りへと向かう愛をキリスト者に与えているゆえに、昔から無数のキリスト者が主にあって祈りつづけてきた。その祈りによって私もキリスト者となったのを感じている。私は、キリストが私たちの罪のために十字架で死んで下さった、ただ十字架のキリストを仰ぎ、罪を赦して下さってありがとうございます。と感謝して信じるだけでよいという簡明なキリスト教の本質を知らされた。
それは矢内原忠雄の書いた一冊の本であった。それを書くために彼はどれほどの祈りをささげたことであろう。それを書こうとする心をもキリストが導いたのである。
私もそれ以後も初めて参加した京都の北白川集会の責任者であった富田 和久氏からも、私が大学を卒業して郷里に帰った数年後に再会したとき、私へのひと言は、卒業後も、ある特別な問題を持っていた私への祈りを続けて下さっていたことを直感させるに十分なものであった。
祈りはたえずこうしてバトンタッチされて受け継がれ、無数の人が落ちていくことを防ぎ、守っている。
ヨハネ福音書において、最後の夕食のときの主イエスの長い祈りは、「神の愛が弟子たちの内にあり、私も弟子たちの内にいるようになるため」という言葉で締めくくられている。
これは、同じ最後の夕食のときに言われた有名な言葉、「私の内にとどまれ。そうすれば私もあなた方の内にとどまっていよう。…わが愛の内にとどまっていなさい。」(ヨハネ十五の四節、九節)ということと同じことを最後に祈られたということになる。
主イエスの私たちに対する究極的な祈り、願いはここにあったのであり、それ以後二千年という長い間、このことはずっといまも祈り続けられてきたし、またその祈りによってキリストが人々の内にあり続け、あらゆるこの世の誘惑や悪の力にも打ち倒されずに永遠の真理を受け継ぐものが現れてきたのであった。
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聴覚障害者と歌、讃美
耳の聞こえない人にとって、歌うことはどのような意味を持っているだろうか。そもそも聴覚障害者には手話の歌も受けいれないであろうか。
私はもともと高校の理科や数学の教師として勤務していたが、思いがけない神の導きにより、盲学校そしてろう学校でも教師としての経験をする機会が与えられた。ろう学校教育には八年間携わることになった。
まず感じたのは、音楽の美しさが分からないろうあ者にとって、音楽とはなにか、音楽の世界をいかに伝えられるのだろうかということであった。
ろうあ者には、リズムはわかっても音の高さや低さ、またメロディーの流れもわからない。彼らには、音楽のよさは理解することは困難であるのはすぐに分かる。健聴者が音楽で心ひかれるのは、リズムよりまずメロディーの美しさである。それに次いで高い音、低い音の調和した響き、ハーモニィの美しさである。ろう者、とくに聴力損失の度合いがひどい者にとってはこの二つが全く分からないのであるから、音楽の美しさというのは伝えようがない。
私は盲学校に勤務したとき感じたことであるが、そこでは音楽に強い関心のある生徒たちが多かった。目が見えないとか不自由であるから当然聴覚が敏感になり、音楽の世界へと関心は向けられていくのは自然なことであった。
しかし、その後、さらにろう学校に赴任して全く状況が異なることを実際にありありと実感した。私がろう学校に赴任したとき、何十年とろう教育ひとすじに生きてきて、教師たちの指導的立場にあったあるベテラン教師は、補聴器についても県下で随一の見識を持っているとみなされていた。当時は手話禁止であり、徹底した口話教育であったから、当然補聴器に関することもとくに重視されていた。
その教師が、赴任間もない私たち教員に対して、ろうの生徒たちに、例えばベートーベンの交響曲の名曲を聞かせたらどのように聞こえてくるか、というのを実際にその音で聞かせてくれた。
ろう者はほとんどが、高音が聞こえなくなるから、ろう者が補聴器を通して聞いた音声は、驚くべき雑音であった。それはあまりにも、ベートーベンの力強い交響曲とは何の関係もない、聞くに耐えない雑音であった。音楽、ときにベートーベンのピアノや交響曲を好んで聞いていた私にとって、それはとても驚くべきことであったから、二五年ほども経った今でも印象に残っている。
