わが力なる主の助け―詩篇18篇前半
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。(2節)
主はわたしの岩、砦、逃れ場(3節)
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め
敵から救われる。
この詩は、全体としてスケールの大きい詩である。天地の現象が作者の世界にあって、その天地のさまざまのものが動員されて苦しむ者に助けを与えるという内容がある。
黙ってなにも人間との関わりなど関係なく自然現象が生じているというのがほとんどの人間の実感であろうが、そうした通常の感覚とは大きくことなる、躍動する自然を実感していた一人の魂がここにある。
日本人の多くは、自然に対しては、身近なささやかな美や動き、音に目を注ぐということがある。それゆえに、無限の宇宙に輝く星などはまったくといってよいほど万葉集、古今集といった伝統的な古来の日本の詩歌では取り上げられていない。
そうした限定された自然観とは大幅に異なる見方を持っているのがこの詩の作者である。
この詩の冒頭には、力ある神、というのが強調されている。人間の問題、それはすべて力不足ということにある。自然の災害、敵対する人間からの攻撃、憎しみ、悪意などによる打撃、裏切りといったことへの精神的な苦しみ、愛されない孤独、職業や家族の問題、病気や死の苦しみ…それらはみな、私たちが弱く、それらの迫りくる力に耐えられないということが問題なのである。
もし耐えられるなら、それだけの力があれば、死にもうち勝ち、あらゆる悪意や攻撃、孤独、あるいは愛するものの喪失などにも耐えて、平安と喜びを持って生きていけるだろう。
他人からの侮辱や差別などに耐えられないのは、相手のせいというより、自分がそれに耐える力を持っていないというのが根本原因なのである。
そのため、この詩ではまず力の根源を見いだした喜びが冒頭に歌われている。
主は、限りない力である。そのことをわが岩、大岩、砦の塔などとさまざまに表している。現代のキリスト者は、神のことをまず、わが岩、大岩!と言って呼びかける人はいるだろうか。
それほどこの作者の実感は私たちには何か遠いものと感じられるだろう。言い換えるとこの詩の作者が生きていた地域は砂漠や草木もほとんど生えない乾燥地が至るところで広がっていたから、所々にある岩はよく目立ったのである。
そして作者はそれらの岩、巨岩を単に無意識にみるのでなく、それが神の不動性、強固な存在を象徴するものだと実感していたのである。
岩を見ても神の動かざる助け手としての存在を思ったのである。
神に対してキリスト者が祈る場合、「主よ、わが力よ!」というようには祈らないのではないか。その点詩篇の祈りというのは、変化に富んでいる。わたしの力という言い方は、個人的に力を与えてくださるということで、抽象的に万能であって、我々と関係のないところで何かとてつもない力を持っていると漠然とみるのでない。
歩む力、立ち上がる力、苦しいときにもそれに打ち負かされない、そういうわたしの力そのもので、あなたがいないと力が出ないという気持ちがこもっている。だからこそわたしはあなたを慕うとある。実際足が弱ると杖がどうしても必要になる。わたしたちも人生の日々の歩みの中で、神という杖の力がないと歩けないということもばしばある。だから弱ったときに、その力をいっそう感じられるからこそわたしはいっそうあなたを慕うと言っている。本当に苦しいとき、歩けないときに力になってくれるからこそ慕うというわけである。このような経験がなければ、慕うということは起こらない。
3節に「主は岩、砦の塔、大岩」とあるが、これらはみな不動の力を持っているとみなされている。救いの角という表現も、牛の角というのは力の象徴として用いられている。しかし、救いの角という言い方は、私たち日本人においては全く使われない。それは風土にもよる。
わたしがかつてイスラエル地方に行ったときに、アイベックスという大きな力強い角を持ったヤギを実際に見た。こういうことから、牛の角などを力のシンボルとして神のことを救いの角と表現している。
砦の塔というのは、これは見張ってくれるということである。敵からの攻撃を見張って、撃退するのが砦の塔で、これも一種の力である。盾になるというのも、敵の矢の攻撃を跳ね返すというのも一種の力である。
