「人生の海の嵐に」
―北田康広CD について
3月11日という日本人に忘れることのできない日を記念して表記の讃美歌CDが発売された。 これは、被災された方々の魂に届くよう、人々が私たちのために十字架にかかられたキリストを知って「人生の海の嵐」から逃れ、魂の港であるキリストを知って真の平安と力を与えられるようにとの願いが込められている。
北田さんは、全盲のピアニスト、バリトン歌手で、今回初めて讃美歌のみのCDを出された。
心に残るすぐれた内容の賛美が収録されていて、いままでにない讃美歌CDとなっているので、この内容を知ってより多くの方々、とくに被災を受けた方々の心に届くようにと願ってやまない。
○以下は、CDに添付された推薦文より
1、加藤常昭 (神学者。東京大学文学部哲学科卒、1956年に東京神学大学修了。1986年まで東京神学大学教授、元鎌倉雪の下教会牧師。)
主に向って喜び歌おう 救いの岩に向って喜びの叫びをあげよう。(詩篇95)
北田さんは、ピアノだけでなく、こんなにすばらしい歌をも神に捧げるカリスマを与えられている。すぐれた師匠たちち出会ったからでもあろう。朗々と、のびのびと、神を賛美し、隣人に主キリストを紹介する愛と熱情があふれている。深い闇のなかにある悲しみをしっているのに、幼な子のように賛美に生ききっている。私は驚き、感動している。私はここに神の愛の奇跡を見る!
2、小中陽太郎(作家)
この苦難のときに、主を賛美する力強い歌声がひびきます。この一枚のCDは、みずからのトゲを力に、苦しむ日本中の人々に、主のいやしと励ましを与えてくれるでしょう。
3、中川健一(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ代表)
北田 康広氏は、未曽有の大震災以来、自分に何ができるかと問いかけ、讃美歌だけのアルバム「人生の海の嵐に」を出されました。のびやかな声で歌われる16曲の讃美歌をお聴きして、私の心は、ときには踊り、ときには祈り、ときには涙しました。
4、神田光(音楽プロデューサー)
讃美歌においては、オペラ的歌唱法よりも、ビブラートを最小限に抑えた、透明感溢れる純粋な発声が望ましく、北田康広の歌声は、真っ直ぐ天に届くような清らかさをたたえており、「まさに讃美歌を歌うために神から与えられたナチュラルヴォイス!」と絶賛されています。
十字架を背負う主のうしろ姿が眼前に迫り、心を揺さぶられる「主のうしろ姿」は秀逸です。人生の港へと誘ってくれる「人生の海の嵐に」は、今苦しんでいる人々の傷ついた心を癒し、慰め、勇気付けてくれるでしょう。特に「いと静けき港に着き われは今 安ろう」という部分は、疲れた心に主の平安を注ぎ込んでくれるようです。 小さな善意の重要性を歌った賛美が「ちいさなかごに」です。人知れず善の行いを積み重ねている人を、必ず神は祝福されるとの約束は、被災地で働くボランティアの方々の心を慰めてくれることでしょう。
未曽有の災害により、閉塞感漂う空気を吹き飛ばしてくれる賛美が、「勝利をのぞみ」です。このメロディーは男性的であり、キング牧師の大行進でも歌われています。日本の復興と、希望を持って前進する人々の後押しをしてくれるかのような、力強い賛美です。
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○北田 康広
・1965年徳島県生まれ。未熟児網膜症と医療ミスが重なり5歳で失明。
・徳島県立盲学校、筑波大学附属盲学校音楽科、武蔵野音楽大学ピアノ科卒。
・東京バプテスト神学校神学専攻科卒。
・現在、ピアノ演奏&歌&トークというユニークな演奏活動を展開している。
・ヘレン・ケラー協会主催第31回全日本盲学生音楽コンクール第1位受賞。
・2009年の無教会全国集会(青山学院大学礼拝堂)で、夜の音楽のプログラムにおいて、ピアノ演奏、賛美、証しなどをされた。
○現在までに発売されたCD 「ことりが空を」、『心の瞳』、『藍色の旋律−愛・祈り・平和・自由−』、『Mind's eye マインズアイ 〜心の瞳〜』
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○北田 康広のホームページより(http://kitada.info/index.html)
東日本大震災で多くの方々が被災され、お亡くなりになられた方々のご家族の皆様には、まだ癒えぬ深い悲しみの中におられることと思います。心よりお慰めをお祈り申し上げます。また、現在も被災地で不安の中におられる皆様が、一日も早く安心して暮らせる日がきますようにと、心からお祈り申し上げます。
