リストボタン罪のない人はいるかー災害の意味

突然の災害、事故、あるいは犯罪に巻き込まれた方々、罪もない人がなぜそのような目に遭ったのか、と言われることがよくある。
この場合、罪のない、というのは法律的な罪がないということで、人の物を盗ったり、傷つけたりしていない人ということを意味している。
だが、聖書においては、そうした目に見える法律的な罪ももちろん指摘しているが、さらに深く掘り下げて、そのような行動を起こさせる心をも問題にしている。
実際に何らかの法律的な罪を犯さなくとも、心でそのような考えを抱いたらそれが罪である。
人を殺していなくとも、ある人を憎んだらそれだけで、人を霊的には殺したと同然である、というほどに厳しい見方をしている。

…あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人を殺す者であり、そのような人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。(Tヨハネ 3の15)

私たちすべての人が、そのような意味での罪を持っているということは、身近なたった一人に対する自分の心の動きをみるだけでわかる。
家族や職場、あるいは何らかの集まりで出会う人、または行きずりの人…そのような人に対して私たちはどれほどの愛を持っているか、という一つのことで自分がいかに愛を持っていないかーすなわちいかに罪を持っているかがわかってくる。
どのような状況にあっても、だれでも誰かに出会っている。その一人に対して、その人の運命がよくなるようにと、言い換えるとその人に本当の幸いが与えられるように、と祈り願っているだろうか、ということである。
主イエスの言葉で言えば、その人の心に神の国がきますように、あるいは、その人の日々の生活の内にも神の国がきますように、との祈りを持っているかどうかである。
そして、その祈りにおいても、そのような一人に対して、例えば一瞬思いだして祈る、しかしあとは全く忘れている、ということと、一日の内で絶えず思い起こして祈る、ということとは大きな差がある。その人のために祈るというときでも、その人の毎日が祝福されて導かれるように、その家族も主に導かれ、一人一人が悪に誘惑されないように、仕事についている人ならその職業上でのことが主に用いられるように、幼な子があればその幼い魂が主に結びつくように、病気の人なら、いやされるように、またその病気を通してより神の愛に触れ、信仰と希望と愛が深められるように…等々、たった一人に対してもその祈りはどこまでも続いていく。
さらに、その祈りの対象を職場での同僚、キリスト教集会(教会)の人々、県外での関わりある人たち…等々に広げていくときには、限りなく祈りは広がっていく。
そして、自分に何らかのよきことをしてくれた人たちだけでなく、無関係な人、さらには敵対するような人、中傷する人にまで広げていくなら、祈りは際限がない。
このように祈りの対象やその純粋さ、あるいは真剣さをつきつめていけば、こうした愛に基づく祈りが、十分にできている、などと言える人は一人もいないということになる。
それどころか、身近な人への祈りを怠り、周囲の人への当然の感謝もなく、愛のないことにすら気付かず、ちょっとした他人の言葉や、自分を認めてくれない、などと不満とか妬み、反感などを持ちやすいのである。そうでなくとも、周囲の人間に対して無関心であることがあまりにも多いといえるだろう。
私たちの持っている愛など、神の無限の愛に比べるなら、大海の一滴のようなものでしかないと言えるだろう。
ということは、それほどに私たちは愛のない、さらには愛に反している存在だと言える。
愛こそは、神の本質であり、その本質に反することはみな罪ということになるから、私たちの存在は本質的にどこまでも弱く、罪深いものだということになる。
聖書に、次のように記されていることは、このように人間の本性を掘り下げて見ないかぎり、あまりにも誇張した表現だと思われるだろう。
「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行なう者はいない、ひとりもいない。」(ローマ3の10〜12)
このような、人間の現実をどのような書物よりも厳しく、しかも深く見つめることから出発しているのが聖書である。
愛は最も大切、ということは多くの人に、特定の信仰を持っているかどうかにかかわらず、一致した気持ちであろう。たしかに最も大切であるが、その愛というのは、ほとんどの場合、今までにみてきたような罪深い人間の持つ愛であって、その愛は、自分中心であり、愛のお返しがなかったらたちまち消えたり、憎しみや怒りになってしまうようなはかないものであり、実体がないようなものである。
罪のない人はいない、そこからあらゆる問題が生じている。それは私たちが気付かない、人間の心の深層で犯された罪も含んでいる。
今回の原発の問題も、まさにその人間の深いところに宿っている罪が根源にある。権力や金、名誉、快楽、目先の利益を求めるという人間の罪がその根底にあって、今日のような状況が生み出されてきた。
そして、私たちにふりかかるさまざまの災害は、天災であれ、人災であれ、人間全体に深く宿る罪を知らせるため、そこから立ち返らせるための神からの語りかけを含んでいると受け止めることができるが、それだけでなく、およそ私たちが受ける病気や苦しみ、悩みなどあらゆる問題は、じつはこの一点、神に立ち返るようにという神のご意志が背後にある。
「地の果てのあらゆる人々よ、私を仰ぎ望め、そうすれば救われる。」(イザヤ書45の22)
今から二五〇〇年ほども昔、一人の預言者が神の言葉として聞き取ったこの短いひと言は、あらゆる時代のすべての人々へと語りかけられたメッセージなのである。
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