2節で「わが力よ」と言ったのを、より詳しく書いているのが3節である。神に対して、わたしたちはいろいろな感じ方がある。神は愛であるという言い方は、新約聖書でされている。神は清い、英知である、霊である、まっすぐであるなどといろいろな表現がある中で、特にここでは神の持つご性質のうち、力ということを特に強く感じたということである。
そのような力ある神にすがるとき、私たちは敵対する力、私たちを滅ぼすような力から救いだされる。
死の縄がからみつき
奈落の激流が私をおののかせ (5節)
陰府の縄がめぐり (6)
死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め
わたしの神に向かって叫ぶと
その声は神殿に響き
叫びは御前に至り、御耳に届く。
主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。 (8節)
御怒りに煙は噴き上がり
御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。
主は天を傾けて降り
密雲を足もとに従え
ケルブを駆って飛び
風の翼に乗って行かれる。
周りに闇を置いて隠れがとし
暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。
御前にひらめく光に雲は従い
雹と火の雨が続く。
主は天から雷鳴をとどろかせ
いと高き神は御声をあげられ
雹と火の雨が続く。
主の矢は飛び交い稲妻は散乱する。
主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し
あなたの怒りの息に世界はその基を示す。
この作者が実際の経験であった苦しみの中で、どのような力を発揮してくださったのかということが5節からある。この詩はダビデが書いたものとされているが、ダビデは現実にサウルに殺されそうになったことが何度もあった。死の縄、陰府の縄は同じようなことで、5,6節で言おうとしていることは、死がもうそこまでやってきていた。死の縄がからみついたということは、どんなにしても死がそこまできて逃れられないと思ったということである。
自分の力ではからみついてどうすることもできないけれど、この人にできることは主に向かって叫ぶことであった。苦難の中から主を求めて叫ぶということは、これはどんな場合においても残されていることである。
わたしたちも非常に苦しくてどうすることもできないときにでも、神助けてくださいと、それだけしか言えなくても、それだけは最後まで言える。神への一点に凝縮したような必死の叫びによって、その声が神に聞こえ、8節からあるようにいかに神が立ち上がってくださるかということをさまざまな表現で言っている。この詩の作者に浮かんできた世界の大きさに驚かされる。
現代の私たちであれば、「神はその万能の力でもって立ち上がってくださった、救いのために立ち上がってくださった」というようなごく普通の表現で言えないものを、こんなにイメージ豊かに書いている。
詩人の霊的世界の中でまざまざとこのようなことが実際に起こったのであろう。悪の力がそこまで迫ってきていることに対して、神は怒られて大地を揺れ動かすほどの力をもって、この詩人の叫びに答えてくださった。山々が震えたり揺らいだり、煙が吹き上がったりというすさまじい力を神は持っている。 このような神の力を5節から16節まで言っている。
…神はケルブを駆って飛び
風の翼に乗って行かれる。
ケルブの複数形はケルビムというが、これは翼を持った鳥のような、また天使のような存在であり、これは罪のあがないをする、一番神聖とされる神の箱の上部のところに向かい合わせて置かれていた。
聖書ではいかなる像も作ってはならないとあるが、唯一例外だったのがケルビムである。「神は、ケルブを駆って飛ぶ」というのは、どんなところにおいても神は翼を持ったケルブに乗っていくように、翼を持っているかのように、自由自在に行くことができる存在だということである。
人間には絶対なしえない自然の驚くべき現象を、すべて神がなさっているという、根源的な力そのもののような神が、この詩の作者の、叫びに似た祈りに答えてくださる。
神の力の前には、どんなものでもみんなあらわにされるし、どんなところでもことができる。