復興には長い時間と、多くの方々のご支援が必要になると思いますが、私も微力ながら、音楽を通した義援活動を行って参りたいと願っております。 皆様方のお力添えのもと、お役にたてますようにと、切に祈念いたしております。
東日本大震災を覚えて、初の讃美歌集を3月11日に全国発売する運びとなりました。このアルバムを通して、慰めと希望の源である救い主イエス・キリストに出会っていただけるよう、お祈りしております。北田康広
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このCDに収録された曲目の解説を次に掲載する。
1、ちいさなかごに 詞:A.J.Cleator 曲:G.C.Tullar(讃美歌U編26)
作詞者 Cleator(1871-1926)は、 イギリスとアイルランドの間にある小さい島に生まれた。その後アメリカに移住。オハイオで住んだ。200曲に及ぶ讃美歌をつくっている。
この賛美は、TUNE名(曲名)が、LITTLE DEEDS(小さき行い)とあるように、主にあってなされるささやかな行いの重要性を歌ったものである。そしてこの原詩の折り返し部分(refrain)の初行は、Let us all be helpful で、「私たちはみな、誰かの助けになるようにと心がけよう」と呼びかける内容となっている。これは、主イエスが、隣人を愛せよ、互いに愛し合え、と言われたことを思いださせるものとなっている。
小さいものへの主イエスの深いお心は、福音書によってよく知られている。
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』(マタイ 25:40) この世は大きいものへと注目するが、主イエスは、小さきものをいつも目に留められる。それゆえに、主にある愛をもってなされる小さき行いをも祝福される。そうした主の御心がこの歌にはわかりやすく親しみやすい言葉で歌われている。
2、朝静かに 詞:水野源三 曲:竹田由彦(新聖歌334)
作詞者は、水野源三。戦後まもなく、小学四年のときに赤痢による高熱のため脳性小児麻痺となった。しかし、のちにキリスト教信仰を与えられ、母親が五十音表を順に指差し、瞬きで合図をするという方法により、主イエスによる感動を多くの詩に作った。四七才で天に召された。
この詩は、寝たきりというきわめて不自由な状況にあっても、聖霊を注がれ、活きてはたらく主がおられるときには、祈りと学び、そして賛美によって、主にある平安、希望、喜びがあふれてくることを静かに語りかけてくる。主イエスが、最後の夕食のときに語った言葉として伝えられているなかに、「私の平安(平和)をあなた方に残していく」と言われ、聖霊を与えると約束された。そしてその聖霊が与えられるときには、その人の内奥から生ける水が泉のようにあふれ出すと言われた。この詩はまさにそうした聖霊によってあふれ出た内容だと言えよう。そしてたしかに、この寝たきりであってしかも言葉も発することのできない極めて不自由な人から湧き出たいのちの水は、数しれない人々の心をうるおしてきたのである。
3、とびらの外に 詞:W.W.How 曲:J.H.Knecht & E.Husband (讃美歌21―430、讃美歌240)
この曲は、ドイツのクネヒト(古典文学の教授であったが、音楽家でもあった)が前半を作って発表され用いられていた。その後イギリスの聖職者で音楽家のハズバンドが、後半を作って一つの曲とした。
これは、聖書に「見よ、私は戸口に立って、たたいている。私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする。」(黙示録3の20)から作られた。だれも訪れてくれない、顧みてくれないという孤独な魂に、主イエスはその魂のそばにたち続け、心の扉をたたき続け、語りかけ続けている。原詩では、O Jesus Thou art…(ああ、イエスさま あなたは…)が1〜3節の冒頭に繰り返されていて、主イエスへの親しい呼びかけがそこにある。遠くいて見守るだけでない、すぐ近くで私たちの側でたち続けて下さって、語りかけを続けてくださっている、心の扉を開くと主イエスが来てくださり霊の食物をともにいただけるという祝福が約束されている。この賛美を心から歌うときにじっさいに主イエスがその歌のメロディーに乗って来てくださる思いになる。主イエスはこのように、私たちの魂に近くある。それゆえに私たちのほうからも、門をたたけ、そうすれば開かれるという主イエスの言葉にしたがって、門をたたくことも必要である。
