今日のみことば 2013年

モミジカラマツ(紅葉唐松)キンポウゲ科   秋田駒ヶ岳にて(秋田県と岩手県の境にある。標高1637m)      2012.7.20
モミジカラマツ

今日のみ言葉 233

 

「苦しみに遭ったのは」2013.10.09

 

苦しみにあったことは、私にとって良きことであった。

私はそれによってみ言葉を学ぶことができたゆえに。(詩編11971

 

It was good for me to be afflicted , for it taught me  your decrees.

 


 

 私たちの人生において、何が本当に良いことであったのか、ずっとあとから分かってくることが多い。時間はその点でも、一時的に良いものや良いと思われたがじつはよくないものなどをふるい落としていく。書物でも同様で、一時的にベストセラーとなっても、時間というふるいにかけられていくと、ほとんどが消えていく。

聖書はその点いかなる時代にあっても、どのような迫害や世界戦争が生じても、ふるい落とされてしまうことはなかった。否、いっそうその永遠の輝きを増していく。

それと同様に、私たちが振り返って、本当に良かったと実感できること、それはその良きことが持続していくからである。苦しい病気や事故、あるいは人間関係であっても、それを通して私たちは本当に大切なものを知らされることがよくある。表面的なものが消え去り、魂にとって深く結びつくものが良きものだったと実感する。

主イエスも苦しみと深く結びついている、心の謙虚さ心の貧しさ、そして悲しみに出会うことを、祝福されたことと言われた。

ああ、幸いだ、心の貧しき人たち! その人たちに最高の賜物である神の国が与えられるから。

ああ幸いだ、悲しむ人たち! その人たちは神からの慰め、はげましを受けるから。(マタイ福音書5章)

 

他者にも伝わっていくほどの良きことそれは苦しみや深い悲しみを通って生まれる。

 

(パウロは)弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録1422

 

主を信じて歩むときに受ける苦しみは、神の深いご意志(み言葉)を学ぶことにつながり、苦しみの時には耐えがたいようなことであっても、神の国への確かな一歩なのである。

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 野草と樹木たち   リンドウ     山口県秋吉台  2013.11.11

 リンドウ     山口県秋吉台  2013.11.11

(秋吉台)

リンドウは、秋の野山の代表的な野草の一つです。これは、山口県の鍾乳洞で有名な秋吉台での撮影で、九州から島根の集会へと移動の途中で、見いだしたものです。リンドウは、私にとって特別な思い出があります。

それは、大学2年の頃に、テントや燃料、雨具、食糧などの十分な装備をして、京都市北部の鞍馬山から歩きはじめ、ときには、地図上でも廃道とされている道なき道を5万分の1地図と磁石を頼りに、山なみを越えて、1週間近くかけて日本海側の小浜へと行ったことがありました。その時、由良川源流地帯で、このリンドウの深い青紫色に出会ったのでした。

長い単独の山行のゆえに緊張と疲れのたまった心身であったゆえに、そして一日歩いても誰一人と会わないような山奥であったので、私の心に生きた映像をそのまま焼き付けてくれるものとなりました。

  青い色は、広大な大空や大海原など最も広く目にはいるものの色で、創造主はこの色に接することによって、いつもご自身の深い本性を見つめるようになされたのではないかと思われます。

天を映す青、それゆえにそのたたずまいとともにリンドウは多くの人の心に残ってきたと言えます。 私が最初にリンドウという花の名を知ったのは小学校のときによくラジオから流れていた島倉千代子の「りんどう峠」(1950年)という歌で、「りんりん りんどうはこむらさき」という歌詞のはじめは今も耳に残っています。

宮沢賢治もリンドウの花が心に深く残っていたのは次の文からもうかがえます。

(リンドウと 秋吉台)

「あゝ、りんどうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だねえ。」

カムパネルラが、窓の外を指さして云ひました。

線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたやうな、すばらしい紫のりんどうの花が咲いてゐました。次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。 と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光って立ったのです。(「銀河鉄道の夜」より)

水野源三の詩にも、次のように記されています。

 

来る年も来る年も  澄み渡る空には

りんどうの花が咲くように

神様の真実は変わらない 

神様の真実は変わらない

 

天を映す青、それゆえにそのたたずまいとともにリンドウは多くの人の心に残ってきたと言えます。                                      (写真・文ともに T.YOSHIMURA 


今日のみ言葉 232

 

「よき知らせを伝えるために」

 

2013.10.09

 

 

主なる神の霊が私の上にある。 主は、苦しむ者(*)に良き知らせをもたらし、

 

心の壊れた者を慰めるために、私をつかわした。(イザヤ書611

 

The Spirit of the Lord GOD is upon me .

