詩の世界から
―八木重吉の詩から
いつになったら
いつになったら
すこしも 人をにくめなくなるかしら
わたしと
ひとびととのあいだが
うつくしくなりきるかしら
・人間同士の関係が清いものになりきる、それはどんなにそうなろうとしても、難しい。キリスト教世界の最大の使徒パウロですら、自分はどんなによい意志をもっても行うことができない嘆きを語っている。
ただ、聖なる霊が私たちのうちに住んでくださって、私たちの内にある汚れたものを洗い流して下さり、よくない霊を吹き清めてくださるとき。
美しくなりきる関係は、人間同士では難しいが、神の創造された自然とは、可能となる。人のいない静かな谷川で流れ落ちる水が岩かどにあたって生じる純白のしぶきやその流れと音に耳をすませるとき、そこには何らの汚れがない。
ねがい
人と人とのあいだを
美しくみよう
わたしと人のあいだをうつくしくみよう
疲れてはならない
・人と人との愛にうつくしいものを見る、それは、主イエスが言われたこと、敵を愛し、迫害するもののために祈れ といわれたことを思いだす。このような心が与えられたとき、私たちに悪意をもってくる人たちにさえ、祈りという美しい心が働く。
醜くて、弱い私たちであるが、神の無限に清い霊を受けるときには、このようなところまで変えられていくのだ。
きりすと
きりすとを おもいたい
いっぽんの木のようにおもいたい
ながれのようにおもいたい
(「貧しき信徒」新教出版社刊 64〜65頁 74頁)
・主イエスへの信仰がこのように、木や水の流れを用いて言われたことに新鮮さを感じる。いっぽんの木、それは、とくに大木の側に一人立つときには、いかなる嵐や風雪にも耐えて、歳月の流れにも動じることなく黙して立っているさまは、私たちの心を引き締める。それは確かに祈りを感じさせるからである。その樹木の沈黙が、同時に雄弁に語りかけてくる。
そして、途絶えることなく清い水となって流れ続けるそのさまは、絶えずキリストに向って流れ続ける心の流れを暗示する。
私たちの祈りの流れは時としてとどまり、逆流し、あるいは汚れたものが入り込むこともある。そのようなとき、こうしたいっぽんの木や清流に接するとき、ふたたび私たちもいっぽんの木のような力と、その流れのようなものが心に入ってくる。