リストボタン死と命

死を前にして、私たちは何を一番考えるでしょうか。
命のはかなさです。どんなに力ある者も、権力者も、天才や資産家でも、すべての人を同じように襲ってくるのが死です。生涯に長い短いという差はあります。鶴は千年、亀は万年という言葉がありますが、じっさいには、それぞれ数十年しか生きられないのです。(亀は最高で175年、鶴は動物園で飼われていたら50年から80年ぐらい、野生なら30年ぐらい生きるという。)千羽の鶴を折る それは、一日折るたびに一年長生きできるといった言い伝えもあるといいますが、到底千年も生きることはないのに、そのような言葉が広く知られているのは、人生50年という短い時代にあって、その長さへの願いが反映した言い伝えと思われます。
犬や猫は15年前後、ウマも20年程度ということです。
その点では、植物も屋久島の杉が七〇〇〇年と言いますが、天体の何十億年という年齢に比べたらほんの一瞬のようなものです。
太陽は一〇〇億年ほどの寿命だから、あと46億年ほどだといいます。
人間はほかの被造物よりすぐれたものとして創造されていますが、短い命を私たちは死に向かって歩んでいるといえます。
若いときには、希望がある、といっても、その希望がかなえられる人はごく一部であるし、もしかなえられたとしてもその後は、みんな老齢となって死に向かいます。
そうした現実のなかで、死を越えるものこそ、最大の希望であり、力なのです。医学も、経済問題も政治も、スポーツや演劇などどんなものも死に打ち勝つことはできないのです。長寿ということでもし仮に人間が何百歳まで生きるようになったら、それは食料不足、医療不足、施設不足で全体に死が近づくことになります。
このように、いかにしても、死から免れないのがこの世界です。
そのような中にあって、その死に対する勝利を宣言してきたのが、キリストです。キリストが十字架で処刑されたのは、心の中が死んだようになって善いことができない、という現実の人間をその罪を赦すことによって精神的な死、霊的な死から救い出しました。さらに、肉体の死後も、キリスト自身が復活して、死が終わりでなく、神のみもとに帰ることだという革命的な真理を世界に示したのです。
そのことを、この聖書の箇所は言おうとしています。
ふつうのパン、食物をいくらたべても必ず人は最終的には死にます。しかし、まったく性質の異なるパンがある。それが神から直接に人間に与えられた食物であり、それがキリストだと言われています。そのキリストを魂の救い主として信じて受けいれるとき、たしかに私も新しい命をいただいたのを実感したのです。
それが無数の人たちに実現したからこそ、今日までキリスト教の信仰は世界に広がることができました。
ただし、生きている間、悪いことをして悔い改めもしようとしない人がそのまま赦されるということは記されていません。
だれでもさまざまの罪ー言葉や行い、あるいは心のなかでの罪を犯してきました。その罪をキリストが十字架にかかるという苦しみを受けることによって、私たちに罪の赦しを与えて下さいました。さらにキリストの復活の命を受けて、肉体の死後もキリストと同じように栄光あるものと変えられて神のもとに永遠の命を与えられるということを信じています。
これこそ、この世の最大の希望、いつまでも消えることのない希望です。
この世のできごとを見ているだけでは、決して神の愛は分からないことです。 罪の赦しを実感した人は、たしかに神がおられ、神の愛があるとわかるようになります。その神の愛が、私たちを変えて滅びることのない身体に変えて復活させて下さるのです。
これが決定的なできごとであったゆえに、復活を記念し、復活の命を与えるキリストに礼拝を捧げる日として、日曜日に休むようになったのです。キリスト教が広がったのも、単に教えでなく、この復活の命が与えられたゆえに、それを何としても伝えたいという切実な願いが生まれて、世界に伝わり、差別をなくし、病人や障害者たちへの配慮という福祉の発想も自然に生まれてきたのです。
それほど復活ということは、世界の歴史に大きな影響を与えてきました。
病気による死、事故や災害などによる死は悲しみをもたらすだけですが、そうしたいかなる死であっても、そこに復活の希望を持てるように、私たちも罪を知って悔い改め、十字架の赦しを受け、そして復活の希望を与えられて歩みたいと願います。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。