2012年8月
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(340)愛に生きるとは、限りなく与え
この世での報酬を 望まないこと
ああ!わたしは数えることなく与えよう
愛に計算はないと 確信して

(「リジューのテレーズ(*) 365の言葉」64頁 女子パウロ会発行)

(*)テレーズ・マルタンのこと。 リジューとは、彼女が召されたフランスの地名。(1873〜1897)フランスのカルメル会修道女。24歳で地上の命を終えたが列聖された。

・主イエスが神の愛にたとえた太陽の光は、数えることをせず、無制限に私たちに注がれていることを思いだす。科学技術は、身の回りのさまざまの物質や、光、放射線のような何らかの意味で数えられるもの(定量的なもの)がその対象であるが、神の愛の対象は無制限であり、またかぎりなく与えられる。
人間の愛はつねに数えること―その結果やお返しを数える、意識することで成り立っていることを思うとき、人間をどこまでも支え力を与えるのは人間の愛でなく、神の愛だと知らされる。


(341)自分では
何もできない私が
家族のやさしさによって
オレンジ・ジュースを飲み
アイスクリームを食べ
詩を作り
み言葉を学ぶ

自分では
生きられない私が
神さまに
愛され
生かされている。
(水野源三第四詩集 43頁)

・重度の寝たきり障がい者であった著者は、文字通り家族の手によって生かされていた。
そしてその背後の神が見えざる御手をもって、家族を導き、そのようになさっているのを実感していた。
だが、健常者であっても、自分の力で生きているといえるだろうか。毎日の食物、住居、また衣服、そして歩いたり、働いたり、車、電車等々一切の私たちが使っているものは、みな自分で作ったというものはない。 山中に家を自分でたてて、自給自足しているという人もまれにおられる。しかし、そのような特殊な場合でも、その木材を切るノコギリや運搬する道具、バケツ、鍋、ガス、火をつけるライター、マッチ等々生活用具などはみなどこかの店から購入してくる。
それはその人が作ったものではない。畑に野菜などを蒔く、その種や耕作のためのクワその他もまた、だれかが作ったものである。作業中、怪我をしたらそれがひどい場合、たちまち動けなくなり、そのまま死んでしまう。
自分が稼いだ金―それもまた、そのような働き場としての会社など職業の場がなければ稼ぐこともできない。そうしたすべてをなしている人間のはたらきもその頭脳や内臓のはたらきがささえているが、そのからだの複雑精巧な仕組みをつくったのは自分ではない。
私たちもまた、無数の他の人たちのはたらきによって支えられ生かされている。そしてそのような数知れない人たちの生きるエネルギーは神によってこの大自然に太陽が創造されそのエネルギーを取り込む複雑な仕組みをもった植物たちによってなされ…要するにすべての背後には神の御手のはたらきとその支えがあって初めて私たちは生きている。無数の網の目のような人間のはたらきがあり、その働きは神がすべて背後で創造し、ささえているのである。