 

He has sent me to bring the good news to the afflicted, to soothe the broken-hearted.

 

*)ここで「苦しむ者」と訳した原語(ヘブル語)は、アナーウィームで、本来は圧迫された者を意味する。そこから、苦しむ者、悩む者、貧しい者などと訳される。英訳では、the oppressed (NRS)the afflicted (NJB) など。 また「壊れた」と訳された原語はシャーバルで、戸を「壊す」(創世記199)のようにも用いられている言葉で、「心の傷ついた者」(新改訳)、「心のいためる者」(口語訳)などと訳され、英訳では、 the broken-hearted (NJB) と多くが訳している。

 

この旧約聖書の言葉は、キリストが初めて自分が育ったユダヤ人の会堂にて語ったときに読まれた言葉である。そして、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と言われた。(ルカ4の16-21

 

  イザヤ書において、キリストよりはるかに数百年の昔、すでにキリストの本質を預言し、じっさいその通りに実現されたことは驚くべきことである。

 

  ここで預言されたキリストは、確かに聖なる霊を受け、その霊によって試練、困難、誘惑にも勝利され、そして、現実の無数の苦しみ、悩む人に、ほかの人間や組織、あるいは学問、科学技術などが決して与えることのできない良き知らせを伝えて来た。

 

  旧約聖書の詩の中に「話すことなく、語ることもなく、声も聞こえないのに、その響きは全地に、その言葉は世界の果てまに向う」(詩篇19)というのがある。

いかに時の権力者がこの良き知らせを信じるキリスト者たちを猛獣と戦わせたり、はりつけにしての処刑、さらには国外追放などしようとも、その良き知らせの響きは途絶えることがなかった。それは、すべてを支配されている神ご自身のご意志であるからだった。

 

私たちは、生涯のうちで、だれでも苦しみ、悩みあり、また心壊れた状態になる。現在いかに健康でそうした苦しみとは縁のないような人であっても、突然の事故や災害、あるいは重い病気などが生じることもあるし、家庭や職場での人間関係の崩壊…等々なにがおきるか分からないのがこの世である。そのようなとき、元気なときには想像もできなかった孤独や哀しみ、あるいは不安が押し寄せてくる。

 

キリストは、そうした状況から救いだすために来られたのであった。そのような苦しみの根源に、人間の自分中心という罪があるゆえに、その罪の赦しを告げ、死の力にも勝利する力が与えられる―これは良き知らせの中心に置かれている。

 

そして、私たちの受ける圧迫、苦しみや悩みに寄り添い、そこに慰めと励ましを与えてくださる。  神はこのように、あらゆる人間の苦しみや悲しみのときにも、そこから救いだされる道を備えられている。数千年ほども昔から 、そのような備えがあるのだと告げられていることは、この不安な定まることのないこの世にあって大いなる良き知らせである。

 

体の傷は、手術や薬によって多くは癒される。しかし、深い心の傷は、医者も薬も、あるいは学問や知識などもどうすることもできない。それはただ人間を超えた力によってのみ癒される。この苦しみや悲しみ、心の壊れた状態を真に癒すのは、死者をも復活させることのできる神そして、その神のいっさいの本質を受けていまも生きて働いておられるキリストだけである。 

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野草と樹木たち  ヤマユリ 鳥海山のふもとにて 2013.7.20 

                                                                   (秋田県と山形県の境にそびえる活火山。標高2236m

ヤマユリ 鳥海山のふもとにて 2013.7.20

  今年の夏、北海道 瀬棚地域での聖書集会からの帰途、各地の集会を訪問、聖書の言葉について語らせていただきましたが、その帰途に立ち寄ることができた山の一つに、この鳥海山があります。 この山には、歩いて登る時間も余裕もなかったけれど、車で中腹の宿舎にてよき休みの時が与えられた所です。

 

そしてその山腹に分布する植物に接することもできました。このヤマユリは今まで東北各地で見た中で最も大きく、美しいものでした。 

 

このヤマユリとカノコユリ、そしてテッポウユリは世界のユリで最も美しいものとして高く評価されているもので、それらから多くの現代の園芸種のユリが作られています。 大型のユリとして知られているカサブランカは、このヤマユリやカノコユリなどを交配して作られたものです。

 

