今日のみ言葉
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2007年〕

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ジンジソウ(人字草)
ジンジソウ(人字草)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

今日のみ言葉 162  2007.12.10

「とこしえの岩」
(イザヤ書264

とこしえに主に信頼せよ。主なる神はとこしえの岩だからてある。

Trust in the LORD for ever, for the LORD GOD is an everlasting rock.


このひと言につきるほど真理は単純である。この短い言葉を信頼してそのとおりに、どこまでも主を信じ続けるとき、たしかに主は、よきもの

 

を与えて下さる。それがどのようなものであるか、その人の状況によって異なる。それぞれの人において本当に必要なものを神はご存じであるから、そのようなよきものを与えて下さる。

 人間はどこまでも信頼できるものではない。それは人間とは罪深い存在であり、してはいけない、言ってはいけないと思っても弱さのために罪を犯してしまうことがだれにでもあるからで、そのことを知ったときには人間はどこまでも信頼できるものでないということを思い知らされるであろう。

 しかし、人間が弱くもろい存在であることを知らされて、それで終わることなく、私たちは、そこから人間を創造された神に頼るべきことを示される。

 そして、神の国の賜物(愛)を受けて、そうした罪深い人間に清い心や悪に対抗する力が与えられるようにと祈ることが求められている。

 すべてがもろく移り変わるこの世にあって、神は決してその本質たる愛と真実を失わないと信じることができるのは何と幸いなことであろう。

 神こそは岩、神は愛であるから、その愛は岩のごとく強固で変質することがない。変るのは私たちの方であって、神ご自身は変ることなくその清い本質を幾千年経っても保たれている。

 近いうちに発生するかも知れない大地震の対策がさまざまに行われている。しかし、人間の魂の激震に耐えるような強固さはどこから来るだろう。それはただ、岩なる神からくる。  


ジンジソウ(人字草)

ジンジソウ(人字草)

         徳島県中津峰山         2007.11.3

 

 この花は、湿った岩の上などに生えます。この写真は、小さな滝のそばでひっそりと咲いていたもの。私の家から八キロほどのところから登山口がある山(標高773m)で、その一つの谷には、滝が五つ連続しているので五滝と言われています。もう長い間行く機会がなかったのですが、「いのちの水」誌の11月号にも触れた桂の木の大木があるので、その美しい黄葉と香りある落葉に触れ、集会に参加している人にその独特の香りある落葉を採取して紹介したいと、土曜日集会のまえに立ち寄ったところ、このジンジソウが咲いていたのです。

 白い2枚の花びらが、「人」という「字」に似ているので、ジンジソウという名があります。あとの3枚の花びらはごく小さいので飾りのように見えます。 静かに語りかけてくるような花です。

 なお、中央の花の左に見える葉は、イワタバコで、やはり水のしたたるような岸壁などに生えるもので、この植物は夏には紅紫色の美しい花を咲かせます。

 大分以前に、この山を歩いているとき、水の流れ落ちている岩肌に、このジンジソウの白い花がたくさん咲いていて、清流の水を受けて水が白い花になっていくように感じたほどです。

 ほとんど日が当たらないような樹林帯の谷にあるのですが、こうした場所を好む植物もあり、実にさまざまのところに、多種多様な植物が生えています。

 人間もほかの人なら到底耐えられないようなところにあって、立派に耐えて花を咲かせている人を見ることもあります。 神が支えられるときには、人はさまざまの状況にあって育ち花を咲かせるのだと思われます。 (文、写真ともT.YOSHIMURA


 

今日のみ言葉 161  2007.11.10
「小さな者」
(マタイ福音書1814

 
これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。

 So it is not the will of your Father in heaven that one of these little ones should be lost.

 

 この言葉は、主イエスのお心がよく現れているし、それはそのまま神ご自身のお心である。小さな者とは、この言葉の直前に言われている、迷い出た一匹の羊であり、あるいは、幼な子のような心もて主を信じる人である。

 正しい道から迷い出た者とは、特別な人ではない。どんな人でも、常にその危険にさらされているし、だれでも人は本来迷い出た状態なのである。 人間はみんな罪を持っている、本当に正しい道から外れているし、悪人や敵対するような人をも受けいれ、そのために祈るような愛を誰も本来は持っていない。みんな心の奥底では自分中心のところを持っている。そこが迷い出て行く根源となっている。

 神の目からみるならば、皆小さきもの、迷い出たものにすぎない。

 使徒パウロが、「正しいものはいない、一人もいない。皆迷っている。善を行う者はいない。…」(ローマの信徒への手紙310-12) と詩編の言葉を引用しつつ述べているのはこのような事実を指している。

 私たちは自分がどんなに弱い存在であるか、小さなものにすぎないか、それは少し無視されたり、事実でないことを言われたりするだけでも動揺したり、腹を立てたりすることでも分かる。

 経済的問題、あるいは病気や自分のしていることがうまくいかない、失敗を犯した、罪深い言動をしてしまった…私たちはどんな状況にある人でも常にこうしたさまざまの問題に直面し、そのたびに自分の弱さを感じ、小さな者であることを思い知らされる。

 そのようなとき、小さな者をこそ、神は見つめて下さっている、その救いのために愛を注いで下さっているということを知らされるのは深い慰めであり、また励ましである。

 現在は健康で社会的にも活発に働いているような人であっても、そのうちに必ずこうした弱さを思い知らされる事態に直面するゆえに、この主イエスの言葉は万人にとって恵みの言葉となっている。


シュウメイギク 秋明菊

シュウメイギク 秋明菊 

        わが家にて     2007.11.5

 