4、主の後ろ姿 詞・曲:山口博子
これは、魂に迫ってくる歌である。目を閉じて聞き入るとき、罪という人間の根本問題を背負ってただ黙して十字架を担い、よろめきつつ歩んで行かれる主の姿が彷彿としてくる。裁判のとき、総督も驚かせたほどにイエスは沈黙を守られた。その沈黙の歩みは十字架へと続く。その歩みはキリストの愛と祈りそのものであった。この賛美からは、それが伝わってくる。主の十字架に関する讃美歌は数多くあるが、主の後ろ姿がこれほど迫ってくるのは、十字架それ自体の意味の深さと力が根本にあるが、さらに、この旋律が歌詞をよく浮かびあがらせる力を持っていることのゆえであろう。
作者の山口氏は、病気のために若いとき4年ほどの間に6回も長期入院を繰り返したという。その入院中に、ラジオのキリスト教放送によって聖書を知り、キリスト者となった。主がそうした苦しみを用いられ、このような歌が生み出されたと言えよう。
5、主は教会の基となり 詞:S.J.Stone 曲:S.S.Wesley(讃美歌21―390、讃美歌191)
「教会」と訳されている言葉は、エクレシアというギリシャ語の中国語訳をそのまま日本語として受けいれたものであり、原語の意味は、建物でなく、キリストを信じる人の集りを言う言葉である。今も生きて働いておられる主イエスこそは、そうした信徒たちの唯一の基であり、この分裂と混沌にあえぐ世にあって一つにしていく神の力であることが歌われている。2節では、原詩では、ONE という言葉が7回も用いられているほどに、真理なる神は唯一であり、その真理から生まれたキリスト者の集りもまた一つであり、そのように一つにしていく力が主イエスにはあることが歌われる。
世界のキリスト者の集りが、一つとされていくためには、十字架による罪の赦し、復活、そして再臨という三つの根本的真理が不可欠であることがこの歌で歌われている。
6、もしも私が苦しまなかったら 詞 水野源三 曲 高野忠博(新聖歌292)
2、と同じく水野源三作詩で、日本人の作曲者による作品。寝たきりで、声も出せないという重いハンディを持っていたにもかかわらず、その苦しみと神の愛の深い関わりが歌われている。この世のさまざまの苦しみや悲しみはそれを通して神の愛が働くためであることを知らされる。自然災害の他にも、病気や人間関係において苦しみや悲しみはこの世では避けることができない。そうした苦しみによって神の愛を本当に知ることへと導かれるようにとの祈りがこの詩の背後に感じられる。
苦しみは決してただそれだけで終わることはない。神とキリストを信じるようになってそのことが示されていく。生まれつきの盲人という非常な苦しみを受けている人について、弟子たちが「この人がこのようになったのは、誰かが罪を犯したからなのか」と尋ねたとき、イエスは、「誰が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである。」(ヨハネ福音書9:2〜3)と言われた。 水野源三の受けた苦しみも、まさにそれによって神のわざが現れるためであった。彼の死後、彼の詩は数知れない人たちの魂に流れ込み、清いいのちの水を注ぎ、うるおすことになり、それは現在も変ることなく続いている。
7、人生の海の嵐 作詞:H.L.Gilmour 作曲:Gerge D.Moore(新聖歌248)
3・11の東北大震災、それは日本人の多くの魂を揺さぶる出来事であったし、今もなお、その余震は、物理的な意味だけでなく、精神的な意味においても続いている。肉親を失い、職業の場を失い、緑したたる愛する大地を汚染され、悲しみつつ立ち去らねばならなくなった、まさに人生の海の嵐に遭遇した人たちが数多くおられる。さらに、原発周辺の人たちは今後長期にわたってこの人生の嵐を受け続けることになる可能性が大きい。そうした厳しさのなかに、キリストが来られるとき、波立つ心、大嵐に翻弄された魂にも主の平安―シャーロームが訪れる。
主イエスは、その最後の夕食のときに、主の平安(平和)を残していくと言われた。最愛の家族、住み慣れた家やふるさと、そしてその美しき自然、それらの奪われた人たちにとって、それをいやす力あるのは、ただ主の力、主の平安である。そのことへの祈りを込めてこの歌を聞くだけでなく、私たちも歌っていきたい。
8、紫の衣 詞・曲:谷有恒