カノコユリの野生種は現在ではごく少なくなっていて、 私はかつて徳島県南部の海岸沿いの山肌に咲いているのを見たことが一度あります。 それに対してこのヤマユリは、東北各地の道路際の日当たりのよいところでよくみられますが、この写真のものは、山道の木蔭に、ある限られた場所に、群生していたものです。

 

その長い茎、ゆったりとした大型の美しい花、そしてその花びらの模様、さらに香りも強く、花の大きさは直径20cmほどもあり、このようなみごとな花が野生種としてみられることは喜ばしいことです。花の色は白色で花びらの内側の中心には黄色の筋、紅色の斑点があって美しさを添えています。 

 

世界広しといえども、このようなユリはほかの国々にはみられないとのことで、明治時代の初期にウィーンの万博で紹介されて注目され、それからヨーロッパに知られるようになったものです。 

ユリという言葉は、その長い茎が風に 揺られるユリ となったと言われ、また漢字の百合は、その球根が幾重に重なっていることから名付けられています。 

 

白いユリは数ある花のなかで、キリスト教においてもとくに復活や純粋、清さのシンボルとして用いられていて、ヨーロッパの絵画にもしばしばユリが記されています。13世紀の画家ジオットや レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」、エルグレコ他の作品にも見られ、また、主イエスも「野の百合がどのようにして育つかよく見よ」(マタイ6-28)と言われました。

 

なお、このイエスの言葉にあらわれる「百合」の原語 クリノン(ギリシャ語)は、「花」とも訳されますが、現代の多くの英訳、日本の新改訳、文語訳なども百合と訳しています。 See how the lilies of the field  grow .(NIV)  

 

また、讃美歌にも、白百合が、キリストの復活を思い起こさせるというのがあります。   

 

うるわしの白百合 ささやきぬ 昔を、

 

イエス君の墓より いでましし昔を (讃美歌496 

 

また、直接にキリストを明けの明星であり、百合にたとえている讃美歌もあります。 

 

わがたましいの 慕いまつる

 

イエス君のうるわしさよ

 

君は谷のゆり、あしたの星

 

うつし世にたぐいもなし  (讃美歌512 

 

このように、ユリの姿とその白い色、さらにその美しさや香りは、古代から、神によって清められた美しい世界神の国を思わせるものとして、またキリストの復活さらに死にうち勝つという究極の力をも指し示す重要な意味を含んでいるものとして重んじられてきたのです。      (写真・文ともに T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 231

「癒しと命を与えてくださる主」     2013.9.11

わが神、主よ、私はあなたに叫んだ。

 

その時、あなたは私を癒してくださった。

 

私の魂を陰府から引き上げ、

 

私に命を与えてくださった。(詩篇3034

 

O LORD my God, I called to you for help and you healed me.

 

You brought me up from the grave , restored me to life from the grave .

  

神の助けを信じて、祈り、叫ぶ。ただそれだけで、闇のなかに沈んでいた私をすくい上げてくださった。

 

祈り、叫ぶことがどれほど続いたかわからない。しかし、最終的にこの詩の作者は、救いだされた。

 

もう滅びると思われたほどの困難から救いだされ、新しい命を与えてくださった。

 

この経験こそが、この作者の人生の中心にある経験となった。

 

新約聖書においても、この世を象徴している海(湖)の嵐に苦しめられる弟子たちが、主よ助けてください、私たちは沈みそうだ! と叫んだときに、主は眠りからおきて、波と風をご自分の言葉の力によって静め、弟子たちを助けてくださった、とある。

 

 

それはこの詩の作者と同じ ような経験なのである。こうした聖書の記述は、私たちすべてにあてはまる基本的な真理が言われている。

 

しかし、真剣に祈り、叫んでも、じっさいに病気そのものは癒されないこともある。その場合でも、そうした切実な祈りや心の叫びは、必ず主は聞いてくださっていると信じることが私たちに与えられた道である。 そのような打ち続く困難にあって、もし神を信じなくなるなら何に拠り所を求めることができるだろうか。

主イエスも、十字架にかけられる前夜、必死に祈った。それはイエスのような方でも、現実の闇の力、自分を襲おうとしている苦しみを前にして苦しみもだえた。そのようなとき、「私の願いでなく、ご意志のままになさってください」と祈り、その大いなる苦しみをすべて神にゆだねられた。そして神はイエスをその苦しみをとおって、神のもとに引き上げられた。 そのようにある期間でなく、全体としてみるとき、真実な祈りは必ず聞いていただける。そしてその暗闇に光を与え、そこから引き出してくださると信じることができる。