これは、菊という名を持っているけれども、菊の仲間でないことは、花をよくみるとわかります。キク科の花は、例えばヒマワリのように、筒状花(つつじょうか)または、管状花(かんじょうか)といわれる小さな花が中央部に密生し、その周囲を舌状花(ぜつじょうか)といわれる花が取り巻いているもの、タンポポのように舌状花だけで構成されている花もありますが、いずれにしても多数の小さい花が密集して全体としてひとつの花となっているのです。

 このシュウメイギクは、そのようになっていないのが、この写真を見てもすぐにわかります。シュウメイギクは中国が原産で、古い時代に日本に入ってきたとのこと、この花の英語名は、ジャパニーズ・アネモネ(Japanese Anemone)と言われるのは、これをイギリスに1844年に紹介したロバート・フォーチューンが、中国の上海でこの花を見付け、そのときにはこの花は日本から来たと言われていたとも、最初にヨーロッパ人が発見したのが日本であったからだとも言われています。そしてこの花は、英名のとおり、アネモネに近い仲間で、キンポウゲ科に属する花です。

 もともとのシュウメイギクは、紅紫色ですが、写真のように白色のものもあり、これは陽光を受けてその純白の花が心に語りかけてくるようです。私たちはこのような汚れないものを持っていないためにいっそうこのような白い花に惹かれるのです。

 主イエスがご自分の最期が近づいたとき、弟子たちを伴って高い山に上って祈られたがそのとき、イエスの服は「真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ93)と、特にその白さが強調されています。

 また、次の詩もまた、人間のうちなる汚れをどうにかして清め、真っ白な状態にして欲しいという切実な願いが込められています。

「…わたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。」(詩編 51:9

 私たちは、このような純白の花に接するとき、この詩の作者とともに、この花のように清め、白くしてください、という願いを新たにしつつ見るのです。 (文、写真ともT.YOSHIMURA


 

今日のみ言葉 160  2007.9.28
「わが右の手を」

 (詩編7323-24

しかし、私は常にあなたと共にあり、
あなたはわが右の手をかたく取られる。
あなたの計画のままにあなたは私を導き、
その後―栄光の中に私を受け給う。

Nevertheless I am continually with you; you hold me by my right hand.
You guide me with your advice, and afterward you will take me into glory.

 

 この詩の作者は、さまざまの悩みに苦しみ、心は乱れて獣のようであったと、ここに引用した部分の直前で述べている。それにもかかわらず、神は彼を見捨てず、また彼はそのような乱れた状態にあってもなお、神に叫ぶ心を失わなかったのであった。
 
余りの苦しみのゆえに、どのように生きるべきか分からなくなっていたとき、この作者は神が自分の手をしっかりと取って下さっているのを実感した。そしてそのお心のままに自分を導いて下さっていることを知らされたのである。 人間は何事も苦しいことのないときには、真っ直ぐに歩いていけるように思う。しかし、ひとたび思いがけない苦しみに直面するときどこに向かって歩むべきかまったく分からなくなる。そのような時、目には見えないけれど愛の神が自分の手を取って下さっていると実感できることは何と幸いなことであろう。
 
そしてその神の導きの確かな実感のゆえに、死のかなたにも、神は自分を確かに導いて永遠の神の栄光の内へと伴って下さるのを知らされたのであった。
 
私たちにおいても、いかに困難ありとも、また心が沈んでいくような状況に置かれようとも、主の御手が私たちを固くとらえて下さっているのである。主イエスが十字架で処刑されるとき、「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのか」と叫んだほどに苦しみはその極限に達した。しかしそれでも確かに神の手はイエスを固くとらえていて、死を越えて神のみもとへと導かれたのであった。私たちもこのことを信じて歩ませていただきたいと願う。


ネジバナ

ネジバナ (モジズリ ) 

  山形県にて          2007.8.28

 これは今年の夏に、北海道からの帰りに山形を通ったときに、静かに広がっている草地で見かけたものです。 ネジバナは、こうした草原のような所にはよく見かける植物です。緑一色の草地に、このようにピンク色の花をらせん状に咲かせている姿は、ふとそれを見付けた人に造化の不思議さを思わせるとともに、このように、自然の中に彩りを添える神のお心が伝わってきます。
 
野生のラン科の花は、私たちの身近にはなかなか見られなくなっています。
 
シランは、よく庭に植えられていますが、野生のものは私はずっと以前に、一度だけ県内の大きな川(那賀川)の上流で見かけたことがあるだけです。 春に里山で見かけるシュンラン、山地の林に生えるエビネ、フウランなども、最近では見かけることも難しくなっています。 さらにアツモリソウやサギソウなどは、特別に保護しないと見られない状態です。
 
そのような中にあって、ラン科でありながら 身近な草地、しかも思いがけない空き地などにも群生が見られるこのネジバナは、不思議なたくましさを持っていて、滅びずに 人間の生活に近いところで育って美しい花を咲かせています。  これは、意外なところに育って咲くかと思えば、そのうちに見られなくなり、忘れたころに予想してないようなところに見付けたりすることがあります。
 
この花は、ねじれて咲くゆえに、ネジバナという名があります。しかし、ねじれていながら、その姿はどこか真っ直ぐに神に向かっています。
 
人間はだれでも罪深いものであり、心がねじけているような状態であるのに、それでも、心を神に向けるだけで、罪赦され、真っ直ぐなものと見て下さり(義とされ)、神から見捨てられることなく、主からの恵みを受け続けることができるようにして下さるのは驚くべきことです。(文、写真ともT.YOSHIMURA



 

今日のみ言葉 159  2007.8.22
「涙をことごとくぬぐい去る」
(黙示録214

神は、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。

God will wipe every tear from their eyes.
There will be no more death or mourning or crying or pain have come to bring fire to the earth,

 