この詩で、大地が揺れ動くこと、風、雨雲、霧、光、雲、ひょう、火、天から雷鳴を響かせる、光は矢のように飛び交い、稲妻…などじつにさまざまのものが用いられている。ここには、地震や雷鳴、火山、大風などの天地に見られる現象すべてが神の力の現れとして、しかも助けを求める者の祈りに答えての神の力が発揮される、というイメージがある。
死の縄によって縛られ、激しい流れに呑み込まれ、もう滅びてしまうというとき、この作者は必死で神に叫ぶ。
そのときに、神はその切実な祈り、叫びに答えて下さったのである。
ふつうは神の助けは、心の内なる力として感じられるが、この作者には、私たちの心の外にある風や雲、雷鳴や稲妻といったものが、みなその力を表すものとして実感されたのである。
ひとたび神が近づくときには、このように、ふだんは単なる自然現象としか思えなかったものが、にわかにいのちをもって現れ、神の使者として自分を助けるために力強く活発にはたらき始めるという体験がこの詩の背後にある。
それまで眠っていたものが、突然に起き上がって自分を助ける力として動き出すという実感なのである。
自然の力は、あるときには野草の花のように、やさしく麗しさと繊細さをたたえて私たちに現れる。それはまさに神の愛や真実さ、そして美を目に見えるかたちで私たちに告げようとする姿にほかならない。どんな困難にあっても、このように土からでも初々しい新芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのだ、という神からのメッセージがある。私たちが神に立ち返るほど、それらは私たちの魂にそのメッセージをもって働き始める。
また、自然の現象は、ときに私たちを迫害するかのように働く。しかし、それらもひとたび私たちがしっかりと神に立ち返るとき、神の真実や愛に信じて固くすがるとき、そうした荒々しい自然によって打ち倒されたと思われる状況に置かれてもなお、そこに人間の思いを超えた神の真実な力や愛が現れるであろう。
大変な災害もまた、それらをもってしても、人間の側で、固く神の愛を信じて待ち望むときには、その神の愛からは決して引き離すことはできないということは、次のような聖句からもうかがわれる。
…主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、
大水の中から引き上げてくださる。
敵は力がありわたしを憎む者は勝ち誇っているが、
なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日、
主はわたしの支えとなり
わたしを広い所に導き出し、
助けとなり喜び迎えてくださる。 (17〜20節)
先に述べたように、この詩の作者は、神が、天地にみなぎる絶大な力を持っているお方であることをはっきりと示された。
このような力を持った神であるからこそ、高い天から御手をもってとらえて引き上げてくださる。
当然敵も力を持って襲ってくる。しかし神はそれらすべてに勝利する力を持っている。だからこそ神は救ってくださる。敵が人間的な力を持って攻め寄せてきても、主が支えとなって広いところに導き出し、助けとなって喜び迎えてくださる。
このように追い詰められて死がそこまできている人であっても、力そのものである神なのであるから、その神に向かって祈り、叫ぶなら、その大いなる力を持ってわたしたちに手を伸ばしてくださる。
苦しいときに神に祈ったら、助けてくれた、と普通に言うのでなく、この詩人の霊的世界には、天地のさまざまのものがまざまざと浮かび上がってきて、それら一切が神の力を表すものとして現れた。
この詩の作者は、さまざまな現象を神の力の現れであり、そのような力をもってする神の救いのわざをあらわすものだとはっきり分かったからこそ、この詩の最初に、
「主よ、わたしの力よ」
と記して、神の大いなる力が自分の力となったことを感謝とともに述べているのである。
人間の世界においては、昔から今に至るまで、その小さな知恵で奪い取った権力や武力で、さらなる富や権力などを求めて互いに戦い、勝利を得ようとしている。
しかし、そうして得た権力、支配、富などは、神の一声で滅ぼされてしまうものにすぎない。
自然の万物を支配する強力な力を持った神は、どんなことがあってもこの地から失われないし、壊れたりしない。
このように、この詩は、神の人間の想像をはるかに超えた大きな力が、死に直面している作者を驚くべき仕方で、助け出してくださったという感動が詩のかたちをとって歴史に刻み込まれたものなのである。