主の喜び、主の平和を
この世には、人間的な喜び、必ず滅びる命、妥協による平和、一時的な影のような愛や力、人間が与える恵み…がある。
それに対して、キリストの喜び、キリストの命、また主の平和、キリストの力 、キリストの恵み…等々がある。
神とキリスト、そして聖書を知らなかったときには、この広い世界であっても、愛といえば男女や親子に働く愛、喜びといえば、友だちと遊んだり、本で知識を得たり、他人から認められたり、好きな趣味をしたりすること、また、命といえば、病気や寿命、事故で簡単に失われるはかないもの…であった。
しかし、福音書―とくにヨハネ福音書には、繰り返し「わたしの平和」、「わたしの喜び」というように、「わたしの…」という強調された表現があらわれる。
「私は平和をあなた方に残し 私の平和を与える」(ヨハネ14の27)と言われ、人間の平和でなく、イエスご自身が持っておられる平和が与えられることが言われている。
また、「私の愛にとどまれ。」(同9)と言われたし、「これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである」と言われている。
いかにこの世が暗くとも、また混乱していようとも、この世とは別に、主イエスの平和はあり、またキリストの愛があり、とどまるところがキリストの内にある。
そして、この世が妥協や不真実で与えようとするその場かぎりの平和でなく、いかなることがあっても壊れない平和、主の平和を与えられる。
この世の国、それは権力やさまざまの人間的欲望のある人たちが、支配しようとする。
しかし、主イエスは、そうした国と本質的にことなる国が存在していることを明確に示された。
…イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」
(ヨハネ 18の36)
私たちは、この世の混乱と悲しみ、そして不正に満ちた世に生きていながら、この主イエスが言われたキリストの国に生きることが与えられている。
そして、死んでもその国で永遠に生きることが約束されている。
すべての人は必ず死ぬ。しかし、それは私がいま持っている命である。滅びゆく肉体の命でなく、キリストの命を受けるときには、主イエスご自身が言われたように、「死んでも生きる」のである。神の国において復活をさせて下さるからである。
信じる者たち一人一人に、「あなた方は、わたしの羊」と言って下さり、「わたしの友だ」、とさえ言って下さっているお方に心から信頼して歩みたいと願う。
人から捨てられ、裏切られた悲しみのとき、「わたしの愛をあげよう」と言ってくださる主を待ち望みたい。
そうすれば必ず、主の慰めが与えられる。人の愛を受けられないとき、主の愛を受けることができる。
人の世に希望が見いだせないとき、キリストこそが私たちの希望となる。