この世には、いつも、どこにあってもさまざまの悲しみがある。自分や家族には悲しみなどないという人もいるかも知れないが、ひとたび周囲の世界を見るなら、はるかな古代から現在に至るまで、いたるところで悲しみや苦しみが満ちている。
 
しかし、そのような悲しみに対する深いなぐさめの言葉が、聖書の最後の書物である黙示録の終りに近いところに見られる。
 
それは、あらゆる涙がぬぐい去られる、どんな深い悲しみであってもそれらはぬぐい去られる時があるということである。
 
私たちが抱く悲しみは実に千差万別である。自分の病気が治らないという悲しみは最も身近なものであるし、罪をおかしたゆえの、あるいは他人によって傷つけられた悲しみ、見下され、不当に扱われ、また家族という最も近い存在にも、どうしてこのようなことが、なぜ、といった問題が生じたりする。
  
主イエスは、人々が導くもののない羊のように弱っているのを見て、深く憐れんだという。 人間全体が実は、悲しみの深い雲に包まれているようなところがある。現在幸せそのもの、といったような家庭でも、突然大いなる悲しみがふりかかることもある。
 
深い悲しみはそれを受けた人の魂に消えることなき傷跡を残し、その後も痛み続ける。魂から血の出る思いを持つこともあるだろう。
しかし、主イエスは、言われた、「ああ、幸いだ、悲しむ者たちは!」と。
 
このような驚くべき言葉を出されたお方は、二千年前の過去の人でなく、実はすぐそばにおられるのである。
なぜ、悲しむ者が幸いなのか、それは、「その人たちは、神によって慰められる(励まされる)からである」と言われている。深い悲しみという道のないと見えるところから、実は神の愛の御手に包まれるというところへ道が続いている。
 
イエスの教えにおいて最も知られた山上の教えといわれるもののなかで、最初に「心貧しき者は幸いだ」(心に誇り、高ぶりあるいは自分の持っている力に頼るようなところがない心こそ祝福されている、という意味)と言われて、そのすぐあとに、この悲しむ者の幸いが、記されているところに、神の深い愛を感じる。
 
生きているときからこのように私たちの悲しみは、神を仰ぐ者においては必ず慰めを受けることが記されているが、世の終わりにおいて最終的にあらゆる悲しみが終わること、それとともにしばしば最大の悲しみをもたらす死ということもない世界へと導かれることが約束されている。


オニシモツケ

オニシモツケ   北海道 瀬棚にて       2007.7.14

  (瀬棚とは、奥尻島の対岸にある地域) 

この野草は、北海道での滞在中、車で移動中に折々に山沿いの地で見られたものです。つぼみは赤みがかった色ですが、花は白色。小さな花をたくさんつけます。高さは、1m2mにもなり、葉も大きく、野生のものは本州では中部以北の深山、北海道とあります。北海道では低い山地にも時々見られたものです。人通りもほとんどないところで、このように静かに咲いている様は、心引かれるものがあります。
 
シモツケという名前のついている植物は、ほかにシモツケソウ、樹木にも、シモツケやホザキシモツケなどいろいろあります。この写真の植物はシモツケのなかまの内で大きいので、「オニ」というのが前に付いています。これらに付けられているシモツケとは、その木が、下野(しもつけ)の国、すなわち栃木県で最初に発見されたからと言われます。これらは皆よく似た花の咲き方をしていて、小さな花がたくさん集まって全体としてまた新たな美しさを生み出しています。
 
チューリップやスイセンなど、花も大きく一本だけ花瓶にさしてあっても、それ自体で美しさを持っていますが、このシモツケのなかまや、集まり方はちがってはいても、キク科の花やアジサイのように小さい花が集まって全体として花としての美しさを表しているのもあります。
 
人間も似たところがあって、一人だけでもとても歴史に大きい働きをして目立つ場合もありますが、キリスト者が二人三人あるいはもっと多くとも、そうした人々の集まりが全体としてうるわしい花となるように、というのが、神のご意志だと言えます。エクレシア(キリストを信じる人の集まりで、「教会」、「集会」と訳される。)がキリストのからだである、という聖書の言葉はそのことを暗示しています。  (写真、文ともに T.YOSHIMURA




 

今日のみ言葉 158  2007.8.7
「地上に火を」
(ルカ福音書1249

私が来たのは、地上に火を投じるためである。

その火が燃えていたらとどんなに願っていることか。

'I have come to bring fire to the earth,

and how I wish it were blazing already
 
New Jerusalem Bible;   blazeとは、燃え立つ、光るという意)

 
 
この言葉の背後に、 「あなたの中に、清い火、聖なる火が燃えているか」、という一人一人への問いかけがある。
 
イエスは燃えるものをもっていた。 それは神がイエスのうちに点火し、地上に遣わせたのであり、それはあの十字架の死に至るまで燃え続けていた。

 イエスは十字架で処刑されたが、三日目に復活し、神のもとに帰りいよいよ激しく燃え続けることになった。それは永遠の炎となって、全世界に燃え移っていったのである。 そして私の心にも、数十年の昔その火の一部が点火され、ときには消えそうになるほど強い風が吹き荒れることもあったが、主によって守られて今日に至るまで続いている。
 
この世にはさまざまの、目には見えない火が燃えている。地位や名誉、あるいは金を求め、快楽を求める願望や、スポーツなどでは優勝への激しい願いが人間のなかに燃えている。
 
