リストボタン主は待っていてくださる

旧約聖書には、救われた状態ということについてしばしば記されている。現実の状況は、神に背き、厳しいさばきを受けて、外国からの侵略、町の破壊や人々の困窮などがさまざまに記されている。それらは、王や指導者たち、そして人々が一番大切な正義と真実な神に立ち返ることなく、まちがったものを第一としているということからくる、そのことを預言者たちは一貫して述べている。
そのような暗い状況、周囲には混乱と破壊が満ちているような、国が滅んでしまうというような状況にあっても、そこに後には神の御手が差し伸べられて、救いが与えられるということがさまざまに記されている。
次の箇所もその一つである。

…主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち
主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。

まことに、主は正義の神。
なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
…主はあなたの呼ぶ声に答えて
必ず恵みを与えられる。
主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。
わが主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。
あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく
あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
「これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け」と。(旧約聖書 イザヤ書30の18〜21より)

ここには、救われるとはどういう状態なのかが、神からの直接の啓示を受けた預言者が語っている。
それは、待っていてくださる神、答えてくださる神を持つということである。
言いかえると、生きた応答をして下さる神を実感しつつ生きることができるようになる。
主を待ち望むときには、そのような神が与えられる。
このことは、新約聖書の時代に、キリストが復活して、聖なる霊となって信じる人たちを導かれることをすでに預言しているのである。
ひどい苦しみが続くとき、神は眠っているのか、神はいないのか、もしいるとしても私のことなどまったくお心に留めてはいないのだ…等々の思いが心によぎる。
しかし、そうした試練のときも、実は主が待ってくださっている時なのだ。私たちがその苦しみによって本当に神だけに立ち返ろうとすること、苦しみによって小さなことから離れ、人間に頼ることがどんなにはかないことかを深く知るためのときを待っておられる。そして時至って私たちのところに来てくださる。
これはルカ福音書にある、放蕩息子のことを思いださせる。
息子は、金をたくさんもって家を飛び出し、さんざん遊び暮らした結果生きることが困難になってきた。それほどの苦しみにあって初めて息子は父親を思いだし、自分の罪深さを深く知らされ、どんな待遇であっても、たとえ奴隷がするような仕事であってもよいから、立ち返って帰ろうと思って、帰途についた。
父親は、息子がまだ遠くにいたにもかかわらず、走り寄って迎え、抱きしめて最上の食物を備えてやったという。
ここには待ち続けてくださっている神のお心がある。
はじめにあげた聖句において、神は「恵みを与えようとあなたを待つ…」と言われている。憐れみを与えようと立ち上がられる、とある。これはそのまま放蕩息子の父親の姿である。
こうした待ってくださる神のお心は、また聖書の最後の書、黙示録にも記されている。

…見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(黙示録3の20)

主とともに食事をする、というわかりやすい表現でその祝福が言われている。待って下さっている主に向かって心の扉を開くとき、私たちは主イエスの霊的な食物をともにいただける、というのである。
神は、災いのパンと苦しみの水を与えられた。しかし、それは人々が神に背き続け、滅びへの道をたどっていくばかりであったために、大きな警告をするためであった。
その警告に立ち返るとき、そして人間でなく神をのみ、仰ぎ続けるとき、主は私たちにとって、それまでの答えて下さらない神、裁きの神から、答えてくださる神へと、さらに背後から、私たちに語りかけてくださる神へと変わっていく。
前には、主があって、導いてくださること、それはモーセの出エジプトのときに鮮やかに示されている。

…主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も進むことができた。(出エジプト記 13の21)

主イエスもたしかに私たちを導いてくださることを強調している。

…羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。羊はその声を知っているので従っていく。…一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。…私の羊は私の声を聞く。私は彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私はかれらに永遠の命を与える」(ヨハネ10の1〜27より)

そしてこのイザヤ書においては、さらに神は私たちの後ろから「こちらが道だ、右に行け、左に行け」と語りかけてくださる愛の神として感じられてくるのが預言されている。
前に立って私たちに呼びかけ、語りかけ導いてくださるだけでなく、後ろからも具体的に私たちの進むべき道を知らせてくださるという。
私たちは何歳になっても、またキリスト教信仰を与えられて10年、20年いや50年経ってもなお、さらに経験したことのない苦しみや病気の重さ、あるいは孤独に悩むことが生じていく。
そのような人間の実態にあって、決して私たちを見捨てることのない、愛の神のすがたが私たちの前に浮かびあがってくる。
私たちも主を待ち続ける。復活の主イエスは、使徒たちに「約束のものを待ちなさい」(使徒言行録1の4)と命じられた。そして弟子たちは、「夫人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(同14節)とある。
いつまでなのかその時は示されなかった。 これは私たちも同様である。すべての問題の解決をしてくれるのは、ただ神であり、主イエスであり聖霊である。その聖なる霊を私たちも待ち続ける。
今与えられている者も、さらなる聖なる霊を与えられ、それぞれが抱えている困難な問題が解決されるようにと願いつつ。


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