この歌の作詞、作曲は、裁判官をしている人で、音楽の専門家でない方の作品である。これはキリストの深い愛が伝わってくる歌である。それとともに自分の罪深さも思わされ、それにもかかわらず、そのような者のために、いかに苦しみがひどくとも、それをも私たちに本当の悔い改めを与え、主の平安を与えるためにあざけられ、鞭打たれ、釘打たれるという極限の苦しみを受けられた。その深い愛が、なぜ自分のような罪深きものに与えられたのか、その言い表しがたい感謝がこの歌には込められている。
この無限に深く偉大なお方であるにもかかわらず、自分のような小さきものを顧みてくださることへの驚きと感動は、詩篇にも歌われている。
「あなたの天を、指の業を私は仰ぎます。月も星もあなたが配置なさったもの。そのあなたが、御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。」(詩篇8の4〜5)
なお、この歌のはじめと終わりの部分に、バッハのマタイ受難曲に繰り返し用いられている旋律が用いられていて、讃美歌の「血しおしたたる」が響いてくるようである。
9、二ひきのさかなと 詞:佐伯幸雄 曲:小海基(讃美歌21198、こども讃美歌104)
これは、福音書にあらわれる奇蹟をもとにした歌である。子どもとともに歌える賛美であるが、決してその歌われている内容そのものは簡単なものではない。二匹の魚と五つのパンを主イエスが祝福されると男だけでも五千人にもなったという。表面的にこの奇蹟を読む人はこんなことはあり得ないと一蹴してしまうかもしれない。
しかし、この奇蹟が意味するところは深くかつ重要である。それは、これとほぼ同じ内容の四千人になったりするのも含めると六回もほぼ同じ内容のパンの奇蹟が記されてている。貴重な紙、筆記具の時代であるにもかかわらず、マルコ福音書のように分量も少ない福音書であってもこの記事は二回も記されている。それほどにこの奇蹟は重要であった。主の祝福を受けるならどんなに小さなものささやかなものであっても、大いなるよき実を結ぶ。
それだけでない。残りのパン屑を集めたら12の籠にいっぱいになったという。残りもまた12という一種の完全数が用いられていることからもうかがえるが、イエスの祝福は限りなく増やされていくということを暗示しているのである。この記事は福音書に記されているが、それらは、ローマ帝国の厳しい迫害の時代に書かれた。何の権力も武力も持たない民衆の力の基となったのは、このキリストの祝福の力であったし、実際にその力によって無に等しいとされていたような奴隷や貧しい人たちからも次々とキリストの福音は伝わっていった。
過去2000年にわたって12の籠を満たした祝福されたパン屑によって人々は満たされ、現代の私たちも同様である。この奇蹟によって表されていること―小さきものを限りなく祝福して用いてくださるキリストの力こそ、困難なこれからの時代に最も必要なものであり、そうした意味を思いつつ歌いたい。
10、天の神 祈ります 詞:D.T.Niles 曲:E.G.Maquiso(讃美歌21-354)
私たちの心の願いを簡潔に表現した賛美である。この賛美はそのまま、誰にとっても祈りをもって歌える内容である。人間世界は、家庭や地域、あるいは組織や世界…、どこにあっても常に分裂に悩まされてきた。憐れみと祝福の神が、それらを顧みてくださってどうか一つにしてくださいと祈る。
2節は、御子イエスが、復活と十字架という人類にとっての最大の恵みを与えてくださったことへの感謝である。復活は死に対する勝利であり、十字架は罪からの解放であるゆえ、この二つを信じて受けいれる時、私たちの人生はどのような状況にあっても祝福に変えられていく。
3節、すべての真理を教え、愛、喜び、平和など最も大切なものを実として与える聖霊を、とくに悩み、傷ついた人々のためにと待ち望む。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊という三位一体の神に立ち帰りつつ、他者の苦しみとそのいやしを祈りをもって歌える讃美歌である。
11、あさかぜしずかに吹きて 詞:H.E.Stowe 曲:Felix Mendelssohn (讃美歌21-211、讃美歌30)