新聞紙上に現れるような犯罪、それが大規模になって、民族や国家の戦争になることがあるが、それらは、憎しみの炎が燃えているゆえである。
 
しかし、真実をもとめる真剣な心、清いもの、相手を選ばない無差別的な愛、それはどこに燃えているだろうか。

   まず、神の国と神の義を求めよ、とイエスは言われた。 それはそれらをもとめる心がこの地上の世界にあちこちで燃え上がるようにとの、イエスの願いそのものであった。
 
一方、人の心にこのような神の火が燃え始めるとき、それを消そうとする力が働くことがしばしばである。その際に周囲のものがそれをに水をかけて消してしまおうとする。そのために周囲との対立が生じ憎まれ、排斥されることも歴史的には数多く生じてきた。
 
つい60数年前までは、聖書的な平和主義を主張したりするだけで、迫害され罰せられた。
  
しかし、神からの真実な火は、いかなることがあろうとも、燃え続けていく力を持っているがゆえに、こうした真理に背く考え方は裁かれ、その力を失っていった。 神からの清い火は、悪の力をも滅ぼしていく大いなる力を持っているのである。
 
私たちは、魂のうちに、何らかの火が燃えていなかったら無気力になり、ついには生きていられなくなるだろう。しかし、しばしば人間のうちには、他人を憎み、攻撃したりする、さまざまのよくない火のようなものが心に生じる。
 
それゆえ、そのようなものと本質的に異なるものを天より受けたいと思う。神は愛の神であるゆえに、祈りのとき、み言葉を中心とした集まりのとき、そして日常の仕事のとき、そして病気や悩みの苦しみのときにも、心から求める人の心に、たえず聖なる火を点火し、死に至るまで日々燃やし続けてくださるであろう。


ヤマユリ

ヤマユリ   2007.7.18         岩手県にて

 
ユリには美しいものが多くあります。そしてまた歴史的にみても、ユリは古い時代からとくにキリスト教絵画にもよく描かれてきましたし、現在も好んでさまざまのユリが用いられています。 園芸店には、カサブランカといった大きなユリもあります。この有名なユリはここに見るヤマユリやカノコユリなどからつくられたもので、いずれも日本がその原産地です。

 ヤマユリは、近畿地方以北から東北地方にかけて野生が見られるとのことですが、私が学生時代によく歩いた近畿の山でも見たことがなかったもので、以前に高知の牧野植物園で植栽されたのは見ていたのですが、野生のヤマユリは今回初めて見ることができたものです。
  
今年、7月中旬に岩手から宮城に至る山沿いの道路を車で走っているとき、このヤマユリが時折咲いているのがみられてその豊かな美しさが心に残りました。 このヤマユリは、花びらがユリの仲間では最も大きく、白い花びらの中央に薄い黄色のすじが入り、赤みががった斑点が模様のようについています。
 
世界で最も美しいユリとして、このヤマユリ、カノコユリ、そしてテッポウユリがあげられることがあります。カノコユリ(鹿の子百合)は、四国・九州の崖に稀に自生 するとされ、私はもう25年ほど前に、県南部の海岸の崖で自生しているのを見付けたことがあり、その美しいユリが海からの風を受けて咲いている光景を忘れることができません。
 
テッポウユリは、現在では、キリスト教において最も重要な「復活」の象徴として、広く用いられています。テッポウユリが知られていないときには、ヨーロッパでは、白いユリであるマドンナリリーが用いられ、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ボッティチェルリなどの受胎告知の絵には、天使の左手に白いユリを持った姿が描かれていますが、これがマドンナリリーです。しかし、近年では、このユリに代わって、テッポウユリが多く用いられるようになったといいます。

 テッポウユリの原産地は、奄美、琉球列島であり、世界でとくに美しいとされる三つのユリが、この広い世界において、すべて日本が原産地であることは、とても意外なことです。
 
これらのユリのような気品のある美しさと、白いユリに象徴される清らかさと、死に打ち勝つ復活信仰が、日本においても、今後さらに広まっていくようにと願われます。(写真、文ともに T.YOSHIMURA


 

今日のみ言葉 157  2007.6.20
「主のために生き、死ぬ」
(ローマ信徒への手紙148
 
私たちは、生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです。
生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

 If we live, we live to the Lord, and if we die, we die to the Lord;
so then, whether we live or whether we die, we are the Lord's.

 

生きるということと、死ということは一見全く対立しているように見える。しかし、正反対に見えることを貫くひとすじの糸がある。それが、「主のために」あるいは、「主にあって、主と結びついて」(*)ということである。 

 *)ここで「…のために」と訳されている原語は、ギリシャ語の与格 (τω κυρ?ω )なので、「~に対して、~にあって、~と結びついて」といったニュアンスを持っている。

 私たちが生きるのは、自分のため、あるいは他人のためでなく、そうした自分と他人を超えた存在である主のためであり、主と結びついて生きるためである。

 そして死ぬということも、主と結ばれて死に、それは死後に主のところに帰るためなのであり、さらに主と同じすがたに変えられるためである。
 
この、「主にあって、主のために」ということは、神とキリストを知らないときの生き方と根本的に異なるものになる。
 
私たちの究極的な目標であり、力であり、また導きである主イエスを知らなかったときには、だれでも、自分のために生きるのだ、という気持ちがある。他人のために尽くしても、それもそうすることが自分がやりがいがある、あるいは自分にかえってくる、などという気持ちがどこかで働く。そこにはやはり「自分」というのが、生きることの一番根底にある。人間を越える存在(神)などあり得ないと考えるゆえに、生きるのも自分中心となる。
 
このような考え方では、死ということが最大の嫌悪すべきものになり、どうしても説明できないものになる。それだけ絶対的なものであった自分がなくなるのが死ということだからである。神がなく、死後のいのちもないならば、死によって目的も生きがいも他人もすべて消えていくことになる。
 
しかし、主にあって生きるとき、失敗や罪を犯してしまったときにも、主によって赦しを受けることができる。そして生きる目標もキリストのような愛と真実のためであり、目に見えない神の国のためだということになる。
   
