セミの鳴き声に思う
わが家は山を少し登ったところにあるので、今頃はセミがたくさん朝はやくから鳴いている。今朝も、開いた窓からすぐ近くでヒグラシが大きな声で鳴いたので朝の5時まえに目が覚めたほどだ。
とくにクマゼミの必死でなく声、ミンミンゼミのちょっとつまりながらもやはり全力を注いで鳴いている有り様、クマゼミなどはその腹部を大きく動かして声を出している。あの小さな体から、しかも乾燥していると見える体からよくもあんなに大きな音が出せるものだと思う。
あのセミの全身をこめて鳴く姿とその声は、なにか時が迫っている、という切迫感を感じさせるものがある。たしかに、セミは3年から17年もの間、地中にて幼虫として生活するのに、地上ではわずか数週間ほどしか生きないことからあのように、精一杯鳴いているように感じられる。
新約聖書の世界でも、そうした時は迫っている、という切迫感を日々実感しつつ生きていたのがうかがえる。最もキリスト教の精神が命をかけて守られ、武力や権力によらず、ただキリストの力、聖霊の力によって急速に広がっていったとき、使徒たちや初期のキリスト者たちが持っていた実感なのであった。
それは次のような聖書の言葉からうかがえる。
・この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。(黙示録1の3)
・あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。 (ヤコブ5の8)
・…兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。(Tコリント 7の29)
そのような切迫感を持ちつつ、しかも主にある平安(平和)をしっかりと内にたたえて生きていた人たちが多かった。その主の平和をもたらしたのが聖霊であった。
私たちも、そうした霊的な切迫感を持ちつつ―しかも、主の平和、言い換えると主がともにいてくださるという実感を与えられつつ歩んでいきたいと思う。