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野草と樹木たち

ハクサンシャクナゲ(白山石楠花)大雪山・赤岳 2013.7.16       (ツツジ科) 

 

  大雪山とは、北海道中央部にそびえる多くの火山の総称で、この花を撮影した赤岳というのもその一つ。旭川の教友を尋ねた帰途、立ち寄った山で、頂上まで登る時間はなかったのですが、途中に折々に北国の高い山に咲く花々が迎えてくれました。シャクナゲの仲間は、徳島県の標高700メートル程度の山にも時折見かけますが、花の時期に遭遇することは少ししかなかった花です。しかし、秋田駒ヶ岳や福島の吾妻連峰、そしてこの大雪山などには、その美しい花がよくみられます。ここにあげたのも、白山で最初に多く見いだされたためにその名前に「白山」がついています。 

 

このハクサンシャクナゲは、この写真のものは純白ですが、やや赤みを帯びたものもあります。 花びらの内側に緑色の斑点が飾りのように見られます。背後の山の残雪がこの付近の気温の低さを示しています。

この花は、本州中部以北、北海道などの高山に分布しているもので、寒さ厳しい環境に生育するものです。

 

創造主は、積雪と厳しい寒さ、風雪にも耐えて美しい花を咲かせるような力を与えているのを感じます。

私たち人間はそうした樹木よりはるかに高いレベルの被造物として創造されているゆえに、私たちもさまざまの困難に耐えていく力を与えられるものだと思われます。

草木はそこに生育するときすでにその力を持ったものとして存在していますが、人間は、自然のままではそのような力を持っておらず、神を知って、神に求めることにより、そのような力が与えられるのだと言えます。

主イエスが、「求めよ、そうすれば与えられる」 と言われたとおりです。(写真・文ともに T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 230

「命の水を与え、涙をぬぐい去る主」(黙示録717     2013.8.11

玉座の中央におられる小羊(キリスト)が彼らの牧者となり、

命の水の泉へ導き、

神が彼らの目から涙をことごとく

ぬぐわれる。(黙示録717

The Lamb who is at the heart of the throne will be their shepherd and will guide them to springs of living water;

and God will wipe away all tears from their eyes.

 

迫害のなか耐え忍んで御国へと召された人たちがそこでどのような恵みを受けるだろう。それが、この聖句で言われている。

復活のいのちを受けた人たちのいる天の国は、地上のあらゆる苦しみや悲しみがすべて消し去られ、キリストによって永遠の命の泉のわき出るところへと導かれる。

命の水、それは神が私たちに与える最高の賜物である。永遠の命とは、神のもっておられる命である。地上のあらゆるものがみな時間とともに失われ、財産や地位、名声などは、それゆえに新たな対立やねたみを生み出すのと違って、そうした一切の汚れが存在しない永遠の賜物である。 

現代に生きる私たちにとっても、人間が持つことのできない変ることなき真実や、いかなることによっても汚されることのない清さ、美しさ、それらも、神の国のいのちの水を飲むことによって与えられる。

地上においては、人は、さまざまの悲しみに直面する。言葉にできない深い悲しみ、それはただだまって涙を流すだけでしか表せない。

魂に深く食い入り、魂を枯らしてしまうような悲しみが、根底から取り除かれるときがくるということを、すでにイエスよりも何百年も昔の預言者は啓示されていた。

…主は永久に死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐわれる。(イザヤ 25:8より)

私たちは、神から流れ出るいのちの水を飲んで初めて、深い悲しみもいやされる。そのような人間世界の悲しみがいやされることは、主イエスも山上の教えにて示されたのであった。

…ああ、幸いだ。悲しむ者たちは!

なぜならその人たちは、(神によって)慰められるからである。(マタイ54

悲しみは、そこから神へのまなざしを向けるとき、命の水の深い味わいを与えられ、神の国へと通じる道となる。
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野草と樹木たち     コバイケイソウ     福島県  鎌沼(標高1770m)にて     2013.7.22 撮影

コバイケイソウ     福島県  鎌沼(標高1770m)にて     2013.7.22 撮影

これは、福島県の標高2000m級の山々が連なる吾妻山にある鎌沼とその周辺に咲いているコバイケイソウです。この野草は、本州中部以北、北海道に分布し、深山や亜高山の湿った場所に生えるもので、四国や近畿の山では見ることのできないものです。高さは1mほどになり、小さいバイケイソウ((小梅蕙草)という意味。バイケイソウは、日本各地の山地にあるけれども、花はこのコバイケイソウが大きく豊かで美しい光景となるので、夏の高山の代表的な花の一つとして知られています。

