「君が代」と内村鑑三
今から110年ほども昔に、「君が代」は国民の歌ではないと、はっきりと主張していた人がいる。当時はそのような批判的な考えで「君が代」を見つめていた人など、きわめて少なかったと考えられる。
それが内村鑑三である。次に、私(吉村)が教員として在職中、今から20年あまり以前にその内村のことを引用して書いた文を掲載する。
内村鑑三と現代 (1991年頃 徳島新聞に掲載)
「いずれの国にも国歌なるものがなくてはならない。しかし我が日本にはまだこれがない。「君が代」は国歌ではない。これは天子(天皇)の徳をたたえるための歌である。国歌とは、その平民の心を歌ったものでなくてはならない」(「万朝報(よろずちょうほう)(*)」一九〇二年11月)
(*)万朝報 1892年黒岩涙香(るいこう)により創刊。 一時は東京の新聞では、第一位の発行部数となった。日露戦争開戦のときは、非戦論であったが、次第に主戦論となり、そのため非戦論を主張する内村鑑三、幸徳秋水らは退社した。
今から九十年近く前、「君が代」の内容について、ほとんどだれも疑わなかった時代に内村鑑三がすでにこのような洞察をしているのには驚かされる。今日、学習指導要領の改訂で全国的に大きい波紋を呼んでいる「君が代」の問題の本質を時代に先駆けて内村は見抜いていたのであった。
こうした内村の思想の真価について教科書裁判で知られている歴史家の家永三郎氏は 十年ほど前に岩波書店から刊行された内村鑑三全集によせた推薦文で次のように書いている。
…そうした一般的風潮にあって、超越―非連続の立体的世界観を展開したのが、十三世紀の鎌倉新仏教開祖たち
と十九世紀から二十世紀にかけての、少数のキリスト者たちとの例外的思想的営為であり、彼らの遺したものは日本人の平均的試行の限界を突破しようとする貴重な精神的遺産として高く評価されねばなるまい。
内村鑑三の思想は、後の方の一群中、最も充実した典型例であり、親鸞、道元、日蓮らの宗教とともに、日本思想史の最高峰を形作るものと思う。
しかも親鸞らに欠けていた『義』の精神と歴史哲学とを併有する点で、私たちに一層切実な示唆を投じる内容を豊かに含んでいる」
ただにキリスト教界だけでない。文学、社会運動、思想方面にも広く、深い影響を及ぼした内村鑑三の思想的基盤は、いうまでもなく、キリスト教であった。キリスト教といっても、多くの人が連想する単なる教えではない。十字架による罪のあがないの信仰こそが内村のこの深い洞察の根源なのであった。 正しい道を歩くことができない。よいことが分かっているのにそれをなすことができない、そうした心の弱さをキリスト教では罪という。そうした弱さの問題を解決するのでなければ真の心の平安は到底おとずれないし、力も生じない。内村はこの自分の弱さをどうするかという一点に全力を傾けたのである。
そして、ついにキリストの十字架を仰ぐことによって、その弱さの真の克服の道を示されたのであった。そして歴史にその足跡を刻み込む力を得たのであった。内村が、そのよって立つ思想、信仰の原点は罪の問題、言い換えれば、自らの弱さの深い認識とその弱さを克服するキリストの十字架を仰ぎ見るところにあったということは、現代に生きる我々にも多くの示唆を投げかけている。
今日、私たちは、地上のさまざまの難問に苦しみ始めている。猛毒の核廃棄物プルトニウムの増加に象徴される汚染、二酸化炭素の増加による温暖化、森林の激減による地球環境の変化等々、こうした問題はその背後に浪費癖とか権力欲、物欲といった人間の弱さが必ずといってよいくらい潜んでいるのである。
また、日本の急速な老齢化に応じて、いっそう人間の弱さの問題が浮かびあがって来るであろう。老齢化における根本問題は生きがいの喪失ということである。こうした我々の社会におけるさまざまの相を持った弱さの問題を政治や社会制度の問題からだけ見るのでなく、人間の存在の最も深いところから見つめるということを内村鑑三は告げている。
私自身、大学時代に多くの問題を抱えて自分も含めた人間や社会の弱さと醜さにどう向かっていくのか悩み抜いたことがあった。その時、思いかけず古書店で見つけた矢内原忠雄著「キリスト教入門」によって無教会のキリスト教を知り、キリストの十字架による罪のゆるしということを受けることになったのである。
内村鑑三の力の源となったこの真理は、現在においても変わることなく、あらゆる人間―ことに自らの弱さ、罪に苦しむ人々への福音であり続けている。