リストボタン沈黙の神

人は、困難な出来事に出会ったときに祈るような気持ちになる。その人が特定の宗教を持っているかどうかを問わず、生きるか死ぬかといった危機的状況にある人が、助かるかもしれないとか、決定的なことが起きようとするとき、人の力ではどうすることもできないから祈るような気持ちになる、ということはだれにでも生じるだろう。
神を信じる者にとっては、苦しい状況に置かれるほどに祈る。祈らざるを得ない。
しかし、そのとき神はすぐに答えてくださらないことも多い。激しい痛みのある病気や不治の病、また、家族の対立といった最も自分に身近なところにある苦しみに直面して、いくら祈っても何も神の声も励ましもまた安らぎも与えられないということもある。
こうした神の沈黙は、聖書にも多く記されている。

…神よ、沈黙しないでください。
黙していないでください。
静まっていないでください。

御覧ください、敵が騒ぎ立っています。あなたを憎む者は頭を上げています。
あなたの民に対して巧みな謀をめぐらし、あなたの秘蔵の民に対して共謀しています。
彼らは言います、「あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が再び思い起こされることのないように」と。
彼らは心をひとつにして謀り、あなたに逆らって、同盟を結んでいます。(詩篇83の2〜6)

この詩は、最初から神に対して真剣な姿勢で、神からの応答を待ち望んでいる。
周囲には敵対する人たちがいて、自分たちを滅ぼそうとしている、という緊迫した状況にある。そのような危機的状況にあって、神に祈るけれども、神は何も答えて下さらない。
このようにこの詩は、神の沈黙が大きな問題となっている。
詩篇には、このような祈りにも答えて下さらない神のことがしばしば現れる。

…主よ、あなたを呼び求めます。
わたしの岩よ
わたしに対して沈黙しないでください。
あなたが黙しておられるならわたしは墓に下る者とされてしまいます。(詩編 28の1)

ここにも、神が答えて下さらなかったら、滅んでしまう。神からの応答こそ命であり、救いである、という切実な叫びがある。
神を信じない人たちは、神からの応答がないために信じようとはしない。自分に対してだけでなく、この世のさまざまの出来事に対して神は沈黙している。何の反応もない。だから神はいないのだ、と言う人は実に多い。
答えてくれる神なら、だれでも今回のような災害を起こしてもらいたくないという気持ちがあるのだから、その願いに答えて災害は起こさないはずだと考えるのである。
神を信じるようになっても、神の沈黙は、大きな試練となるし、信仰から離れるのもこの神の沈黙のゆえである場合も多い。 イスラエルの人たちが、エジプトにおいて奴隷のように扱われたが、彼らは増え広がり、それを恐れたエジプト王によって、生まれた男子はナイル川に投げ込まれていくという民族の絶滅に瀕する状況となった。そのような時に至る四百年もの間、神はまったく応答はしてくださらなかった。
このことは、すでに創世記において示されている。

…時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。
あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、苦しめることになる。」 (創世記 15の13)

このように、すでに、アブラハムに対して外国で奴隷として四百年という長期にわたって苦しむ、神からの応答がないという状態が続くと預言されている。
それほど神の応答がないということは、神の御計画の内に早くからあったのがわかる。
ようやく神からの答えがあったのは、長い年月にわたる奴隷の苦しみの果てであった。

…それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。
その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。
労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。 (出エジプト記 2の23)

