二種類の宇宙
先頃、一人の日本人が、「宇宙」に四カ月半ほど滞在して帰ったということで、大きく報道されていた。しかし、こうした報道で多くの人は、そこで用いられている用語、「宇宙」というのをどの程度のところと思っているのだろうか。
ふつうの人の感覚では、宇宙というと、まずあの夜空の星空の世界である。あの星空ですら、銀河系宇宙に属するものであり、太陽系のある銀河系宇宙のようなものが、宇宙には、数千億もあると言われている。
しかも、その一つの銀河には、太陽のような星が二千億個もあるという。宇宙というのは、こうした広大無辺の世界を意味するものである。
しかし、新聞で宇宙に滞在してきた、と報道されたりするとき、その宇宙船なるものは、地球からわずか四百キロほど離れた上空にすぎない。四百キロというのは、東京から大阪までの直線距離がそれに相当する。
夜空に見える最も近い星ですら、光の速さでも四・三年も要する。最も遠い星は、地球から130億光年という想像を絶する距離にあるとされてきたが、ごく最近これよりもっと遠い、一八〇億光年のかなたにある超新星が二つ発見されたという。
しかし、宇宙船の高さの400キロなら、光の速さでは、〇.〇〇一三秒あまりしかかからない。
このように考えると、宇宙船とか宇宙に滞在してきたと言っても、あの夜空の星空の空間に滞在したなどというのとは、根本的に違ったことなのであって、地球の文字通り表面すれすれのところにいたのにすぎないのである。こうした表現は、本当の宇宙の全体的な内容から見るなら、余りにも誇大な表現だというほかはない。
さらに、物理的な宇宙とは別の宇宙があることを、大多数の人たちは考えることもないし、マスコミでも取り上げない。それは精神の宇宙である。
それに関して、思いだされるのは次のことである。
私は大学三年のころ、物理学者かつ思想家としても有名であった武谷三男が大学に講演に来たので聴講したことがある。京大の法学部の大きな階段教室で、たくさんの学生や教官たちが聞きに来ていた。武谷は、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一らと共に、日本の代表的な素粒子物理学者ととして知られていたが、他方では、「弁証論の諸問題」という著書でも知られた思想家でもあった。
私自身は化学科であったけれども、最も親しい友人が湯川秀樹を担当教官とする物理学科の素粒子の専攻に属していたり、学生運動にかかわっていたときに立場は違っても真剣に議論した相手が、坂田昌一の息子であったりしたため、よくそうした物理学者のことや彼らの思想について議論したものだった。
その武谷が講演した内容で、一つはっきりと覚えていることがある。
それは、「地球や星の宇宙と違ったもう一つの宇宙がある。それは精神世界の宇宙であり、それは外なる宇宙にも劣らない広大なものだ」と言われたことである。
私自身、星のまたたく外なる広大な宇宙がはるかに無限に広いと思っていたし、内なる精神の世界がそれと同じような無限の広大な宇宙だ、などとは考えてもいなかったこと、そして唯物論者であった武谷が、そのような精神世界の深淵さを、大学の大勢の聴衆たちを前にして言ったことに驚かされ、それは四十年以上経ったいまも、その講演の状況が思いだされるほどである。
当時私はまだ、キリスト教には全く触れておらず、学生運動が嵐のように吹き荒れるなか、マルクス主義関連の思想がまじめな多くの学生の心をとらえていた。私自身も多くのそうした学生たちと議論し、それに関連する本も読んだ。
しかし、私はプラトン、ソクラテスのギリシャ哲学にて初めて哲学の世界に触れて、深く動かされ、周囲のほとんどの学生たちとは違った考え方を身につけはじめていた。
だが、武谷三男は唯物論の思想家であったから、精神の世界の深淵さなどに触れないと思い込んでいたので、いっそう驚かされたのであった。
その後、キリスト教信仰に導かれ、精神の世界、霊的な世界は広大な宇宙であって無限に深く広がっていることを知らされていった。
