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リストボタン解き放たれた者として
(第38回 四国集会での聖書講話)


私たちは、すべて何らかのものによって縛られている。そして誰でもそこからの解放を、本人が意識すると意識しないを問わず、願っている。
例えば、友だちを得ようとか、お金を、また遊具や高価な持ち物、少しでもきれいにしようとすること、健康でありたいということ、趣味、娯楽あるいは、仕事に励むこと…何をとってもそうした人間の行動は、何らかの意味での解放を求める行動だと言えよう。
友だちを求める、それは自分一人では楽しくない、言い換えると何か心が縛られている、だから友だちと遊んだりおしゃべりすることでその孤独という目に見えない束縛からの解放が得られると考えるのである。
また、お金を求めるのも、お金がなかったらたちまち貧しくなる、食物が不自由、衣服なども立派なものを買えない、そこから見下される可能性が強まる、それはすなわちなにか息苦しい、ということになる。誰かから、ばかにされるとか見下されるとき、心が何か狭いところに閉じ込められたような感じとなって、それがまた繰り返されたりすると、だんだん心にストレスがたまってくる。自由なのびのびした心でなくなる。
また、病気になると、すぐに分るが、動けなくなる、食事や行動も制限される、もっとひどくなるとベッドに寝たきりとなり、しかも痛みのために心は四六時中苦しまねばならなくなる。これはベッドに縛られ、また病気、苦しみに縛られてしまう状況であり、これが心も体も縛られた状態となる。
健康であり、お金もある、友人もあっても、なお縛るものはいくらでもある。それは例えば、考え方、心の持ち方、感じ方が縛られるという状態である。 まわりの人の考えに縛られるから、自分の思ったことを自由に表せない。自由に表せないだけでなく、自分の考えのなかまで他人の考えや伝統が入り込んできて、自分独自の考えが生まれない。それはすなわち他人の考えに縛られているということである。伝統という名の古くからの人間の考えに縛られていることである。習慣、伝統というのは、それは要するに昔の人の考えの現れであって、伝統に縛られるというのは、昔の人の考えに縛られているということである。
例えば、日本人は圧倒的多数が、この宇宙を創造し、支配しておられる生きた神、しかも愛の神などいないと思っている。それは単に親や周囲の人たちがそういうからにすぎない。
「君が代」を国歌だとして、なぜ強制までして歌わせようとするのか、それはあの歌は天皇の支配の永遠を賛美する歌であり、天皇賛美という古い観念にしばられた人たちが、こどもにも強制しようとする現象である。あのような内容の歌を、その意味をきちんと理解した上で、心から歌えるという人はいったいどれほどいるだろうか。
あの「君が代」を国民全体の自由や喜び、平和といった内容と、活気あるメロディーにして、国民みんなが歌いたいというような内容に、国民から募集して変えるならば、なにも法律で強制して歌わせるなどということは生じないのである。
このように、私たちの生活の至る所で、何らかのものがたえず縛ろうとしている。
そして、そのような外部のものによって縛られているということは、まだしもたいていの人が気付くであろう。しかし、内部においても私たちを外部のもの以上に強固に縛っているものがあるが、それには日本人の大多数の人が深くは気付いていないと言えよう。
人間は外側のさまざまのものによって縛られているばかりでなく、内側のものによってさらに強く縛られている。
