リストボタン神への信頼と信仰

この世で最も大切なもの、それは何か、と問われて、一般の学校や社会人はどう答えるだろうか。母親あるいは両親、家族、健康、職業、お金、…などが必ず出てくる。
そしてこれらは、たしかに私たちの現在の命にとってきわめて重要なものであることは、すぐに分る。母親や父親がいなかったらそもそも自分は存在していない、生まれてから何年間も最も真剣に世話をして育ててくれたのは多くの場合、母親であろうし、家族の支えもあって成長できたという場合も多い。
また健康は大切なことは言うまでもないし、お金も現在の自分が生きているのはそのお金で衣食住などの基本的なものを購入できているのであるから重要だということもだれでもわかる。
こうしたものの大切さは、子供でも大人でも、また いわゆる善人でも悪人でも、高齢者も社会的に活動している人も、入院している弱いからだの人でもみなわかっている。
しかし、意外なことであるが、これほど大切なことが自明のことなのに、聖書ではこれらの大切さについてはまったくというほど触れられていない。聖書は、最も人類で多く読まれ、歴史的にも数千年を越えて読まれ、人間の生涯を変え、歴史を変える絶大な力をもってきた、それゆえに真理の書であることが歴史を通じて証明されてきた書物のなかの書物である。
その最も真理に満ちた書ではなぜこうした万人が重要だと認めることについてほとんど何も記していないのであろうか。それはこれらが魂を救う力を持っていないからである。
その代わりに何を聖書では最も大切なものとしているのだろうか。 それが、信仰、希望、愛なのである。
そしてこの三つの根底にあるもの、出発点にあるのが信仰である。
信仰というと、特定の信仰箇条を信じていること、例えば、復活とか十字架によるあがないを信じていることだと思われている場合が多い。たしかにそれらを信じることはきわめて重要であり、キリスト教信仰の最重要部分をしめている。
旧約聖書の時代にはキリスト以前であるから、もちろん復活とか十字架の信仰などはなかった。しかし、その旧約聖書の時代から一貫して流れているのは、そうした特定の信仰箇条を信じるということでなく、神への信頼ということなのである。
その聖書の最初から、重要なこととして出てくるのは、神に従うこと、神の言葉に聞き従うことである。言いかえると、神に対して真実であることだ。
単に神の存在を信じる、これは当然のこととみなされていて、あえて、神の存在を信ぜよ、などとは言われていない。神を信じたうえで、その神の言葉に従うかどうかが、最初からの決定的な問題となっている。
人間が大いなる苦しみと嘆きの谷、闇の道へと追いやられたのは、神の言葉に聞き従わなかったからであった。そのことが、聖書の最初にアダムとエバが神の言葉に従わなかったゆえに、喜ばしい祝福された生活から追いだされたことが記されている。 彼らは神の存在を信じていなかったのではない。神こそが創造者だということはよくわかっていたのである。
しかし、その神の言葉に従おうとしなかったのである。神に対しての真実なあり方が持てなかったということになる。
その後も、神の言葉に従うことをしなかったがゆえに、ノアの時代には大洪水が起こって人間が滅ぼされるという大事件が生じた。
その後、アブラハムが現れた。彼の幼少時代などは一切知らされていない。彼の生涯が記されるのは、神の言葉がアブラハムに臨んだときである。
神は人間にとって完全な愛と真実を持ち、正しいことに満ちたお方である。
それゆえに、その神の言葉こそが決定的なものといえる。
それに背くということは、愛と真実や正義に背くことであるゆえに、人間にとってあらゆる不幸の根源となっていく。
彼にとっても最も重要なことは、ここでも単に神の存在を信じるということでなく、神の言葉に従っていくということであった。聖書はアブラハムに関する記述において、その最も重要なことから書き始めている。
そこには、語りかけた神が真実であるということへの確信があった。信仰があった。それゆえに故郷を捨ててまったく未知のところへと旅立ったのである。
語りかける神への真実さ、その重要性はこのように聖書において最初から記されている。その真実を失うとき、神に従わず、まちがった神々、あるいは人間に従うようになる。
そしてアブラハムは、神が「あなたの子孫は星のようにふやされる」と言われたことを、そのまま信じた。すでにアブラハムは老齢となり、自分には子供はない、自分の家を継ぐのは、別人だと思っていたのである。
しかし、それでも、アブラハムは神がそのような本来有り得ないと思われるようなことを語りかけたにもかかわらず、その神の言葉を信じた。
こうした信仰は決断である。疑う方を取ることもできる。神の言葉を信じる方を取ることもできる。
神を信じる方を選びとるということは、高い台から飛び下りるような決断なのである。
そこには神の万能、全能に対しての全面的な信頼があった。そのような信頼を神は喜ばれ、アブラハムを正しいものとみなされた。何かのよい行動をしたから、神があなたは正しい人だと認めたというのでなく、ただ神の全能を信じ、神の真実を信じたゆえに、本来なら考えられないことをもそのまま信じたこと、それを神はとくに喜ばれたのであった。
そして、アブラハムは神との正しい関係にあると言われた。このように、まだモーセが受けた律法の時代よりもはるかに昔にすでにこのように、神との正しい関係は、何らかの行い、律法的な行為などによることなく、ただ神であるからその言葉をそのまま信じるということ、神への全面的信頼が神によって一番受けいれられることだということが示されている。 このことは、後に当時の人が考えたよりはるかに重大な意味を持つようになった。
アブラハム本人もそのことは気付いてはいなかったであろうし、当時の人たちも、ずっとその後の人たちもキリストの時代まで、この短いひと言がいかに重要なものであるか、歴史をすら動かすほどの力を秘めているのを知らなかったであろう。
後の時代になって、主イエスが最も喜ばれたのも同様な信頼であった。

…さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。(マタイ福音書8の5〜10)

主イエスの言葉ならば、必ずきかれる、イエスは神と同じようなお方だと、本当に信じきっていなければこのような返答は決してしない。主イエスへの全面的な信頼は、イエスの語る言葉への信頼と同じものであった。たしかに私たちも普通の人間関係において、ある人を十分に信頼しているときには、その人の言葉をも信頼するものである。
神を信じるというときには、神の言葉を信じる、主イエスを全面的に神の子として、すなわち神と同質のお方だと信じるというならば、主イエスの言葉をも信じるのである。
このような単純な信仰、それゆえに力ある信仰こそ、私たちが持つべき信仰だと主イエスは言われている。そしてそのようにまっすぐな信頼の心をもって神を、あるいは主イエスを見つめる心こそ、幼な子のような心なのである。

…イエスは乳飲み子(*)たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ福音書18の16〜17)

(*)乳飲み子と訳された原語は、(ブレフォス)brephos で、まだ生まれていない胎児や生まれたばかりの赤子、乳児などを指す。英訳でも、babyと訳されている。(NIV、NJBなど)あるいは infants (KJB,NRSなど)で、この語も乳児、まだ歩けない赤子を指す。
また、「子供」と訳されている原語は、パイディオン paidion であって、これも、例えば、マタイ福音書でイエスが生まれたときに、その星を見てイエスを訪ねてきた博士たちの記述にある「幼な子」と訳されたのがこのパイディオンである。ここでは、生まれたばかりのイエスを訪ねてきたのであるから、乳児と考えられる。

…彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。…そして、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、…(マタイ2の9〜11)