そのようなろうの児童生徒たちに対して、私は少しでも、音楽の世界の美しさに代わるものとして、自然の美しさ、とくに身近な植物や昆虫の繊細な美とそのつくりに関心を向けさせようと努めた。そのため、近くの城山の原生林に定期的に私が教えている全生徒を連れて行き、その植物や昆虫の観察を図鑑をもたせて確認していくことをしたり、市外の山に学校行事として連れて行きそこで自然の美とか力に触れさせようとした。
また、赴任後数カ月で手話の重要性がはっきりと分かったために、さまざまの手話に関する本を購入、そして手話のできる徳島県聴覚障害者協会の人やろう者のキリスト者を訪ねたりして、手話を身につけていった。そこから手話で音楽的ななにかを表現することを思うようになった。
その頃、徳島市の大きな文化会館でろう者劇団の劇と手話の歌を生徒たちとともに鑑賞にいく機会が与えられた。そこでなされていた手話の劇のたくみさもさることながら、私が強く印象に残ったのは、劇団員がやっていた手話の歌の美しさであった。
それは柔らかく、生き生きしており、流れるようななめらかな手話の歌であった。
手話というのが単に言葉の内容を伝えるだけでなく、その表現と表情などから、美しさや感情の豊さをも表すことができるのだと初めて知らされたのであった。
それはある意味では当然である。手足、体全体を使う「踊り」はその手足、また体や表情などの動かし方によって、美しさや感情をもそこから放射することができるからである。手話は踊りではないが、手やからだ、そして表情をも使う言語であり、そこからその表現に美を込めて、また心を込めて表現することも可能となる。
また、もう一つ具体的な例として、今から一八年ほど前に三〇歳台で三人の幼い子供さんを残して召されたFさんは、土曜日の手話を用いる集会に参加しておられた。そこにFさんの家の近くの聴覚障害者のOさんも参加していた。私がなにかをほかの人と話ししていても、Fさんはすぐに、そのOさんに向かって手話をして、聞こえの保障をしていた。私が他の人と話していても、自然に耳に入ることであれば、健聴者と少しでも同じ条件にするために、すすんで手話通訳をしてあげていたのである。そのFさんの手話表現の美しさは今も記憶にある。
こうした手話の美しさは、表現する人が少しでも相手によりはっきり分かるようにという気持とともに、音楽的なものを聞けない人に、少しでも美しい手話表現で補おうとする気持が感じられた。
そのように美しい手話というのは必ずしも多くない。私がろう学校に赴任したころと比べると、手話のできる人は随分増えた。しかし、美しい手話をする人は増えているだろうかと思う。
聴覚障害者がすすんで、手話で歌おう、と言い出すことは少ないだろうし、また「手話の歌は好きか」と尋ねられたら、一般のろう者は、好きでない、と答える人が多いということは当然予想できる。肝心のメロディーが聞こえないからである。
そして、健聴者の伴奏で歌うというなら、その伴奏そのものが聞こえないのであり、音符の長短も高低も分からないので、伴奏が始まったのかどうかすら分からないし、高さに合わせることもできないし、長さも伴奏が聞こえないから正確に延ばして歌うこともできない。
私たち健聴者が、まったくメロディーを知らない歌を、それをよく知っている人のように、伴奏なしでいきなり歌え、といわれているようなものである。しかも、口だけぱくぱく開けている人と合わせてきちんと歌え、といわれているようなものである。そのような条件では誰が歌うのが好きになるだろうか。
しかし、それほど音楽や歌うことには致命的な問題を持たされているろう者でも、歌うことが好きな人たちがいる。それはキリスト者のろう者である。
徳島県では、県下の多くの教会合同の徳島市民クリスマスという催しが毎年十二月に続けられてきた。それは、七百人~八百人収容できる文化会館で行われ、そこで私は十五年以上にわたって、ろうあ者と健聴者の合同でする手話讃美の指導をしてきた関係で、徳島県にあるろうあ者の教会に毎年出向いて手話表現を確定し、ろう者と健聴者ともにその市民クリスマスのとき、手話で讃美することを続けてきた。
