はじめに (徳島聖書キリスト集会代表者)
誰でも自身を導き、教えてくれる存在を求めます。だれでも自分の力がいかに弱いかを知っているからです。激しい痛みの伴う病気になれば、医者や薬によらねば耐えられない状態になり、自分の力などいかに乏しいかを思い知らされるものです。地震や台風災害を人間の力で防ぐとかいうこともいかに困難かは阪神大震災とかでもよくわかることです。自分の心一つすら支配できない、というのが人間の実体であり、それだけを見ても人間の力の弱さはだれでもわかるはずのものです。
そうした弱さのただなかにあって、私たちは生きています。
そこから道は分かれます。その弱さにつぶされるままになるのか、それとも、弱くてつぶされるのを忘れようとして、飲食や薬、娯楽など遊びや快楽で忘れようとするか、あるいは弱くてつぶされるのは分かっていてもなお、自分の意思と努力などで対抗していこうとするか、大多数の人は、それらのいずれかの道を取ることになります。
私もかつては自分の力と意思でやっていこうとしていたのですが、この世の世界的な環境問題や戦争などの大きな問題と人間の根本にある弱さ(罪)の問題の前には、自分の力や決断などいかにもろいものかを思い知らされていったのです。
そうした道のいずれでもない道が、二〇〇〇年も前から、この世界に夜空の星のように一貫して変わることなく、備えられていたのに気付いたのは、二十一歳のときでした。
そしていかに自分の個人的な事情が暗くて苦しくともひとたびその道を見いだした者、神によって示された者は、いわば道なき道の錯綜するこの世にあって、一筋の道がかなたへと続いているのを見えるのです。
そして数千年の間、その道を歩いていった無数の人々が見えてくる。ただしその道は主イエスが言われたように、門も狭く、道も細いように見えるのです。しかし細い小川も次第に水を集めて大きく広がっていくように、神の国への道も次第に広く深いものとなって御国へと続いていくのがわかるのです。
そしてその道を歩くためには、健康である必要もなく、学問も関係なく、年齢や経験、学識性別など、いっさいが問われないのです。ただ、聖書で言われているような神を信じるだけ、その神が遣わされたキリストを私たちの主として受け入れるだけなのです。
一人でも多くの人が、そうした永遠へ通じる道を見いだし、歩き始めることができるようにと願っています。
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