この賛美は、作詞がストー夫人、作曲はメンデルスゾーンという世界的に広く知られた人たちによるものである。ストー夫人は、奴隷解放運動のためにも力を尽くし、その経験から生まれた歴史的名作である「アンクル・トムの小屋」は、出版されてたちまち世界に広がったが、トルストイはいち早くその価値を認めた一人であった。彼は、神の愛そのものをテーマとした作品は、世界文学の長い歴史においてもわずかしかないと述べ、その芸術論において、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い宗教的、かつ積極的な芸術の模範」として、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章) また、スイスの思想家ヒルティもストー夫人のこの作品を次のように高く評価している。「あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。 … わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 (「眠れぬ夜のために下」七月十六日)
なお、ストー夫人は、父も牧師、兄弟6人も牧師となり、夫も聖職者であったが後に大学教授というキリスト教一家の環境であった。
文字も知らない黒人奴隷が神への愛と神からの愛を受けて、いかなる厳しい運命にも希望をもって耐え抜き、この世を去っていく。そのような歴史的な文学作品を書いたストー夫人の詩が、メンデルスゾーンの曲によって朝の礼拝のときの歌として広く愛される賛美歌となっている。
この曲は、彼のピアノ独奏曲「無言歌集」(作品30の3)にある。
メンデルスゾーンは、ユダヤ系ドイツ人の音楽家で、祖父は有名な哲学者。彼の父の代からキリスト教(プロテスタント)に改宗した。
彼の音楽は、結婚行進曲や交響曲「スコットランド」、「イタリア」、「バイオリン協奏曲」などで広く知られているが、バッハのマタイ受難曲の公演を実現して、全ヨーロッパにバッハの音楽の卓越性を認識させ、復興させることにつながったという点でも重要である。メンデルスゾーンはバッハの作品を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と見なしていたという。メンデルスゾーン自身もキリスト教音楽としては、詩篇第42篇「鹿が谷の水を慕うように」、オラトリオとして「聖パウロ」、「エリヤ」、「キリスト」など、多くのキリスト教関係の作品も残している。
12、みどりもふかき 詩:E.R.Conde 曲:イギリス民謡(讃美歌21―289、讃美歌122)
これは、イエスの若き日の歩みの一端をイザヤ書のメシアの預言と関連させて歌った讃美歌である。(特に2節)
「彼は主の前に若枝のように芽生え、
砂漠の地から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見とれるような姿もなく、輝きもなく、
われわれの慕うような見ばえもない。」(イザヤ書53章2節)
この歌に歌われたような静かな生活、それは後の激しい霊的な戦いの備えとなった。
若きイエスは、かつて清い心もて故郷の村を歩まれたが、現在も生きたキリスト、あるいは聖霊となって私たちの世界のただ中におられ、共に歩んでおられる。「神の国はあなた方のただ中にある」(ルカ17の21)と言われ、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」(マタイ18の20)と約束してくださっているとおりである。
なお、 この歌はイギリスの古い民謡で、イエスの心清く歩まれた若き日を感じさせる流れるようなさわやかさの感じられるメロディーである。
13.ガリラヤの風かおる丘 詩:別府信男 曲:蒔田尚昊(讃美歌21-57、友よ歌おう3)
作詞、作曲者ともに日本人の作品。この新聖歌に収録された歌は、1976年に日本キリスト教団出版局から発行された「ともにうたおう」に含まれていたもので、中高生キャンプ指導者として参加したときに書かれた。曲は桐棚学園大学講師であった蒔田尚昊(まいた しょうこう)による。
この歌は、礼拝のはじめにとくにふさわしい。歌詞と曲がよく溶け合っていて、ガリラヤの風という歌詞のように、主イエスが歩まれた湖岸からの聖なる風が吹いてくるような曲である。み言葉を聴きたいという切実な願い―マルタとマリヤ姉妹のうち、マリヤはただひたすら主イエスに耳を傾けていた。それを主イエスはなくてならぬものとしてそのマリヤの姿勢を重視された。私たちもこの歌とともに、み言葉に耳を傾ける心の準備をすることができるとともに、この賛美にのってみ言葉が流れてくる思いがする。1節は、キリストがガリラヤ湖岸にて語られたその命のみ言葉が、2000年という歳月を越えて現代まで、聖霊という風とともに伝えられてきたこと、それゆえに、今も私たちが心の耳を傾けるとき、そのみ言葉を聞き取ることができること、2節は私たちの日々の生活において、また世界のいずこにあっても吹き荒れるこの世の嵐と大波、それにうち勝つ力あるみ言葉を待ち望む祈りの言葉がある。