パウロが第三の天にまで引き上げられた、と言っているのも、そうした広大な霊的宇宙の高みに引き上げられたことである。
また、ダンテが、その代表作である神曲によって、地獄篇、煉獄篇や天国篇を通して、広大な精神世界を描いたのもまた、精神の宇宙の広大さを深く示されたゆえであった。
聖書のすべてはその精神的、霊的な宇宙について記された書物であると言えるのであって、いかなる物理の本よりも根源的な宇宙を描いたものである。それはこの目に見える宇宙の限界をも見据え、新たな天と地の創造をも含めており、数式で扱う物理学では到底及び得ない深淵な世界、時間と空間を超えた世界をも含めて記されている。
星のまたたくあの宇宙空間は、完全な死の世界である。真空であり、危険な放射線があり、太陽の熱など届かないので、マイナス二七〇度といった温度になる。宇宙に浮かぶ月の世界では、昼間は、一一〇度、夜はマイナス一七〇度程度になるという。月は自転しているから、太陽の熱が蓄熱と放射を繰り返すので、この程度の温度であるが、もし月の自転がなかったら、もっともっと暑さと寒さの温度差は大きくなる。その上に、事実上の真空でもあるから月の世界はまったくの死の世界であることには変わりがない。
また、宇宙船のような重力がないところでは、人間の骨はどんどん溶けていく。毎日何時間も運動して骨の溶けるのを防いでもなお、無重力のなかで四カ月あまりいただけで、地上に帰るときちんと歩けないほどに骨が溶けるし、今回の宇宙飛行士も一カ月半ほどもリハビリする必要がある。
このように、どこから見ても、宇宙というのは人間のいのちの世界ではなく、死の世界なのである。
だが、精神の宇宙、霊的な宇宙は、そうした世界とはまったく逆に、命に満ちあふれたところなのである。
そして、物理的な宇宙の世界像は、圧倒的多数の人たちはだれもじっさいに計算したり実験したりして確認できない。ほとんどの人たちは、理科系の学者も含めてみんな、きわめて一部の物理学者の実験や計算などを信じているのである。またその一部の学者であっても、宇宙の起源とその終末に関しては、これまた信じているといわねばならない。そこで計算に用いた物理学的法則や推論、数学的真理などが永遠であるとか、それが間違っていないと信じてやっているのである。
このように、信じるということは、物理的宇宙を考えている場合でもその根底にある。そして、その宇宙へと行ける人、それがたとえ宇宙とは名ばかりの、地球の数百㎞上空のような表面と言えるところであってもそこへ行ける人は、きわめて少数であり、体力や学力、知能、健康などさまざまの能力が要求され、長い訓練の歳月が必要となる。しかも、打ち上げまでに、巨額の国家の費用がかかる。そしていよいよ選ばれても地球から打ち上げのときに失敗すれば、すべては一瞬にして失われ、死にいたる旅路となってしまう。
精神的(霊的)宇宙の世界への旅はまったくことなる。
この霊的な宇宙へと導かれていく場合にも、また信じることが出発点にある。しかし、そこへ行くには、何も体力も知能や健康、学力など必要でない。長い訓練も要らない。
ただ、幼な子のような心をもて神を仰ぐだけで足りる。そしてその霊的宇宙に滞在するほどに、力が与えられる。
物理的宇宙の滞在のように、だんだん骨という身体を支えるものが溶けていき、そのまま滞在を続けていたら、力も抜けていき、人間としての機能に重大な悪影響を与えるのとは正反対なのである。
聖書を深く学ぶことは、精神の宇宙を旅することである。
これに関連して、宇宙の旅をテーマとする、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という有名な作品について考えてみよう。
これは精神的な宇宙への旅を物理的宇宙の旅とかさねて描いた詩的作品である。しかし、この作品の銀河鉄道の旅の最後の部分はどのような意味を持っているであろうか。
それは、銀河鉄道の行く手の描写が暗示している。