また、ふだんのろうあ者の教会の礼拝での手話を用いた讃美にも接したが、ろうあ者が自由に伴奏抜きで手話を用いた讃美を生き生きとやっていることに新鮮な驚きを感じたものであった。
そこでは参加者のろう者キリスト者はみな自由に、不十分ながらも声を出し、手話で讃美しているのであった。
ろう者のキリスト者は毎週毎週教会で歌詞もわかりやすい讃美を繰り返しするのであるから、じっと説教を手話で見つめていることとは違って、自分たちの思いをその歌詞に込めて手話で自由に表現しながら歌うのは信仰の表現であり、また一種の祈りともなり、また霊的に賜物を受けるための表現ともなる。解放感をも与えられることもある。
それゆえに、キリスト者でないろう者にとっては歌など歌う気持にもならないのがごく普通であるのに、キリスト者のろう者は、教会の礼拝での手話讃美は好むという人が大部分になるという大きな変化が見られる。
キリストはさまざまのことを根本から変えていくが、音楽と無縁であったろう者を、手話による讃美が好きになるように変革させるのも、またキリストの力のゆえである。キリストが働くからこそ、毎週同じような讃美を歌っても飽きることなく、ろう者の心を神にむかって注ぎだすことができるのである。
このように、ろうあ者は一般的には、手話の歌を好まないのであるが、キリスト者ではまったく異なる状況となるのである。
そのことは、健聴者にも見られる。歌うことなどまったくしたことのない人が、信仰が与えられると何十年ぶりに声を出して歌ったし、歌うことが次第に好きになっていくという人にも多く出会っている。キリストの力は無から有に変化させるのである。歌うことへの関心は無であったとしても、キリストを信じることによって、そこに歌うことへの関心と興味、愛好が存在をはじめるのである。まさに、無から有が生じているのである。
私のかつてのろう学校教師時代の生徒であった、桑原康恵さん(*)は、私たちのキリスト集会に小学五年のときから参加をはじめ、後にキリスト者となった。彼女はろう者として多方面に活動して各地のろうあ者のこともよく知っているので、ろうあ者の教会で、手話による歌、讃美について、問い合わせたことがあった。
ろう者のキリスト者で、手話による讃美を好まない人はいるかどうかについては、
「いません。好きな人が多いです。
賛美は主をたたえることで、意味も分かり(歌詞の意味を教えてくれるので)、心も慰められることが多いでしょう。」
との答えであった。
次に、桑原さん自身にとって、教会や信仰生活において、手話での讃美をどのように考えているかについて。
「賛美はいろいろあって、歌詞の言葉の意味が文語表現などもあって難しいために、前もって翻訳して賛美をします。
そうすれば、主を見上げながら、自分の気持ちも心から歌い、信仰も強められます。
音はまったく聞こえないけれど、手話で歌えば、みんなも一緒に楽しめます。
一般の音楽では、憧れの芸能人とか、いい歌詞だと歌うろう者もいますが、それに比べて、ろう者が手話歌を使う機会は、教会で歌うことが多い。毎週日曜日に歌うからです。」
(*)桑原 康恵さんは、徳島ろう学校で、幼稚部入学してから小学部、中学1年まで学び、筑波大学附属聾学校中学部転校し、高等部卒業後、筑波技術短期大学機械工学科卒業。三菱自動車本社入社。小学生時代から徳島聖書キリスト集会の土曜日集会などに参加して後にキリスト者となった。現在は手話訳聖書(日本聖書協会が後援)を制作している日本ろう福音協会に勤務してニュースレターの編集を行っている。教会に所属しつつ、ろう者としての活動は、江戸川ろう者協会副理事長・手話事業局長・財務部長。
このように、本来は歌とか音楽の世界とは無縁であったろうあ者がキリスト者となって主日礼拝ごとに讃美を手話をつかって歌うために、音楽とも新たな関わりが生まれ、手話を用いた讃美を愛好するように変えられていく。