そして、主に対して生きるとき、どのようにそれがこの世で認められないような小さきことであったとしても、主が受けいれて下さる。そして時至ってこの地上の命を終えるときにも、主にあって、主と結びついて終えるのであり、さらにその後は主と共に永遠に生きることが約束されている。
 
このひとすじの糸が心にあれば、自分にかかわる出来事だけでなく、周囲の出来事も、また主が背後で導いておられると受け取ることができるし、草木や大空のような自然の風物もまた、主に結びついたものとして見ることができるようになる。
 
そして、神などない、という場合には、死によって消滅するしかないが、神を信じ、主にあって生きるときには、生きていても、また死のときを迎えても、私たちは主の愛の御手によってしっかりととらえて下さっていると信じることができる。


アヤメ

アヤメ         学名 Iris sanguinea

    わが家にて        2007.5.4

 
日本は多くのアヤメの種類があります。最近は、外国のアヤメのなかまが多く見られますが、このアヤメは日本で昔からあったもので、ところによって大群生しています。 アヤメという名前は、この写真に大きく写っている外側の花びらに美しい模様があることからついたと推測されていますが、葉の並列する様子から美しいあやがあると考えられた、とも説明されています。

  私がかつて白馬岳に登るとき、山の静けさのなかで登りたいというのが願いであったので、たいていの登山者が登るコースとは異なる、かなり離れた山から登りはじめたのですが、そのときだいぶ登ったところで、思いがけずアヤメの大群生があり、目をみはったことを今も思いだします。 そのような群生は四国や他の山でも見たことがなかったし、今に至るまでみていないもので、強い印象に残り、アヤメを見るとそのときのことがよみがえってきます。

 アヤメの仲間の学名には、上に書いたように、 Iris (イリス) という言葉が含まれています。 これは、ギリシャ語で「虹」を意味する言葉です。アヤメの仲間が、虹のように美しいということからつけられたのです。  英語では、Iris は、アイリス と読むので、オランダアヤメのことを、ダッチアイリス、ドイツアヤメはジャーマンアイリスといって花壇にも植えられ、広く知られています。

 虹は、聖書においては、ノアが、はこ船で救われた後に、大空に現れ、それは神が、人や動物などに対して与えた契約のしるしとなっています。(創世記 9章)

 また、新約聖書の黙示録では、神の霊に満たされて普通では決してみることのできない、神のおられるところが見えた。そして「その周りには、エメラルドのような虹が輝いていた。」(黙示録43

 とあって、エメラルドの美しい碧(みどり) 色の虹が、神のまわりに広がっていたと記されています。

 私たちも、アヤメを見るとき、その学名から、イリスすなわち虹を思い、その虹から、このように神の約束のお心を、さらには、神のまわりをとりまいている希望の色、碧色に輝く虹をも思い起こすことができます。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA


 

今日のみ言葉 156   2007.5.20

「あなたの真実のゆえに」
(詩編11975

主よ、あなたの裁きが正しいことを 

わたしは知っています。
わたしを苦しめられたのは
あなたの真実のゆえです。


I know, O LORD, that your laws are righteous, and in faithfulness you have afflicted me.

 

 私たちに日常生活のなかで、さまざまの苦しみや悩みが生じる。それは身近な家族、職場、あるいは友人との問題や自分自身の罪、あるいは他者の罪による苦しみがある。さらに他人には分かってはもらえない病気の痛みや苦しみがある。
 
それらすべては一体目的があるのか、実際に私たちがさまざまの困難に直面したときには、そうした事態が生じたことの目的など、なかなか考える余裕がない。
 
なぜ自分はこんな苦しい目に遭わねばならないのか、そのことを考えても分からないことが多い。しかし、なぜなのかという意味を、すべてをご支配されている神に向かって繰り返し求めていくとき、そしてそのような苦しい出来事からいくらか時間を経て、心を静めて祈るとき、神は愛の神であるゆえに、悪いことをすることはあり得ない、人間のように悪意をもって苦しめるということは決してない。この苦しみもはっきりとした目的がある、というように導かれていく。 この詩の作者は、自分の苦しみは神の真実のゆえだった、という驚くべき実感を記している。
 
ふつうはこの逆であり、自分だけこんなに苦しみに投げ込まれるのは、運命が自分を迫害しているのだ、あるいは○○という人間が悪いからこんなことになるのだ、といったように何らかの悪意が自分を苦しめている、というように受け取ってしまう。
  
私たちを苦しみに陥れる偶然的な事故や災害、あるいは人間の悪意など闇の働きのかなたに、神の愛と真実が見えてくるような世界、それこそ私たちが求めていることである。
 
地上のいかなる汚れや悪意にもよらずにその輝きを放ち続けている夜空の星の澄んだ輝きは、そのような世界が私たちの身近なところにある、ということを語りかけている。


ナルコユリ (鳴子百合)

ナルコユリ (鳴子百合) 

  愛媛県佐田岬半島     2007.5.14

 
福岡県の妻の実家に行った帰り、九州に向かって四国から長くのびている佐田岬半島を徳島に帰る途中、長距離の車の運転に疲れて少しだけ近辺の植物を調べてみようとしたのです。すると、このようなナルコユリとの出会いが与えられました。
 
もう数十年前に、北アルプスのふもとの地方にてナルコユリを見たことがありましたが、そのときはすでに花がほとんど終わっていた頃であったので、このようにちょうどすべての花が咲き揃っているのは初めて見たものです。 四国の西端の佐田岬から、わが家のある徳島県東部の小松島市まで、ほぼ300キロの道のりの途中を、すこしだけ車を降りて山道を歩いたときに、ちょうどこのような稀にしか出会わない野草との出会いが与えられたので、これは神が与えて下さったものと感謝したことです。
 