この写真は、鎌沼という、沼というより小さい湖というべきものの一部ですが、標高が高いので、真夏であっても肌寒く感じられる風が吹きわたっていました。ほとんど人も通らないこの付近は、そのこの世から隔絶したような静けさと風景ゆえに、天上の湖という感を与えました。

今でこそ、福島西インターから車で40分ほどで達する登山基地となっている駐車場から、1時間半ほど登ると、この地に達することができますが、車道ができる以前は、ふもとから56時間もかけて登ってはじめて目にする光景だったのです。

高山にある湖、その上を吹きわたる風は、いのちの水と風であり、じっさい疲れた心身をいやしてくれる天来の賜物として感じられました。

こうした水、そして花、風は人間の造ったものでなく、人間よりはるか昔からあったもの―神の直接の御手によりて創造されたものゆえ、こうしたものに心身を浸すことで、神の御手のうちに置かれているという気持ちでした。

自然というものは、私たちが適切に交わるときには、つねにそこから清い力、また美しさに触れて心身がリフレッシュされるものです。人間世界とはまったく異なる清い世界だからです。 (文・写真 T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 229

「主は、今よりとこしえまでも守られる。 」2013.7.10

 

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、 あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、 今よりとこしえまでも守られる。 (詩篇 1217-8:)

The LORD keeps you from all harm and watches over your life.

The LORD keeps watch over you as you come and go, both now and forever.

 

ここに、いまから、数千年も昔から現代に至るまで、続いている神の守りへの確信がある。

私たちは、守られることを誰でも願っている。この世には、生まれたときから、さまざまの危険があり、誘惑があり、また困難に出会う。私たちの不注意や心の弱さ、罪ゆえに陥る苦しみもあるが、突然の事故、災害等、なぜ自分だけがこのような目に…とその不可解さに苦しめられることも多くある。

そうしたあらゆるこの世の災いから守られている―そうした確信がこの詩にはある。それは周囲を観察して分かることではない。

これは啓示であり、このようにこの詩の作者は神より示されたのである。

どんなに守られていないように見えるときでも、天よりの声が、それでもあなたは守られている…と語りかけてくる経験を持ったのである。

神の信実は永遠であり、人間のがわからの神への信頼(信仰)も、私たちのほうが捨てないかぎり、いつまでも続く。

この作者も、神の守りは一時的でなく、永遠に至るということを示されていた。

行くにも帰るにも―それは私たちの日々の日常生活から、大きな困難の日々、または異国や遠い場所へ赴くとき―あらゆるときに私たちはこの守りを与えられているということである。

住まいから出て、一日のさまざまの出来事を経て再び帰る―それはあらゆる人の日々の守りを意味している。入院とか、寝たきりとなってじっさいには家や病院から出ることもできない人たちにも、心の旅路としてその一日のはじまりから夜やすむまでの守りをも含んでいる。

そしてすべての人に訪れる最終的な出発―この世から出て行くとき、そこにも神を信じる者には、大いなる守りがあり、死の力から守られ、神の国への霊的な旅路を経て、神のいます天の国へと導かれるのであり、この詩の作者の言うように、まさに永遠の守りが与えられているのである。

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野草と樹木たち エゾツツジ 秋田駒ヶ岳(標高1637m 2012.7.19 撮影

エゾツツジ     秋田駒ヶ岳(標高1637m)  2012.7.19 撮影

ツツジというと私たちは、公園や庭に植わっているサツキやヒラドツツジなどをすぐに連想し、さらにドウダンツツジや、ミツバツツジ、あるいはアセビや ネジキなども思い浮かべる人もあるとおもいます。徳島県の高越山(こおつさん 標高1133m)には、国の天然記念物に指定されている、ほかに類のない見事なツツジ(ミツバツツジやオンツツジ)の大群落があります。1200本ほどもあり、高さの36m、樹齢300年という大きな木、古木もあります。

そのようなツツジに対して、この写真のエゾツツジは、樹木ですが、高さ1030cmという草のようなツツジです。 これは、東北の一部の高山(早池峰山・岩手山・秋田駒ヶ岳)と北海道の高山にしかみられないというもので、厳しい風雪にさらされるような過酷な環境にて育っている植物です。

