本当の新しさを求めて
この世にはつねに新しいことが生じている。ニュースはその字のとおり、多数の新しい(NEW)ことの報道である。しかし、それらを知って、心まで新しくされる、という場合はごく少ないであろう。逆に、さまざまの事件や事故などの報道には、心に暗いもの、重いものが沈んでいくことも多い。
この世の新しさは、魂を新しくするものではない。一時的にそのように思えてもすぐにそれは古びていく。
本当のニュースとは、つねに新しいものを実感させてくれるものである。そしてそれはいつも見ている、なんの珍しいこともないようなもの、例えば、庭の木々、青空、白い雲、風にそよぐ木々、葉の音など、それらからつねに新しいものをくみ取ることができる。
それらの中にも、常に「ニュース」がある。神の国からの新しきメッセージがそこに込められている。私たちが神の国を少しでも知っているときには、そこから絶えず波動のように打ち寄せてくるものを感じる。
神は万能でありかつ無限であるゆえに、はてしなき古くからのものも今もたたえているとともに、限りない新しさをも同時に持っている。そして愛においても無限であるゆえに、たえず私たち悩める者、苦しむ者へのメッセージを投げかけてくださっている。
主イエスが、神の愛は太陽のように、また雨のように、どんなひとにも同じように注がれていると言われたとおりである。
山の大地から湧き出てくる水、それは常に新鮮である。そのようにもし、私たちの内部にそのような泉のようなものがあるならば、そこからは常に混じり気のないもの、新鮮なものがあふれてくる。主イエスが、私を信じる者には、その魂の内部から水がわきあふれ、流れだすと言われた。ここに新しさの原点がある。
この内なる泉を与えられるときには、毎日目にするような周囲の身近な自然であってもそこにつねに新しいものを実感する。それは、そうした自然には、神の愛や真実のお心がそのまま刻み込まれているからである。
外面的には単調な生活であっても、内面的にはつねに神の国からの新しいものを実感しているひとは、その表情や目の輝きにおいてたしかに異なるものが生じてくる。声の感じも違ってくる。
このようなことは不思議なこと、驚くべきことである。声は、声帯の振動によって出されるが、その声帯や、表情を作る顔、目なども、水、タンパク質、脂質その他の複雑な有機化合物等々によって作られているのであって、そのような物質的なものが、目には見えない心の状態をなんらかの形で反映してくるのは、いったいなぜなのか、じつに興味深いことである。
私たちの魂の内奥が一つの泉となる、それはいかにしてなされるのか。それは神ご自身ともいえる聖なる霊が私たちに注がれたときである。
そういう意味で、聖霊こそは、真の新しさを生み出す根源なのである。
キリストの弟子たちは、主イエスこそが救い主、王であり、神の子だと信じていたが無惨にもとらえられ、鞭打たれ、辱められるのを目の当たりにして逃げ去った。そしてキリストの復活を聞いて、実際にそのキリストに出会ってもなお、古い自分から脱却することができなかった。
そういう彼らを本当の意味で新しく生まれ変わらせ、新しい心と新しい力を与えたもの、それが聖霊なのである。 そのときから彼らはそれまでの恐れ、不安に満ちた人間から、まったく変えられ、命がけでキリストの復活の福音、人間の罪の赦しのために、十字架でキリストが死んでくださったという福音を宣べ伝えるようになったのである。
聖書には、私たちだけでなく、この世界全体―天と地があたらしくされるというメッセージがある。
主イエスは神の国が近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ、ということのなかにすべてを込められた。神の国が近づいてそこにあるならば、その神の国、神の愛と無限の真理によって常に新しくされていくということが同時に含まれているのである。