なお、アマドコロがよくこのナルコユリと間違えられ、花屋でアマドコロをナルコユリと名札を付けて販売されていることがあります。アマドコロは葉の幅が広く、草丈もせいぜい3080cmほど、花は、12個ずつ付きます。ナルコユリは、高さは50cm130cmほどにもなり、花も35個ほどの花を付けます。全体の感じもかなり違っています。花屋でよく見かけるのはアマドコロのほうです。
 
このような美しい花がいつ、いかにしてこの場所に育つようになったのか、もちろん誰も分かりません。多くの地味な花しか咲かせない植物たちのただなかにこのような特別に心を惹くような花が人知れず配置されていること、そこに神がこの見える世界の所々にアクセントをつけるように創造されていることを感じます。
 
私たちも、生活のなかで、さまざまの人に出会い、書物を通して過去のすぐれた人に接し、あるいは病気や困難な出来事にも遭遇しますが、そうしたことも神がなさる私たちへの一種のしるしであり、それを通して私たちはそれらすべてをなされる背後に神の愛の御手があることを知らされるのです。


 

今日のみ言葉 155   2007.04.10
「心にかけて下さる主」
(新約聖書 Ⅰペテロ578より)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

身を慎んで目を覚ましていなさい。

Cast all your anxiety on him, because he cares for you.
Be sober, be watchful.


 
神にお任せする(*)、それができるということは、神を信じる者に与えられる大きい恵みの一つである。いろいろな心配事や悩みを自分のところに持っていては、苦しくて仕方がない、不安や恐れがある。そのようなときに、もし神を知らないときには、ただ忘れようとして、何らかの遊びや飲食などの気晴らしを用いるしかないだろう。 人に自分の悩み、苦しみを訴えても、一度や二度はいいが、繰り返しそのようなことをしていると、相手の人も何らかの重荷を持っているので、うとんじられるようになる。
 
しかし、愛の神がおられることを信じる者にとって、いろいろな心配を、神のところに「投げかける」ということができる。それを神はボールを受けるように受けとって下さる。そして私たちの委ねる心が純粋であればあるほと、またよきものを神は送り返して下さる。

*)この「任せる」と訳された原語は エピリプトー (epiripto)といい、上にという意味の接頭語 epi と、投げるという意味の ripto   から成っているので、「~の上に投げる」(throw upon )というのが原意。 上記の英訳のcast という語も、「投げかける」(throw)という意味を持っている。

 
神は目にはみえない、そしてどこに神がおられるのか、と思われるような暗い出来事がこの世には絶えず生じている。それにもかかわらず、ここに言われているように、神は私たちの霊的な母親のように、絶えず心にかけて下さっているという実感を持っている人、確信をもってそう言える人を無数に生み出してきたのは奇跡のようなことである。 神は愛である、ということは、神が日々私たちのことを気にかけて下さっているということを当然含んでいる。
 
そのような神の愛の配慮を信じて、実感していること、霊的に目覚めていることが、この世の悪の力に負けないようになる道だと示されている。それゆえに、「目を覚ましていなさい」と言われている。目を覚ましていることによって、神の配慮も見えてくるし、悪の力の限界も見えてくるゆえに、主の平和を保つことができるようになっていく。

  神の愛は私たちを目覚めさせるが、またその愛を持続的に実感していくためには、絶えず私たちの方でも目覚めていようとつとめる必要がある。


シャガ

シャガ              小松島市日峰山              2007.4.9

 
この野草は、アヤメのなかまでは、徳島県に関して言えば、少し湿った斜面などに大群生しているのを見出すことができる唯一のあやめの仲間です。そして、この仲間のうちでは、キョウブなどとともに最も育てやすいものの一つと思われます。この写真では、フキと共生しているのが見えます。
 
シャガという名は、このアヤメ科に属する植物で、シャガと似た野草にヒオウギというのがありますが、それの中国での名前を、射干(シャカン)というので、それから取られたためです。
 
この植物の学名は、Iris japonica (イリス・ジャポニカ) といい、これは、「日本のイリス(アイリス)」という意味を持っています。そしてイリスとは、ラテン語で「虹」の意味を持つ言葉です。 アヤメの仲間は、虹のような美しさを持っているというところから、このような学名が付けられたわけです。
 
日本では、アイリスという英語風の発音で読んでいますが、ドイツ語ではイーリス、フランス語でもイリスです。 アイリスという花は、青い花のものは家にあったので、私は子供のときから知っていました。それは、ダッチアイリスというもので、オランダアヤメのことです。最近は、ジャーマンアイリス(ドイツアヤメ)というやや大きくて色彩に変化のあるものがよく見られます。
 
そのような、外国からきたアヤメでなく、このシャガは、日本の本州から九州に至る地方に広く見られる野生のアヤメです。外側の花びらは白色ですが、そこに青紫色の模様がついて、さらにその内側にはうすい朱色の模様があり、外側の花びらには、細い鋸歯がたくさんついているのがこの写真でもよく見えます。
 
このように、ほとんど誰も目にすることのないような、山間の谷間に、美しい模様や色彩をつくって咲いているのです。 山の樹林帯の下でこの花の群落を見出すとき、惜しげもなく美しい花をたくさん咲かせているさまは、神の花園のような感じを受けます。(写真、文ともに T.YOSHIMURA


 

今日のみ言葉 154 2007.03.25

「主と共に」

(新約聖書 Ⅰテサロニケ510

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

He died for us so that, whether we are awake or asleep, we may live together with him.

