2012年1月 |
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詩の世界から ―八木重吉の詩から いつになったら いつになったら すこしも 人をにくめなくなるかしら わたしと ひとびととのあいだが うつくしくなりきるかしら ・人間同士の関係が清いものになりきる、それはどんなにそうなろうとしても、難しい。キリスト教世界の最大の使徒パウロですら、自分はどんなによい意志をもっても行うことができない嘆きを語っている。 ただ、聖なる霊が私たちのうちに住んでくださって、私たちの内にある汚れたものを洗い流して下さり、よくない霊を吹き清めてくださるとき。 美しくなりきる関係は、人間同士では難しいが、神の創造された自然とは、可能となる。人のいない静かな谷川で流れ落ちる水が岩かどにあたって生じる純白のしぶきやその流れと音に耳をすませるとき、そこには何らの汚れがない。 ねがい 人と人とのあいだを 美しくみよう わたしと人のあいだをうつくしくみよう 疲れてはならない ・人と人との愛にうつくしいものを見る、それは、主イエスが言われたこと、敵を愛し、迫害するもののために祈れ といわれたことを思いだす。このような心が与えられたとき、私たちに悪意をもってくる人たちにさえ、祈りという美しい心が働く。 醜くて、弱い私たちであるが、神の無限に清い霊を受けるときには、このようなところまで変えられていくのだ。 きりすと きりすとを おもいたい いっぽんの木のようにおもいたい ながれのようにおもいたい (「貧しき信徒」新教出版社刊 64〜65頁 74頁) ・主イエスへの信仰がこのように、木や水の流れを用いて言われたことに新鮮さを感じる。いっぽんの木、それは、とくに大木の側に一人立つときには、いかなる嵐や風雪にも耐えて、歳月の流れにも動じることなく黙して立っているさまは、私たちの心を引き締める。それは確かに祈りを感じさせるからである。その樹木の沈黙が、同時に雄弁に語りかけてくる。 そして、途絶えることなく清い水となって流れ続けるそのさまは、絶えずキリストに向って流れ続ける心の流れを暗示する。 私たちの祈りの流れは時としてとどまり、逆流し、あるいは汚れたものが入り込むこともある。そのようなとき、こうしたいっぽんの木や清流に接するとき、ふたたび私たちもいっぽんの木のような力と、その流れのようなものが心に入ってくる。 ことば (350)被造物のただ一つでも、敬虔で、感謝する心の豊かな人にとっては、摂理を感じさせるのに十分なのである。 そして私は大きなことでなく、次のようなこと、草から牛乳が生じ、さらにチーズが、そして羊の皮膚から羊毛が生じる―こういうことを考えだした者は誰なのだろうか。「誰でもない」と人は言う。おお、何という無感覚、何という恥知らずなのだろう。… 我々は、人と一緒の場合にも、一人の場合にも、神を賛美したり、その恵みを数えあげるべきではないだろうか。 掘っているときも、働いているときも、食べているときも、神の讃美歌を歌うべきではないだろうか。 (エピクテトスの談話集より (*)岩波文庫版「人生談義」上69〜71頁より) (*)エピクテトス(紀元55〜135年)は、古代ギリシアのストア派の哲学者。キリストの使徒たちが福音を伝えていた時代と重なるほぼ同時代の人である。奴隷であったが後に解放され、貧しい生活のなかから人間のあり方、本当の幸いとは何かに関して深い思索を残し、それがここに引用した談話集などとして現代も読むことができる。 スイスのキリスト教思想家、カール・ヒルティは、その著書「幸福論」第一部にエピクテトスの語録を引用し、その内容は、キリスト教の倫理的内容に最も近い古代の著書であると書いている。 |