これを見ても、神の沈黙が破られるのには時として耐えがたいような長い年月を要することがある。しかし、その間、神は見放していたのではなかった。人間の側にわからなかっただけである。それは神の定めた時があるということである。
このような長い神の沈黙をテーマとした聖書の文書がある。それがヨブ記である。
豊かで平和な生活のなか、突然、財産や子供たちの命が奪われるという予想もしなかった悲劇が襲った。そしてヨブはそれにもかかわらず、神をあくまで信じ続けた。裸で生まれたのだから、裸で帰ろう、という潔い言葉を残している。
しかし、自分の体がひどい病気でさいなまれるようになり、それは夜も眠れないほどの事態となったと思われるが、そうなると食事も入らなくなってくるし、精神的にも不安定となり、肉体の苦痛とあいまってさらに耐えがたくなる。
ヨブもついに耐えられなくなって、自分の生まれた日をのろうほどになった。
その苦しい長い日々、その間まったく神からの応答がなかった。見舞いに来た宗教的な知識ゆたかな友人たちは次々と言葉をかけてきた。しかし何の解決にもならないばかりか、かえってヨブは苦しむばかりであった。
人間からは応答があっても、自分の苦しみをまったく理解してはもらえない。それは応答のようで、真の応答ではないものであった。
相手が自分の考えを一方的に語っているだけなのである。
そのような長期にわたる苦しみを経て、神の時がきて神からの答えがあった。
それは直接に苦しみの意味を教えるものではなかった。ただ、いかにヨブが自分中心に見ているかを思い知らされた。
彼がわからないのは、その突然にふりかかってきた苦しみの意味だけではない。
周囲の至るところに生じている自然の物事を冷静にみるとき、至る所で人間にはまったくわからないことが満ちているのを知らされたのであった。
宇宙のこと、地上の動物や植物のこと、それらの一つ一つは無限の神秘に包まれているのである。
そのような大きなことでなくとも、人間は明日のことすら分からないほどに、万事の意味がわかっていない小さな者にすぎない。
自分が小さき存在であることを示され、そこからすべてを愛をもって支配されている神を知るようになることこそが、私たちの苦しみの深い意味であることを知らされる。
自分が正しいあり方から遠くはずれていること―言い換えると罪深き存在であること―このことを知ることもまた、自分が小さきことを知ることでもある。
沈黙する神、それはどのように信仰の深い場合でも生じる。
主イエスは、ゲツセマネの激しい祈りのとき、夜通し祈られた。うつ伏して祈るという他では例のないような祈りをされ、また血のような汗を流して必死で祈られた。それは沈黙を続ける神からの応答を求めての祈りであった。
「できることなら、この杯(十字架の死)を除いて下さい、けれども私の意志でなく、あなたのご意志をなして下さい」という切実な祈りは、明確な神からの言葉を待ち望む姿勢が現れている。
そのような全身全霊をあげての祈りによって、神はイエスに答えられ、イエスも十字架の道を歩むことを確信された。
しかし、それだけで終わらなかった。十字架の処刑となり、釘で打ちつけられての極限の苦しみに至って、イエスは「わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!」という叫びをあげられた。それは、神が自分を捨ててしまったと思われるほどに神とのつながりが断たれた、と感じられたからであっただろう。それは神の沈黙のゆえだった。
主イエスのように神とのつながりが完全であったお方であってもなお、肉体の激しい苦しみのときには、神とのつながりの実感は消えてしまうということが分る。わからなくなるのである。
しかし、そのような状況にあって人間の側での実感がなくとも、神は応えておられたのであった。それゆえに、死しても復活して神のもとに帰られたのである。
この世界は、一見どこにも神の生き生きとした応答などないように見える。大災害などは、とくにそうである。無惨にも流されていく多数の人たち、どこに神の語りかけがあるのか、それは通常の考えではわからない。
今回のような大きな災害でなくとも、突然の事故や苦しい病気、家族関係の破壊等々、神などいない、いるとしても人間の苦しみに何も答えないではないか、という疑問を持つ人が多いであろう。
これは今にはじまったことではない。はるか昔の人間の歩み以来、こうした謎のような状況は続いている。
そのような状況の中、神がその沈黙を破って、人間に生き生きとした語りかけをされるときがある。 その語りかけられた内容こそが、聖書なのである。
アブラハムに、突然語りかけられた神、そこからその神のことが連綿と受け継がれていった。それまでも、アダムやカイン、またノア、といった人たちへの語りかけがあった。しかしそれは断片的であって、その語りかけが伝えられていったということも明確には記されていない。
アブラハムへの語りかけこそは、その後、現在に至るまで数千年を経て受け継がれてきたのである。
そして至るところで神は沈黙し、何もしない、いるのかいないのか分からない、愛の神など存在などしていない、という洪水のような人間の考えのただ中において、神の語りかけを聞き取る人たちが起こされてきた。
この神の語りかけを知る以前には、どの民族もみなそれぞれ文字通りの沈黙の神々を人間が作ってきた。ちょうど、王や支配者は彼らの支配欲、権力欲や周囲の人間の意志によって作られてきたように、偶像もさまざまの人間の目に見えない力への恐怖と願望が作ってきた。
しかし、そうした神々は何のたすけもしないということは明らかなことである。人間が作った石像や架空の存在、あるいはすでに死んでいる人間を拝むということは、そうしたものを作った人間の意図を拝むことであり、人間を越えるものではあり得ないからである。
人間を越えるものの助けを求めつつ、人間に頼るということになってしまうのである。
沈黙のように見える中にあって、神はとくにイスラエル民族を通して絶えず語りかけてきた。モーセもその中の一人であった。彼も400年にわたる長い民族の苦難の後でようやく神は具体的に特定の人間を選んで語りかけた。
そのモーセにおいても、エジプトの王の命令によってイスラエルの男子はみなナイル川に投げ込まれていく運命となったが、そのときにナイル川に籠に入れて流された子供がふとしたことから、エジプトの王女によって発見され、王子として育てられた。そして成人となってモーセは自分の生い立ちのことを知り、苦しんでいたイスラエル人を救おうとしたが、たちまち追われ、死ぬほどの苦しみに逢いつつ、九死に一生を得て遠く離れた国に逃れ、そこで結婚し、静かな羊飼いとしての生活をしていた。
その間、神は全くモーセに語りかけなかった。沈黙のままであった。特別に選ばれた人間ではあったが、神は死に瀕するような苦難を通らせたのであった。
そうした平和なときのなか、突然、神は長い沈黙を破ってモーセに語りかけられた。人一人いない荒れ野で呼びかけられたのである。
その語りかけこそは、その後のイスラエル民族全体にとって決定的な転機となり、解放の力となり、実際に荒野、砂漠地帯を通って40年という長い歳月をも過ごしつつ、目的の地に導く原動力となった。
はじめにあげた二つ目の詩のように、「神が沈黙しているなら、墓に下る者となる(滅びてしまう)」、言い換えると、あらゆる困難のなかにあっても、滅びずに生きていけるのは、神の語りかけがあるからだということになる。
聖書の全内容は、滅びようとする人間に絶えず神がその愛をもって語りかける、それによって人間が立ち返り、それゆえに滅びずに生きていく、さらにキリストの時代以降では、神が永遠の命を与える、ということを中心として書かれている。
大多数の人間は、こうした語りかける神を実感できないのに対して、一部の人は数千年も昔から、すでに旧約聖書の時代からこの天地に響くものを聞き取っていた。