 

主イエスが十字架で処刑されたが、そこには深い意味が隠されている。それは以後の歴史における影響力の大きさから見ても、この数千年の歴史のなかでも、最も重大な出来事であった。
それゆえに、十字架はキリスト教のシンボルとなり、世界中で見られるようになった。 十字架の意味で最もよく知られているのは、その死は私たちの罪を身代わりにになって下さり、苦しみを受けられたということである。
しかし、ここでは、その死は、私たちが主イエスと常に共にいるためであるといわれている。それは、主イエスが死んだゆえに私たちの罪が取り去られ、それによって神との結びつきが回復した。それゆえに自然に主が共にいて下さるようになったのである。主がともにいるのを、妨げていた最大のものが、罪であったからである。
主イエスとは、神の子であり、神と同質の力を与えられている。そのような絶大な力を持った方が私たちと生活を共にして下さる、それにまさる幸いがあるだろうか。主は神の力をそのまま持っているゆえに、私たちが弱っているときにも、私たちと共にいて助け、導いて下さる。
眠っていても、目覚めていてもいつも、心の中に、共にいて下さるし、天から私たちを愛をもって見つめて下さっている。
ほかのどんなものが、そのようにいつも共にいてくれるであろうか。 人間は到底そのようには、他人と共にいることはできないし、病気など特別な場合で付き添いとして夜も昼も共にいることもあっても、心の中まで共にいるということはできない。
そして人間が、ずっとそばにいたら、それはかえって疲れてしまうだろう。どんな人でも弱さ、罪を持っているからである。
すでに、旧約聖書の詩篇で、神は私たちを日夜見守っていて下さることが記されている。

(主は)、まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
主はすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださる。(詩編121編より)

眠っているときも、目覚めているときも共にいて下さるのなら、その主に向かって日毎の恵みに感謝を捧げ、苦しみのとき、悲しみのときにも心を注ぎだすことによって導かれ、新たな力を与えられたいと思う。


ヒトリシズカ

ヒトリシズカ               小松島市日峰山            2007.3.26

 

 これは、山の斜面にて咲く野草らしい花です。毎年春になると、このような、葉と純白の花の組み合わせが他には見られないような姿の花を咲かせてくれます。この花は、花びらがなく、白い糸のようなものは雄しべです。葉は、はじめはこのように暗褐色で白い花を包むようになっていますが、花が終わると、緑色の葉となって横に広がります。写真の状態のときは、高さは510cm程度ですが、もっと花が終わると大きく30cm近くにまで成長します。

 もうずっと以前から、このように咲いてその心惹かれる姿をあらわしてくれますが、ほとんど増えることはないけれど、また他の雑草などに負けることもなく、自分の持ち場をしっかり保ち続けるように、写真のように花を咲かせます。

 花や樹木などの植物は、人間にさまざまの暗示を与えますが、野草の花はことにその繊細さ、美しさなどによって神の御手のわざを示し、神に向かって咲いて、清い讃美を歌っているように感じられます。(写真、文ともに T.YOSHIMURA

 


 

今日のみ言葉 153    2007.02.13

「愛は造り上げる」
(新約聖書 Ⅰコリント81

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

Knowledge puffs up, but love builds up.


ここには、簡潔であるが、生きる上での重要な真理が記されている。 

だれでも、知識を求める。家庭での絵本などから始まり、家庭や保育園での子供同士の遊びなどで知識を増やし、さらに学校にいき始めると、さまざまの知識が増え続けていく。そしてそれらの知識は学校の成績の向上とつながる。それはより難しい大学への入学となり、そこから大きい会社への就職もつながっていく。 知識を持つことはこのように、各人の将来に大きな影響を持っている。 こうして、人は親、保護者、学校の先生、まわりの人々…によって知識こそは最重要だというような気持ちになっていく。

 そして、いろいろな知識はたしかにきわめて重要である。英語の知識があれば、外国のすぐれた書物に触れて、視野を広げ、深めることができる。

 それにもかかわらず、知識は、それだけでは、人間の魂を決して深く満たすことがない。それは、知識とは無限にあって、知れば知るほど自分がいかに知らないか、ということを思い知らされるからである。  あまり知らない人が、かえって自分は何でも知っているように思い込むものである。

 それ自体が深いところで魂を満たすものでないからこそ、知識を多く持っているものは、自慢とか高ぶりといった形で外に現れ、他者から認められようとしたり、優越感で満足しようとする傾向が生じる。

 しかし、愛は人を造り上げるという。この原語(ギリシャ語)は、オイコドメオー (oikodomew)で、家(オイコス oikos)という語から作られた語であり、「家を建てる」というのが原意である。それで、英語訳では、 build を使っている。

 ここでいう愛はもちろん、普通に考えられている親子や男女、友人間同士の愛でなく、神の愛を指している。ふつうの人間的な愛も、もちろん何かを作りあげることに寄与するが、それは著しく範囲が限定されている。神の愛とは、無差別的でたとえ自分に害悪をなすような者、自分を無視するような者に対してすら、及び、彼らが本当によくなるようにとの祈りが込められている。

 そのような愛だけが、人間の魂に働いて、建てていく、造り上げていく。

 かつて、戦前の日本は、八紘一宇(はっこういちう)と称して、世界を一つの家に建て上げるのだと教えていたが、そのような主張は砂上の楼閣であったから、太平洋戦争の敗戦とともにたちまち崩れ落ちてしまった。

 一人一人の人間だけでなく、人間が集まった組織、団体、国家においても知識や権力などで建て上げよう、造り上げようとしても、時が来たら簡単に崩壊する。

 しかし、神の愛によって建てられたものは、崩れない。キリスト教信仰をもつ集まりは、全体としてみるとき、神の愛によって建てられてきた。それゆえに、この二千年間という長い期間を経ても、部分的に崩されるようなことはあっても、全体として世界ではキリスト教の真理とそれに結びつけられた人々の集まりそのものは、決して崩れていくことはなかったのである。