聖書は最初からこのテーマを記している。
闇と混沌の中に神の風が吹き募っていた。そこに神の霊のはたらきがすでに暗示されている。混沌と訳された原語は、トーフーとボーフーである。いずれも、「いのちの水」誌5月号に書いたように、トーフーは、荒れた、混乱した、あるいは形がない、空しい、空虚という意味を持っている。
闇と混沌、空虚ということは、人間の魂の縛られた状態である。かつての奴隷は、先に何らの希望もなく、生活は動物と同じような酷使される日々であり、そこには生きがいも平安も目的もない。混沌と空虚であった。
荒れて、定かな形もなく、空虚なもの、そのようななかに吹いていたのが、聖なる風であった。これはこの世界にあって何が根本的に重要であるかを聖書の巻頭から指し示すものとなっている。
そして、そこに光あれ、という神の言葉によって光が生じた。
私たちが縛られているのは、本当の光がないからである。例えば、まわりの人の評判や他人の言うことに縛られているから、自分の考えをはっきりと主張しないし、また自分の考えもしっかりしたものが生まれない。金に縛られると、まちがったことも宣伝していく。原発事故も電力会社から、例えば、東京電力だけでも、年間250億〜300億円と言われる巨額の金が原発の宣伝のために使われてきたという。一日にすれば、7000万円〜8000万円という多額の金である。こうしたことに縛られて学者も政治家たちも原発は絶対安全だと主張し、そのため住民も、国民も次々と安全を信じるようになった。
今回の大事故は、金の力によってからめとられた結果の出来事でもあった。いつのまにか、絶対安全という神話に縛られていた。そこから解放されてその危険性を一貫して主張してきた原子力科学者は、京都大学原子炉実験所に勤務する一部の科学者などのきわめてわずかの人たちであった。
このように、金の力で縛っていくことは、いろいろなことでみられる。
だが、人間を縛るものは、金だけでない。いくらでもある。エネルギー、電気の無駄遣いという習慣に縛られてしまったのが、日本人である。昼間から暗くもないのに、電気を付けるとか、真夏であっても多量の電気を使って冷房し、秋冬用の衣服をわざわざ着用するなど、こんなことも無駄遣いという間違った習慣に縛られている姿である。
戦前なら、例えば、男尊女卑とか、天皇は神であるといった観念、あるいは日本は神国だから絶対負けない、などという根拠のない考えに縛られていた。
信仰も、それを持っていない人からみると、いかにも縛っているように見える場合もあるだろう。実際、オウム真理教のような新興宗教のように人間を文字通りに規則に閉じ込めていく宗教もある。
また、高価 な持ち物、美味な食物を取るとか、本能にかかわることに縛られることもあり、タバコ、酒、その他の飲食物にも縛られて離れることができない場合もある。
人間の自由を縛っているもの、それはこの肉体である。体が疲れたら、眠れなかったら、あるいは水や食物がなかったらたちまち動けなくなる。水によって縛られているのである。水がなかったら生きていけない。
そしてこの体そのものも絶えず私たちを縛っている。どこかにひどい痛みがあれば、例えば足に耐えがたい痛みあれば歩くことも車も運転できない。歯が激しく痛むだけでも、何もできない。
こうしたさまざまのものが私たちを縛っているが、それらすべての根源にあるのは、自分である。自分というものによって誰でも縛られていて、そこから解放されることができない。
イエスに従った弟子たちですら、一番偉いものはだれかという議論が始まったという。そのことは、ルカ福音書では二度にわたって書かれている。

…弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。
…それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。(ルカ 9の46、22の24)

このように自分に縛られているところから、さまざまの欲望や、争い、妬み、憎しみなどが生じる。
使徒パウロは、そのような状態のゆえに次のように言っている。「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪のもとにある。正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆、迷い、だれもかれも役に立たない者となった。…」(ローマ3の9〜12)
人間はすべて自分というものに縛られているゆえに、そこからの解放を目的としてキリストは来られた。「その子をイエスと名付けよ。この子は、自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1の21)
また、そうした罪に縛られた状態は、闇にある状態である。それゆえ、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と言われている。
このように、罪からの解放、自分というものからの解放こそは、キリストの来られた目的であり、それは言い換えると光を与えるためであった。
このキリストの目的が、創世記の最初にすでに預言されているとみることができる。
そして、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ。」(ヨハネ 8の12)
と言われた。
命の光、キリストの光は単に何かを知る普通の知識でも学問的知識でもない。まったく学問も経験もない者であっても、神の持っている命が与えられると約束されている。神は万能であり、一切に縛られない自由なお方である。
そのお方の命が与えられるということは、私たちもまたその命によって自由となることがわかる。
この自由、解放ということは、創世記だけでなく、聖書全体にわたって記されている。
出エジプト記においても、それは中心のテーマとなっている。
エジプトにおいて文字通り奴隷状態であった。そこからの解放、それは神の力による。荒れ野のシナイ山にて与えられた十戒も自由とむすびついている。
十戒も、単なる決まりではない。それは、人間が真の自由であるために、不可欠なことが言われているのである。唯一の神を拝しないとき、それは必ず人間を縛るものとなる。すでに王を求めたときに神は、その王は必ずあなた方を束縛し、奴隷とすると言った。
安息日を守る、それは人間が絶えず偶像に支配され、それに縛られてしまうということを常に注意しているために、安息日として、聖別する日の規定がある。
そして、人々の目的の地は、乳と蜜の流れる地と言われた。それは自由な地であり、その自由が単に思いのままになるということとは全く異なる魂のよき味わい、満たされるものであり、喜びと平安があることを示す表現となっている。

詩篇もまた、自由をもとめての叫びであり、祈りであり、また自由を与えられた者の賛美である。例えば、詩篇第1篇はみ言葉による歩みによって、私たちは水のほとりに植えられた木のようになる。たえず実を結ぶという。
神の霊によってうるおされた状態、その自由からさまざまのよき実が生じることをしめしている。
そして第2篇は、地上のいかなる権力や悪の支配の力にも縛られない、かえってそれらすべてを支配される神の御支配を述べ、それを信じて、その神の力を受けることこそ、この世の悪や権力に支配されない自由を受ける道であることが示されている。
また、詩篇のなかで、最も親しまれている詩篇23篇、それは主にある自由、そこからくる大いなる祝福といのち、そして死にうち勝つ自由を表している。気付かない罪の赦しの重要性も述べている。
主がわが牧者であるならば、私たちを憩いのみぎわに伴い、緑の牧場へと導かれる。そしていのちの水を飲ませてくださる。それゆえに、死の陰の谷を歩むとも恐れない。という。
これは、死という最強の力にも縛られないということである。
さらに、敵の前にて杯を満たしてくださるという。それは敵対する人にも縛られないという魂の解放された状態を示すものである。 そして完全な自由の存在である神のもとに永遠にいるという確信と希望がそこに記されている。
そして預言者は、罪に縛られた人々に対して、本当の自由の世界があることを繰り返し語りかけ、彼らの魂の方向転換を期待して命がけで神の言葉を語り続けたのである。

主は私に油を注ぎ
主なる神の霊が私をとらえた。
私を遣わして
貧しいひとによき知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告げ知らせるために。
(イザヤ書61の1)

神の霊こそ、真の解放を与える。このように、キリストより2500年ほども昔から、真の解放を与える人が現れること、そしてその解放をなさしめる原動力は、神の霊であることを告げている。
たしかに、キリストの弟子たち、その代表的存在であったペテロもイエスの教えや奇蹟を3年間も聞き続け見てきた。しかし、なお、すでに述べたように、自分中心の考えからは解放されなかった。誰が一番偉いのか、自分をイエスが王となったときに第一の地位に置いてほしいといった自分中心の願望をあからさまに出すほどであった。
また、イエスがとらえられるというと、私は死ぬようなことがあっても従うと言った。
だがそれらの言葉は空しく、イエスの逮捕のさいには、逃げてしまい、三度も主を知らないと裏切ることになった。
こうした弟子たちの自分に縛られた状態を、真に解放したのは、経験でもイエスの教えでも、仲間の支えとかまわりの状況でもなかった。それは聖霊であった。
聖霊こそはそれまでのあらゆる自分中心から彼らを解放し、身の危険をもかえりみずに、イエスの復活を告げ、証しするという福音伝道の道へと導いたのである。
それは神の力であった。神の力のみが、私たち人間に深く巣くっている自分中心という束縛からの解放を成し遂げる。
それは使徒パウロも同様であった。かれも律法に縛られ、キリスト教をモーセ律法を壊すものたちだと思い込み迫害していたが、復活したキリストに出会って、それらの束縛から解放されて真の自由な者とされた。
それゆえに、かれの書いた手紙においては、聖霊が内に住むこと、聖霊によって導かれるものが神の子とされるキリストの霊を持っていないなら神の子でないとその重要性を強調している。(ローマの信徒への手紙8章)
また、私たちを取り巻く広大な自然、清く美しいさまざまの自然は、そのままそれらは完全な自由を暗示するものである。花が咲く、大地に縛られたようでありながら、自由を与えられているしるしだと受け取ることができる。
風、それは主イエスが聖霊にたとえて言われたように どこからきてどこへいくのか分からない。まったき自由を感じさせる。
また、山々は揺らぐことなく、岩のごとく不動である。

…神こそわが岩、わが救い、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。(詩篇62の6)

神は岩のごとく不動であるが、同時に何にも縛られない自由を持っておられる。このように一見相反する特質を同時に持っておられる。私たちもまた、聖霊によってそのような動揺しない力を持ちつつ、自由を持つことができる。

そしてその聖霊こそは、愛、喜び、平和、を生み出す。
そうした与えられた信仰、希望、愛こそは、自由なる魂の特質となる。とくに愛こそは私たちの自由の度合いを示すものだと言えよう。愛がないということは、自分に縛られているということ、聖霊の注ぎが十分でないということを示すものである。
解放された者、言い換えれば自由になった者ほど神の特質をより多く持っている。解放された者の印とは愛である。
どんなにその人が自分は自由だ、と思っていても、他者の苦しみや悲しみに共感でき、何らかの手だてをなそうとするような心、祈りの心がないなら、その解放感は影のようなものである。
人間的な愛であっても、それは一時的にせよ一種の解放感を与える。親からあるいは友だちから愛されていると実感するとき何か解放された実感、自由がある。逆に、憎まれている場合は心がきしみを立て、捕らわれている実感となるし、憎しみを誰かに持っている場合も自分の心が縛られていると感じるであろう。憎しみや怒り、不満、敵意、そうしたものは人間の心を縛っていく。
ここにさばきがある。さばきとは、このように、神のみ心に反することを考えたりするだけで、もうさばきがそこになされている。主イエスが言われたように、私を信じないものは、すでに裁かれている、ということと同様である。
主イエスは、敵のために祈れ、と言われた。自分に害悪を及ぼそうとする者に対してすら、祈る心があるということは愛を持てるということである。そのような心は、敵の悪意にすら縛られていないと言える。
これに対し、だれかのひと言ですら人間を縛ることがよくある。ちょっとしたひと言で怒ったり、相手を嫌いだと思ったりする。人間とはそれほどに自由でない。自分がよく思われたいという自分中心の心に縛られているのである。
しかし、そのような縛られた状態を解放する力がある。それは聖霊である。ただ主イエスを信じ、神に対してお父様!と呼びかけることができさえすれば、私たちは聖霊が与えられているのであり、そこから、主イエスの言葉にあるように、求めることによって限りなく聖霊は与えられる。
信仰によって私たちは罪からの解放を与えられ、サタン、敵に縛られず、ついには死の力にも縛られないで、復活を与えられる。
そして完全な自由が与えられると約束されている。
さらに、この宇宙、世界も再臨によって新しい天と地となる。そこにいっさいの涙もなくなる完全な自由、解放がある。
私たちはこうした聖書全巻が一貫して告げている自由へのメッセージを信じ、さらなる歩みを続けさせていただきたい。

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