2013年10月 |
本文 |
ことば
(351)…わが主イエスよ、あなた様を思うのは、私の霊感でございます。…あなた様のみ言葉の一つ一つを、胸の中で味わっていますと、何とも言えないすがすがしい気持ちになってまいります。あなた様のみ言葉は、みんな平易ですから、私どものようものにもよくわかります。… 「幸いなるかな、悲しむもの、その人は慰められん」と仰せになりましたが、本当にそうだと思います。 悩みのときに、じっと心を澄ませて、あなた様のみ言葉を思い続けていますと、次から次に、お優しい言葉の数々が浮んできて、それが命あるもののように、一つ一つ私の心の傷を包んでくれます。まことに活ける泉です。(「清流」内田正規遺稿集 26頁 1956年)
・内田正規は、1934年24歳のとき、結核にて苦しむ人たち相互の祈りの会として、「午後三時相互祈祷療友会」を結成し、同時に連絡雑誌として「祈の友」を創刊。ここに引用した文は、黒崎幸吉が出版した本に掲載。なお、黒崎も「祈の友」に加わっていた。 この内田の文に表れているように、神の言葉(主イエスのみ言葉)こそは命であり、心に深い傷を持った者に癒しを与えてくださる。人はパンだけでは生きられない。み言葉によって命を与えられるということがこうした文からもはっきりと示されている。 (352)「私たちが、自分の力の中ではなく、神の力の中にいることを知って下さい。」(「殉教者行伝」教文館発行 82頁) ・ここで引用した「殉教者行伝」は、17世紀以来、「殉教者伝」あるいは、「聖者伝」として集められていたものからの訳であり、これらは、2世紀中頃から4世紀に至る古代のキリスト者たちの、逮捕、拷問、処刑などの迫害に関する、不可欠の基本的資料だとされている。 この言葉は、ローマ皇帝を神としてあがめ、犠牲を捧げることを拒み、キリストと神のみを礼拝するということのために、群衆の前で野獣と戦うことを宣告された若き女の言葉。 彼女の父親は、自分の娘が殺されること、その女の乳児がどうなるかと不安と恐れに取りつかれていたが、ここに引用したのは、その父親に語りかけた言葉。 父親は、自分と子供や兄弟のためにどうか神々やローマ皇帝を拝んでくれ、と必死に頼んだが、女は、いかなる困難のなかにあっても、またこの世を悪が支配しているようにみえてもなお、自分たちは神の力の内にあるのだという確信をもって父親を説得したのであった。 拷問や野獣の餌食になることを宣告されてもなお、神の愛とその御支配を確信し続けていられた、古代の殉教者たちの勇気に満ちた言動は、驚くべきものがある。これは日本の秀吉の時代から江戸時代の迫害の記録を見ても同様なものがある。肉親からの哀願をも越えて、神への従順を堅く守り、残された家族は神が守るとの啓示を受けてみずから命をささげていった人たち…。極限的状況にあって、神が何を与えるかを示している。 |