 聖書も神の愛が建て上げたものだから、数千年も壊されることなく、続いてきたと言えよう。

 私たちの魂も、神からの愛を受けてはじめて建てられていく。私自身、どんなに学校での勉強を重ねても崩れていくものを感じていた。神とキリストを愛を実感するようになってはじめて、自分のうちに崩れていかないものが建てられていくのを感じるようになった。

 人間関係も同様であり、神の愛がそこにあるとき、相互に建て上げられ、永続的なものとなる。人間的な愛は一時的には立派に建てていくようにみえるが、時が至ると何か予期しないことが生じて崩れ去るものである。

 神の愛は、触れるものを造り上げ、建てあげていく。神の愛を少しでも受けることによって、敵対する人にも恨みとか憎しみでなく、その人の魂のために少しなりとも祈りの心が生れる。何かよきものが造り上げられる。 

 神は愛である。そしてこの世、この宇宙は神が創造し、現在も支えておられる。それゆえに、この世界全体は神の愛がもとにあり、常に建て上げようというご意志の中にある。たしかに神の国に向かって建て上げ、新しい創造へと進んでいるのである。


スイセン

スイセン              小松島市日峰山             2007.2.7

 
スイセンは、冬のさなかに咲き続ける花です。この写真は、海岸のそばから数キロにわたって続いている高さ200mほどの山(日峰山)にあるわが家近くに半野生化して毎年増えているものです。夏から秋にかけては、入り込めないほどの草や低木が生い茂るところであり、可憐な花が増えていくなどとは到底思えないような場所であるにもかかわらず、このような美しい花を毎年咲かせるところに、自然の不思議さを感じます。  神の愛がこのような品格ある花を造り出していると言えます。この純白の花びら(花被片)と、中央部の黄色の副花冠、緑の葉、全体の姿、そしてよい香りは神の愛が私たちに向けられた一つのかたちだという気がしてくるのです。










 

今日のみ言葉 152

「全能の神ゆえの愛」

?2007.01.14

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ

回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

あなたは存在するものすべてを愛し、

お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるなら、造られなかったはずだ。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

あなたはすべてをいとおしまれる。
(旧約聖書 続編 知恵の書1123-26より)

Yet you are merciful to all, because you are almighty, you overlook people's sins, so that they can repent.
you love everything that exists, and nothing that you have made disgusts you, since, if you had hated something, you would not have made it.
You spare all things, for they are yours, O Lord, you who love the living.


/image002.gif神は、全能(万能)である、というと、何でもできる、ということであるが、そのときに、ふつうには、天地を創造したとか、人間では不可能な驚くべきことを連想することが多い。
 
しかし、ここでは、神の全能が、地上のどんなものをも愛することができるお方であり、罪を赦されるお方であるということが強調されている。 人間はだれでも、どのような人であっても愛するというようなことは、到底できない。
 
神は万能である、だからどんな人をも愛され、それゆえに赦されるのだ、しかもそれは、単に赦すのでなく、その人が、神の方向へと魂を向けなおして、神の豊かな賜物を受けるようにとの愛のこもった行動なのである。
 
神は愛をもってすべての人間を創造された、それゆえ今も愛をもって見つめられている。このことは、私たちに大いなる希望を持たせてくれる。
 
人間からは愛されない、憎しみや敵意を受け、捨てられることがある。しかし、そのような時でも、もし私たちが心から神に向かって助けを求めるときには、神は愛であるゆえにその人に新たな力を与え、立ち直らせて下さる。
 
このような万人に及ぶ神の愛を、主イエスが身近な自然の現象を用いて言われたのがつぎの言葉である。

天の父は悪しき人にも善き人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ福音書545


カラタチバナ

カラタチバナ

    自宅の庭にて     2007.1.11

 真冬にこのような、赤い実が見られる小さな木の仲間は、この他にヤブコウジ、センリョウ、マンリョウ、あるいはナンテンやモチノキの仲間などがあり、それぞれに昔から親しまれてきました。それは、真冬に他に花もなくなったとき、新しい年を迎えるときにも、緑の葉と、赤い美しい実を付けるということで、目と心を引いてきたものです。
 地方によっては、このカラタチバナがかなり多く見られるという記述を見たことがありますが、徳島県では、野生のものはなかなか見られないものです。 わが家のものは、もう二十年以上前に、野生のものの実を採取して、育てたものが今も、毎年実をつけています。

 
冬の寒さのゆえに多くの植物たちは枯れ、あるいは葉を落として、静かに春がくるのを待ち望んでいるかのようですが、この仲間は、緑のただなかによく目立つ赤い実をつけてその命ある輝きを周囲に示しています。冬には花もなく、木々の実も落ちたり食べられたりしてなくなっていき、えさとなる昆虫などもいなくなるので、小鳥たちはいつもえさを探し求めています。このカラタチバナの実もそうした小鳥たちにとってはよい食物になりますので、気がついたら食べられてしまっていることもあります。

 
鹿が谷川の水を慕いあえぐように、わが魂は主を求める、という聖書の言葉があります。(詩編421)小鳥たちが必死になってえさを探しているのを見ると、この言葉を思いだします。そして私たちもまた、そのように、この世において、霊的な食物をたえず真剣に探し求めていくべきことを思います。
 
神は、冬のさなかにも、このカラタチバナのようなよく目立つ実を備えられているように、私たちにも、この世の荒れ野のただ中にあって、神の言葉(聖書)という、いのちの輝きをもった霊的な食物が備えられ、誰にでも与えられているのに気付くのです。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA