リストボタン神こそわが望み、心を高くあげよう―詩篇25篇―

主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
わたしの神よ、あなたに依り頼みます。
あなたに望みをおく者はだれも (3節) 
決して恥を受けることはありません。
主よ、あなたの道をわたしに示し
あなたに従う道を教えてください。(4)
あなたのまことにわたしを導いてください。
教えてください
あなたはわたしを救ってくださる神。
絶えることなくあなたに望みをおいています。(5)

この詩ははっきりとした特徴を持っている。それは1節にある「あなたを仰ぎ望む」という言葉である。この言葉を言い換えて3、5、15、21節にあるように、「あなたに望みをおいている」「主に目を注いでいます」と、いくつかの言葉でそのことを表していて、初めから終わりまで、神に望みをおくという基調がある。
この世のあらゆるもの―特定の人間や自分の能力、考え、あるいはお金や健康など目に見えるもの、あるいは社会の組織等々は、必ず壊れる。そこに希望を置いているなら、そのような希望も必ず壊れる。
この作者は、人間の本当の希望はただ神にあることを深く知っていた。

1節の原文は「わたしはわたしの魂を引き上げる。」英語訳は原文とほぼ同じように訳されている。
I lift up my soul.

人間の心は自然のままでは狭く、低いところへと落ちていく。そういうことから、この詩人はまず心を高く上げようということから始めた。
私たちは、うっかりすると日常生活の中で心がだんだん低く、汚れてくることが多いので、主日礼拝のような礼拝集会は、霊性を高く引き上げようとするのが目的である。みんなが集まることによって、またその集まりの中にいてくださる主イエスによって、共同で高くあげていただくためにある。
このように心をあげることは礼拝の基本の精神を表すので、讃美歌第2編では、最初に「心を高く上げよう」と題した讃美歌が置かれている。

こころを高くあげよう。
主のみ声に従い、
ただ主のみを見あげて、
こころを高くあげよぅ。
霧のようなうれいも、
闇のような恐れも、
みなうしろに投げすて、
こころを高くあげよぅ。
主から受けたすべてを、
ふたたび主にささげて、
清きみ名をほめつつ、
こころを高くあげよぅ。 
(讃美歌第2編1番より)

このようにまず心を高くすることは、わたしたちがいろいろな人間的なものから目をそらして、神を見つめようとすることにある。
そうすると神が助けてくださって、よりいっそう高く上げてくださる。自分で自分の心を高く上げることは、なかなかできないことだが、神に向って心の目を上げる、主をみつめようとするその心が神によって喜ばれ、そうしなかったよりも引き上げられることは確かなことである。
ときにはそのように引き上げられずに、泥沼にあえいでいるような気持ちが続くことがあっても、なおも、あきらめないで、主を仰ぎ続けるときには、時が来て確かにそのような霊的な泥沼から引き上げられる。
そして3節にあるように、神をいつも見つめて希望を持っている者は、決して恥を受けることがない。これは、単に恥ずかしくなることがないということではなく、見下され踏みつけられてしまうことがない、人の悪意によって滅ぼされることがないということである。
このすぐあと5節に「あなたは私を救ってくださる神」と言われているように、神を信じ、神に希望をかけているかぎり、滅びることなく、救われるのだという確信である。
どんなに追い詰められて苦しい中にあっても、その中で神のことを忘れなかったらまた道が開けていくということは、信仰を続けたきた人は、誰もが経験していることであろう。

 4節「あなたの道を…」には、この詩人がわたしたちの歩むべき具体的な道についても、深く思っていたことが分かる。多くの英訳ではこの後のほうの「道」は「小道」path とも訳されている。(*)

(*)Make me to know your ways, O LORD; teach me your paths. (NRS)
主よ。あなたの道を私に知らせ、 あなたの小道を私に教えてください。 (新改訳)

道という原語にもいくつかあり、詩では同じ言葉を繰り返さないことが多いので、別の言葉が用いられているということもあろう。
しかし、たしかに神に従う道は狭い。主イエスが言われたように、「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。」(マタイ7の14)
わたしたちは神を見つめなかったら、神の道など、まるで関心がないし、教えてくださいという気持ちにもなれない。
この詩人が神の道と共に思い起こしたのが、神の真実である。人間はなかなか真実ではありえない。言うことも行うことも、間違ったり、嘘を言ったり、言い過ぎたりする。
ヨハネの福音書にある次の有名な言葉は、私たちの歩むべき「道」について完全な形で表している。

…私は道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14章6)

主イエスご自身が道であり、真理であり、命である。これは主イエスが道を教える以上に、主イエス自身が真理そのものだというのである。主イエスご自身が命であるから、主イエスと結びつけば、わたしたちもその道をひとりでに歩ける。
歴史上の有名な思想家や宗教家たちは、彼等が真理とすることを教えたり説明するだけであるが、主イエスは、イエスご自身が命であり、真理である。それゆえに哲学やいろいろな思想に関する難しい本を読んで勉強しなくても、主イエスを信じて受け入れるだけで道そのものを歩んで行ける。

主よ思い起こしてください
あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。(6節)
わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず (7)
慈しみ深く、御恵みのために
主よ、わたしを御心に留めてください。
主は恵み深く正しくいまし
罪人に道を示して下さいます。
裁きをして貧しい人を導き (9)
主の道を貧しい人に教えてくださいます。(10)
その契約と定めを守る人にとって
主の道はすべて、慈しみとまこと。
主よ、あなたの御名のために
罪深い私をお赦しください。

この第二段において、作者は、一貫して自分の罪深きことを神に告白し、その罪の赦しを求めている。罪とは人間のあるべき姿、神様が人間に求めておられるあり方からはずれる心の動きや行動をすべて含んでいる。
自分の心に生じる思い、過去に犯してきた数々の間違った思いや行動、それらすべてをはっきりと見つめ、その赦しを乞うている。
こうした心の汚れ、罪というのは、神からの赦しを受けないかぎり、清くならないし本当の魂の平安がないからである。
人間の本当の心の叫びとは、健康や家族、人間同士のよい関係、長寿、経済的な豊かさ、人から認められること等々ではなく、この心のなかの不純さ、罪が清められたいということなのである。
 しかし、それは私たちの意識の奥深いところにあるために、通常は気付かない。罪ということすら分からなくなっているのが現実の人間である。
それは、神という愛や真実、正しさという永遠の基準が見えないときには、汚れも、利己的な心も、また不正も全体に感じなくなるからである。純白の布を背景におくと、わずかの汚れもわかる。しかし、汚れがひどいほどそこにいろいろな汚れがついても気付かないのと同じである。
私たちの心は実にさまざまのもので汚れているから、気付かない。
そうした状態にあって少しでも神様のことがわかるようになると、自分のそれまで気付かなかった汚れ(罪)に気付いてくる。
この詩の作者は、神に向うまっすぐな心を与えられたゆえに、そうした自らの心の奥深いところまで過去から現在にいたるまでわかるようになった。それがこの詩のこの第二の段落にはっきりと現れている。
そして、自分の罪深いことと共に、そのような者をも見捨てないで赦して導いて下さる愛の神を知らされていた。
作者は、自分自身の罪―それも7節にあるように、若いときの罪をもはっきり思い起こしている。若いときには誰でも罪の重さが分からない。言葉によってどれほど相手を傷つけるかということがわからない。後になって、自分が深く傷ついてから思い知らされる。
この詩人は若いころに犯した罪を持ち出されて、罰せられるなら耐えられないという気持ちであり、それらを罰するということで思い起こすのでなく、慈しみと愛のゆえにわたしを思い出してください、赦してくださいと赦しを願っている。
この気持ちは、おそらくだれでも自分をふりかえってみれば思い当たることであろう。
8節、作者は、そのような罪を若いときから重ねてきた罪ふかい者にも道を示してくださる愛の神であるのを知っていた。罪人を罰して捨て去るのではなく、かえってそのような罪人にも道を示してくださる。
「貧しい人」(9節)と訳されている箇所は、原文では、アナーウィーム (*)で、これは、単に経済的に貧しいという意味にとどまらず、苦しめられている、(それを耐え忍んでいるゆえの)柔和さ、謙遜などをも意味している。
日本語訳でも、そのような多様な訳語があてられている。

(*)これは、アーナーの複数形、これと同語源のアーニィなどの元の意味について、ヘブル語の辞書では、be bowed down,afflicted (曲げられた、苦しめられている)と説明されている。(BRWON・DRIVER・BRIGGSのヘブル語辞書による。これは、オックスフォード大学出版局・1907年刊。ヘブル語の辞書として代表的なものとされてきた。)

また11節には「主よ、あなたの御名のために 罪深いわたしをお赦しください。」他の訳では「…わたしの罪は大きいのです。」とあるように、この詩人は自分の罪の大きさを深く知っていたことが分かる。御名のため、私が赦されるにふさわしいというのでなく、神様ご自身の愛と真実ゆえに赦してくださいという願いである。
今から二千五百年から三千年ほども古い時代に、すでにこのように、自分自身を厳しく見つめ、また神の愛を深く知っていた人間がいることに驚かされるのである。
そして、こうした罪の赦しとその赦しをされる神の深い愛は、ずっと啓示として受け継がれて、キリストの十字架による万人の赦しへとつながっていくのである。

…わたしはいつも主に目を注いでいます。
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは苦しく、孤独です。(*)(16節)
見てください。わたしの苦しみを。どうかわたしの罪を取り除いてください。
敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、悪しきことを仕掛けます。(19)
御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出してください。
誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように。
わたしはあなたを待ち望んでいるのです。
神よ、すべての苦難から贖ってください。(15〜22節より)

(*)19節は、新共同訳では「貧しく、孤独…」とあるが、原語は、アーニィで、すでに説明したアナーウィームと同語源。圧迫されている、苦しむ、悩むという意味。口語訳では「苦しんでいる」、新改訳「悩んでいる」と訳されている。

 この段落では、作者の苦しむ現状について言っている。今のこの詩人は敵対する者から受ける苦しみの中から、敵への攻撃的な心を燃やすのでなく、そこから、自分自身の罪をも深く知りつつ、神が自分の罪を赦し、そして迫りくる悪の力に勝利してくださるようにと待ち望んでいるのである。
この詩人は過去だけではなく、今も罪が深くあることを知っていた。安全な生活の中から詩を作っているのではなく、反対者、敵のただ中で生活していたことが分かる。だからこそ切実に神を仰ぎ望み、神に希望をおき続けようとしているのである。
 このようにこの詩は二つのことが特徴となって、両方が織り成されている。
自分の罪の深さと、それにもかかわらず、赦し導いてくださる神の愛である。
若いときから今に至るまでのさまざまな罪の深さを知ったときには、心が暗くなる、そこで忘れようと思って飲食や遊びで紛らわすのではなくて、この詩人は罪を知れば知るほど神をまっすぐ仰いだ。
そうして罪を赦し清めてくださる神のことを思って、そこに希望があることを繰り返し言っている。現在は敵対する力の前で苦しみが続くが決して神への信頼を失わない。
 敵の力に、本当にうち勝つには、自分の内なる悪の力―罪の力に勝利していなければならない。そしてそれこそ、神の力による。であるからこそ、作者は神を待ち望むということを一貫して言っているのである。
今日のわたしたちもいつも主に目を注ぐことによって、さまざまな過去、現在の罪を全て清めていただけるということがキリスト信仰の根本であるということを思わされる。この詩人は苦しみや悩みなど、いろいろ抱えていたことがわかるが、そういう中で道が示されて歩んでいったのであり、今のわたしたちにも深い励まし、慰めを与えてくれる詩となっている。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。