天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても
その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇19の2〜5)

ここには、この広大な宇宙に響く声、神の言葉を聞き取った人の実感がある。大空の太陽、星、雲、青空等々が神のわざを示すとともに、そこからある種の響き、声を発しているというのである。それは世界の果てに向かう。何のためか、神の栄光とその力を知らせるための語りかけなのである。
ここには自然のさまざまのものが、神からのメッセージを受けて語りかけることが示されている。これは霊的な響き、言葉なのである。
この声やメッセージが身近な自然の草木や谷川の流れなどにもたたえられているゆえに、私たちはそのようなものに接すると、心が平和になり、清められる実感を持つのである。
こうした、言葉にならないことばというべきものとちがって、人間がはっきりと理解できる言葉で語りかけがなされるということ、それは聖書の全体にわたって書かれているのである。
旧約聖書の後半部にみられる預言書、その言葉は、沈黙していた神が特別に人を呼び出して語りかけ、それを人々に告げさせたということである。さらに、そのような預言者の言葉を軽んじ、滅びへと向かっていく人間に対し、長い沈黙を破って神ご自身の本質を備えたお方をこの世界に送られた。それがキリストであった。
キリストによって私たちはだれでもがこの神の沈黙というなかにあって、語りかける神をだれもが知らされるようになった。それは、まず、12人の弟子たちになされた。
12人の弟子たち、それは漁師が半数近くも含まれていた。また当時の人々から忌み嫌われていた徴税人もいた。あるいはローマ帝国に武力で抵抗するようなグループに属する人さえいた。
そうした人たちは、自分の日常の仕事や、反体制の意志をもって活動していたから、神の語りかけなど考えたこともなかっただろう。あったのは習慣的な仕事や自分の意志に従って行おうとする決意、といったことだったろう。
そのようなただなかに神の語りかけがなされ、そこから彼らはこの世界に、生きてはたらいておられる神を実感するようになった。
そのような本人の意志や願いとは全くかかわりなく語りかけられる場合もある。使徒パウロも同様であった。あるいは、友人、家族、書物などからその語りかけを受ける場合もある。自然のさまざまの姿から神の言葉を聞き取る場合もある。
沈黙の神ではあるが、そのような実に多様な状況において、無限の変化をもった方法で神は語りかけておられる。
そのような神からの語りかけを聞き取るために、個人的な祈りがある。それとともにたった二人でも主の名を覚えつつ集まるならば、そこに主イエスがいるのだと約束された。これは修行とか学問、あるいは経験、瞑想の深さ等々といった通常予想される宗教的な条件とはまったく異なる。
ただ、素朴に主イエスを信じ、その愛を信じて集まるだけでそこに主がいてくださるのなら、どんな無学な人、経験のない人、また過去に犯罪や大きな間違いを犯した人、人から見捨てられたような人であっても何ら変わりなく、主がそこに来てくださることになる。
このような信じる小さき者を重んじて下さるということ、ここに神の愛がある。
主イエス(神)が二人、三人のうちにいてくださるということは、言い換えると、そこにおられる主が語りかけてくださるということである。そこにいても何もはたらきをしないなら、そこにおられる意味がない。愛とは常に意味を持っている。語りかけるため、そして力を与えるためにそこに来てくださるのである。
そうした共同体として語りかける神があるとともに、神とキリストの別の現れである聖霊が注がれ、その聖霊によって語りかけられ、みちびかれることが新約聖書ではきわめて重要な祝福として記されている。

…(神の)霊も弱い私たちを助けてくださる。
私たちはどう祈るべきか知らないが、霊ご自身が言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる。
霊は、神の御心にしたがって、聖徒たちのために執り成してくださる。(ローマ8の26〜27より)

聖なる霊が執り成してくださる、あまり私たちはこのような表現を使わないが、これは、聖なる霊が私たちの魂の深いところに共にいて下さって、私たちの苦しみや悲しみをうめきをもってというほどに深く知って霊的に語りかけてくださるということである。
そしてその執り成し、語りかけの最終的な目的は、単なる一時的な励ましではない。それは、「御子と一緒にすべてのものを私たちにくださる」ためであり、「死も支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、いかなるものにも支配されずに、私たちが神の愛のうちにとどまり続けるため」なのであり、そのために、道からはずれないように、警告し、励まし、罪をも赦してくださるためなのである。(ローマ8の34〜38より)

こうしたさまざまの神の語りかけ全体について次の聖書の言葉を心に留めておきたい。

「あなた方は、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。」(ヘブル書12の25)


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