…天の川の一とこに大きなまっ暗な穴がどおんとあいているのです。その底がどれほど深いか、その奥になにがあるか、いくら目をこすってのぞいても何にもみえず、ただ目がしんしんと痛むのでした。
ジョバンニがいいました。「ぼく、もうあんな大きな闇のなかだってこわくない。きっとみんなのほんとうの幸いを探しに行く。どこまでもどこまでもぼくたちはいっしょに行こう。」…
「カムパネルラ、ぼくたちいっしょに行こうねぇ」ジョバンニがこういいながらふりかえってみましたら、その今までカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形はみえず、ただ黒いビロードばかりが光っていました。
ジョバンニは、まるで鉄砲玉のように立ち上がりました。そして誰にも聞こえないように窓のそとにからだをのりだして、力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもうのどいっぱいなきだしました。もうそこらいっぺんにまっくらになったように思いました。…
これが、銀河鉄道を行く列車の記述の最後にある内容である。行く先はまっくらな大きな深いところ、そこへ行こうとしている。いっしょに行こう、と言っていた本人からその言葉に反して一人そのまっくらなところへと身を投げていったのである。
これは、「銀河鉄道の夜」という映画作品においては、銀河の列車が、その真っ黒い底知れない闇に向かって突進していく様子が劇的に描かれているのでとくに印象的である。
暗い闇の底知れないところに、一緒に行こうとしてもそれは行くことのできない闇へとカムパネルラは飛び込んでしまった、そして一面にまっくらになったように思った、という実に暗い描写が、この有名な作品の銀河を行く列車の最後の記述になっているということ、それは何を意味するだろうか。
そして、この映画作品のふたりの主人公には、まったく笑顔がない。どこか憂いと悲しみを帯びた表情ばかりである。
この作品は、自分を犠牲にするような愛へ言及がある。しかし、それは人間の持つヒューマニズム的な愛であるゆえに、そのような愛をもっていきようとするとき、この世のまっ暗な世界へとただ一人で飛び込んでいくようなことであり、それにもかかわらず、そうした愛がしばしば受けいれられないし、実を結ばないという悲しみがこの作品を包んでいる。
これは有名な作品ではあるが、このような作品によって、本当の力とか喜びが与えられるとは到底思えない。私自身子供のときに初めて読んだときに何か不可解なもの暗いものを感じたのであった。
漱石や鴎外、芥川といった日本の著名な文学にあっても、そこに幼な子らしい純真な喜びや、澄みきったおおぞらのような世界が描かれていない。永遠の力や不滅の太陽のような輝かしいものが内容とされていなくて、どれも何か暗いもの、複雑なもの、そして真の光や愛を知らない世界のことしか書いていないと感じられる。
それに対して、聖書の世界は、霊的な宇宙への旅の最善の導きの書なのである。そこには、さまざまの星(信仰に生きた人たち)があり、暗雲がたちこめている状況もあり、罪に支配されてしまった人間の姿も記されている。
しかし、旧約聖書において魂の世界を最も直接的に表現している詩篇において、最後には、神を賛美しよう、という壮大な合唱で終わっている。
そしてこの世の終わりにおいて、大いなる明けの明星(キリスト)が輝き、新しい天と地(霊的な新たな宇宙)が創造され、そこでは、すべての闇の力が滅ぼされ、いのちの水の川が永遠に流れ、神である主が永遠の光となるという驚くべき命に満ちた世界が私たちに示されているのである。(黙示録二一の23, 二二の1~5など)
聖書こそ、時間や空間をも越えているゆえに、一三〇億光年の彼方の星を含む宇宙をも超えた、霊的宇宙の消息をあふれるばかりに記した書物であり、どんな人でも、その広大ないのちと祝福の世界である宇宙へと招待されている。しかもその宇宙へはいっていくには、ただ幼な子のような心をもって、神とキリストを信じるだけでよいのである。