3節は、人間の根本問題たる罪からの救いのために十字架につかれたキリストは、その激しい苦しみの中からさえ、私たち罪人への愛ゆえに招きの言葉を発せられた。そのような命がかかっているみ言葉を今も聞かせてくださいと願う。
4節は、よみがえられたキリストが、エマオへの途上で二人の弟子に語られた時、そのみ言葉によって弟子たちは心が燃やされた。現代の私たちにおいても、キリストの言葉こそあらゆる人の魂に点火し、神の愛で燃やし続ける力があり、それこそが、困難な現代に立ち向かう力を与えることができる。
14、われ聞けりかなたには 詞:不詳 曲:ロシア民謡 (新聖歌471、讃美歌第2編136)
これは、天の国への憧憬を歌った讃美歌である。私たちの現実の歩みは弱く、またさまざまの悲しみもある。そのような中で、「わが足は弱けれど 導きたまえ 主よ」、「悲しみも幸とならん」、「御声 聞きて喜び 御国へと昇り行かん」このような歌詞をもつこの歌は、多くの人にとって深い共感とともに歌える讃美歌であろう。この世の苦しみの中にありつつ、御国を見つめて歩み続けようとする心を励まし力づける歌である。この歌には、ハレルヤ!(主を賛美せよ、主は素晴らしい)…が繰り返されているが、これは聖書にある「常に喜び、祈り、感謝せよ」(Tテサロニケ5の16〜17)を思い起こさせる言葉である。
この歌の歌詞は、ローマ帝国による迫害という現実の苦しみや重荷のなかにあって、使徒の一人が受けた天の国からのうるわしい啓示(黙示録7の9、22の1〜5)がもとにあるが、それにふさわしいメロディーが付けられて、現代の私たちにも愛唱される讃美歌となった。
15、勝利をのぞみ 詞・曲:アフロ・アメリカン・スピリチュアル (讃美歌21―471、讃美歌第2編164)
アフロ・アメリカン・スピリチュアルとは、アフリカ系アメリカ人の霊歌という意味。奴隷としてアメリカに連れてこられた黒人たちに由来する歌。霊歌とは、黒人霊歌、白人霊歌の総称。原詩の冒頭は、WE SHALL OVERCOME(私たちは勝利する) となっていて、shallが用いられているのは,私たちが勝利するということは、人間の意志を超えて神が必ずそうされるのだという強い確信が込められている。
この歌は、黒人の差別撤廃のために命をささげた、マルチン・ルーサー・キングの心に深く響き、20万人が参加したワシントン大行進のときにもこの歌を歌い、また、1965年になされた説教でも「We shall overcome. We shall overcome. Deep in my heart I do believe we shall overcome…」(我々は勝利する。私の心の深いところにおいて、私は、我々が勝利することを確信している)と語っている。さらに、暗殺される直前の1968年3月31日の日曜日の説教にも、この歌の主題である「We Shall Overcome…」という言葉を繰り返したほど、彼の魂に深く根ざし、励まし勇気づけた歌となった。
この歌は、現代の私たちにも、さまざまの苦難に直面しても、「あなた方はこの世では苦難がある。しかし、私はすでに勝利しているのだ」(ヨハネ福音書16の33)という主イエスの言葉とともに重ね合わされ、生きた励ましの言葉として伝わってくる歴史的な讃美歌である。
16、救い主は待っておられる 詩・曲 R.Carmichael (新聖歌188、讃美歌第2編196)
誰かが私を待ってくださっている、どんなに罪深い者も、またいかに孤独であり、あるいは病気や災害で苦しむときにも待っていて下さるお方がある、そう信じることができるなら何とすばらしいことであろう。
そして実際、それは単なる願望でなく事実なのである。求めよ、さらば与えられる。門をたたけ、そうすれば与えられると主イエスは言われた。私たちのほうからまず神に求め、門をたたかねばならない。しかし、時として求める力、門をたたく気力も失われていることがある。そのようなとき、この黙示録に記されているみ言葉に魂は安らぐ。この歌は、そうした神からの語りかけ、魂への呼びかけを思い起こさせるものとなっている。
「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者とともに食事をする…」(黙示録3の20)