手話の歌を日本で初めて手がけたのは、前月号で紹介した、大阪市立ろう唖学校長の高橋潔であった。彼は、前月号で書いたように、指や手、からだの動きを美しい生き生きしたものにして、何とかろうあ者に音楽の世界の美しさ、繊細さを伝えたいと念願し、物語をろう唖の児童生徒たちに読み聞かせるとき、そうして念願をもって手話を使い、指や手の動きを生きたものとしたが、それによって数時間でも、生徒たちは飽きることなくその手話による語りかけに目を集中させたという。それほどの人であったから、当然音楽をも手話により、生きた指や手の動きで表現しようとしたのであった。
そして現在では、手話の歌というのは全国的に行われ、それによって初めて手話に触れる児童たちも非常な数にのぼっている。しかし、ろうあ者そのものは、すでに述べたように、ふつうの歌集にある歌を手話で歌ってくれるようにといっても、そもそもメロディーがわからず、伴奏が聞こえないのであるから、はやさもはっきりしないから当然、健聴者のようにメロディーに合わせられないのである。よほど繰り返しメロディーに合わせて健聴者とともに練習するのでなかったら、健聴者と一緒に歌おうなどといっても、たいていのろうあ者は困惑するだけであろう。
このように、手話の一般的な歌というのは、手話の世界を健聴者に橋渡しするひとつの手段として用いられてきたし、現在もそうであるが、ろうあ者自身は一般の歌集の歌をいきなり手話でするということは、音の早さも十分分らず、メロディーも聞こえない世界にいるのであるから、できないのが普通である。
そのなかでキリスト者となったろうあ者だけは、繰り返し教会で讃美を手話で歌うために、その表現や歌詞にも慣れているので、好んで自分の信仰的な思いを手話にたくして表現できるし、健聴者とともに歌えるのである。
手話の歌がなかったら、例えば、私たちのキリスト集会にも常時二名の聴覚障害者が参加しているが、その聴覚障害者たちにとって、讃美の時間は歌えず、メロディーも聞こえないし、ほかの人たちが歌っていても、単に口がぱくぱくしているだけで何にも伝わってこない。しかし、手話の讃美があるからこそ、毎週の礼拝や家庭集会においても健聴者とともに讃美をすることができるのである。
全盲の人は絵もそれよりはるかにすばらしい大自然の美しさに触れることはできない。夜空の星も見ることができない。しかし、その大空や雲、谷川、あるいはさまざまの風景に接して、それを言葉で効果的な言葉を用いて説明し、草花であればその美しさはわからずとも、その香りを近づけ、そのすがたに手で触れさせ、樹木でもその幹や葉に手で触れさせることによって、自然の美しさの世界をなんらかの形で伝えることができる。実際そのように私は盲学校教師のときに繰り返し生徒たちに実施してきたが、そうすると、生き生きとした関心を持つようになる生徒が多いのである。それは自然のよさが見えずとも伝わるということを証ししている。また成人した中途失明者を、あるとき、近くの山に連れて行き、その樹木の幹などに触れさせることで、大きな心の転換が生じたと言われた人もいた。
絵画においても、見えないから楽しめないのでなく、その絵について適切な言葉で説明し、手で少しでもその構図とか描かれた内容を示すことで、その絵のもっているメッセージを一部ではあっても共有することができる。このようなことは絵にかぎらず、盲学校教師としては普通にやっていたことであった。
聴覚障害者においても、きこえないから音楽は無縁だ、歌は嫌いだ、と即断してはいけないのである。キリストの力はどのようなことにも及ぶのである。
このような音楽と聴覚障害者との関わりによっても、私たちはキリストの大いなる力の一端に触れることができる。それは、事故で寝たきりとなってあらゆる自由を奪われたような人であってもなおキリストへの信仰によって平安を与えられる人がいるし、またハンセン病のような恐ろしい病気で家庭や職業、社会での生活などすべて失われ、自身は病状がひどい場合は、激しい痛みや苦しみがあるうえに、手足の一部を切断したり失明までも生じるといった最も恐れられた病気であるが、そのような病気になってもなお、キリストのいのちを与えられた人は、深い喜びを実感するという人たちが起こされてきた。
音楽のうるわしい世界から遮断されたろうあ者においても、信仰によって讃美という歌を健聴者と共有できるようになることも大いなるキリストのわざなのである。