主イエスが、神の国は、幼な子(乳児)のような者たちのものである、といわれたのはとても当時の人にとっても意外なことであったであろう。
そのようなことは、旧約聖書全体においても、またギリシャ哲学者の英知に満ちた言葉にもまったく見られないし、論語などにもない。
乳児(幼な子)とは、疑いの心など全くなく、母親をまっすぐに見つめる。信頼しきっている。まさにその点によって、主イエスは、神の国に入る人の持つべき特質だとされたのである。
主イエスが、神を古くから知らされてきたイスラエルの人たちの中にすら、ローマの百人隊長のような徹底した主イエスへの信頼は見たことがない、と言われた。このことは、やがてイスラエルの人たちの大多数が、イエスを救い主として受けいれないのと対照的に、イスラエル以外の人たちがイエスを救い主であり、神と等しいお方であると受け止めるようになるのを預言する出来事にもなっている。
神の存在を単に信じるということだけでは、神に対する真実な姿勢とはいえない。一貫して言われているのは、神の言葉に従おうとしているのかどうかである。
旧約聖書における預言者たち、アモス、ホセア、エレミヤ、イザヤ…などがみな共通している強調点は、単に、神の存在を信ぜよ、ということではない。
神に立ち返れ、ということである。言いかえると神の言葉に従え、ということになる。人々は表面的には神殿に行き、儀式的なことは行う。しかし、心はまったく神から離れている。
そのような点では、旧約聖書のなかで、詩篇は名も知られていない人たちの深い神への信頼が最もあざやかに記された書である。ほかの旧約聖書の書物では、アブラハムやモーセ、ヨシュア、ダビデ、預言者など特別な人、きわめて一部の神に特別に選ばれた人しか、その心のうちは分からない。一般の多数の人たちは神との関わりがどうであったのか、たいてい細かなその信仰の心はわからない。
しかし、詩篇においては、前半にはダビデの詩と題されているのが多いが、それも必ずしもダビデのものではなく、ほかにアサフ、コラの子、モーセなどの名を関した詩も一部にあるが、後半の詩には無名の詩が多く含まれている。
それゆえに、長い年月の間の多くの人たちの詩がおさめられていると考えられる。
一般の人たちのうち、とくに神に近づけられた無名の人たちの信仰が多く含まれ、これは神への真実な心、信頼の心に満ちた内容となっている。

…主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。(詩編 41の5)

…主よ、憐れんでください、わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも苦悩のゆえに衰えていきます。(詩編 31の10)
…神よ、わたしを憐れんでください御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。(詩編 51の3)

このように多くの詩篇において、神への真実な叫び、祈りがある。このような切実な言葉の出された背景には、神にのみまっすぐに向かう魂の姿があり、それが幼な子のように神を仰ぐ姿と重なるのである。
こうした詩篇に現れた神への徹底した信頼の心、それが福音書に数百年をへて、イエスに向かう人々の心となってふたたび現れている。
盲人やハンセン病と思われる人たち、さらに中風やほかの病で苦しむ人たち、さらに身内のもの家族の死に至る病などに関して、主イエスへの切実な願いや叫びはまさにイエスへの全面的な信頼の心がなければ有り得ないことである。
「主よ、憐れんでください!」 と弟子たちが制止するのも聞かずに、必死でイエスによりすがろうとするのは、旧約聖書の詩篇の作者の神への叫びと深く通じるものがある。

…「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられているのです。」と叫んで懇願したがイエスは何も答えなかった。その女はそれでもなお、叫びながらイエスについて行った。(マタイ15の21〜)

あるいは、中風の人をイエスのもとにかついで運んできた。何とかしていやしてもらいたい、中風の人の大きい苦しみがいやされるようにとの切実な願いによって、彼らは多くの人たちのゆえに家に入れないのを知って、屋根をもはがしてイエスの前にその病人の床をつり降ろした。
そこまでの熱意、それは周囲の人の当惑や非難などを浴びせられても、揺るがないようなイエスへの強い信頼であった。
キリストが十字架で処刑され、復活した後には、聖なる霊となってふたたび地上に来られたといえよう。そしてその聖なる霊にうながされ、使徒たちは福音を宣べ伝えるようになった。
そこでは、復活を信じ、十字架によるあがないを信じることが出発点となった。そしてそのことを信じて、イエスを救い主として信じるとき、パウロがそうであったように、生きてはたらくキリストが信じる人の内に住んでくださるようになり、また信徒たちの集まりのうちに復活のキリストがおられるようになった。
そこから、最初は復活を信じ、十字架を信じてキリスト者となったひとたちも、生けるキリストに従うことが重要なことになった。 聖霊によって導かれる重要性が生じたのである。
このようにして、まず復活や十字架のあがないを信じることからはじまった場合でも、福音書で示されているように、キリストに対する真実なあり方、幼な子のようにキリストの全能を信じること、その言葉に従っていくことが求められていくのである。


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