この写真のものは、秋田駒ヶ岳の9合目ほどにあったもので、人の近づかないような急な山の斜面に咲いていたものです。短い夏の間に花を精一杯咲かせようと、いっせいにつぼみがふくらんでいます。 このような弱々しく見える植物が、冬季の厳しい環境にあって生育しているのに驚かされます。

弱さの中に力を与えるという聖書の言葉を思いだしたものです。人間においても、神の力が与えられるとき、耐えがたいような厳しい状況にあってもそれを越えていくことができることを思います。

こうした高山の植物は、周囲の澄んだ大気、美しい山々や青空、そして時にはこの写真のように神秘的な霧もかかり、そうした中でいっそう私たちに強い印象を与えてくれるものとなっています。

そこに、神の国の命や力、そしてその美と多様性、さらにそこから私たちに語りかける天来の言葉を感じるのです。( 文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 228

「渇く者は来たれ」 2013.6.10

渇いている者は来なさい。命の水が欲しい者は、値なしに自由に飲みなさい。(黙示録2217 より)

渇くものは来れ。望む者は値なくして命の水を受けよ。(文語訳)

Come!' Then let all who are thirsty come:

all who want it may have the water of life, and have it free.

聖書の最後の部分にあらわれるのがこの言葉である。人間は、だれでも何らかの渇きを持っている。満たされない何かを心の奥深くに持った存在である。動物はただ食物があれば満足して安らかに眠っていることができるが、人間は精神的、霊的存在であるゆえに、食物が十分になくても飢えに苦しむが、食物が満たされていてもなお、魂の渇きは残り続ける。

家族や自分も健康で、収入もよい、家族も仲がよい―そのような状態がずっと続いているという人たちはあるかも知れない。しかし、この世は本質的に移り変わるものである。いずれ必ず家族のだれかが病気や事故、災害などに遭い、仕事がなくなったり、あるいは死、高齢化、住居移転などで離ればなれになって満たされない状況に直面する。

この世には、また、内面的なこと―自分の罪や他者の罪などのゆえに、思いがけない苦しみが降りかかってくることがある。かつては予想もしなかったことによって日々心身ともに疲弊するという状態に陥ることもある。どんなに表面的に幸せそうであっても、その奥にはどんな問題を抱えているか分からないのである。

自分の心、また家族の心や関わりある人たち、さらに日本や世界のどこを見ても、より深く見つめるときには、そこに渇きがある。満たされないゆえに、道を踏み外し、よくないとわかっていても罪の道に入り込むことがある。そしてそこからさらに新たな渇きが生じる。 それゆえに、そうした人間の本質にかかわる渇きをいやすということが聖書の根本的なテーマとなっている。

このことは、すでにこのみ言葉にかかげた黙示録の時代より500年ほども昔の旧約聖書からすでに言われてきた。

「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。

あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。 (イザヤ書551)

私たちの魂の渇きをいやし、強め、再生させる力を持つものは人間ではなく、金や娯楽その他ではない。それは、はるかな古代から一貫して言われてきたように、ただ神とキリストのところに行くことによってである。主イエスも、「(心の重荷を持ち、満たされずに疲れ、渇いている人は) 私のところに来なさい。そうすれば、魂に休みが与えられる。」と言われ、また「誰でも渇いている人は、私のところに来て飲みなさい。 そうすれば、 その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書73738より) と約束された。

このように、ここにあげた黙示録の言葉は、聖書の最後に現れる強い呼びかけともなり、聖書の全体のメッセージをしめくくるように記されており、2500年ほども昔の時代から、今日に至るあらゆる時代の、あらゆる人への呼びかけとなっているのである。

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野草と樹木たち  ヒナザクラ  秋田駒ヶ岳  2012.7.19 撮影

ヒナザクラ 秋田駒ヶ岳 2012.7.19 撮影

私はこの花を秋田駒ヶ岳で初めて見ました。はっとするような清い美しさをたたえた花です。純白の花びらの中に黄色の中心部をもったサクラソウの仲間です。サクラソウの仲間は、外国のものはプリムラと言われ、よく知られている花で、多くの種類もあり、その園芸用のものは花屋でたくさんいろいろな色のものも見られます。

しかし、日本の野草としてのサクラソウは、ピンク色で、野生が見られるところはごく少なくなっています。

このヒナザクラは高貴とも言える白です。 花びらは5枚ですが、それぞれが深い切れ込みがあるので、10枚の花びらのように見えます。草丈は、10センチ内外の小さい野草です。これは、日本固有の植物で、学名も、Primula Nipponica (プリムラ ニッポニカ)といい(*)、日本のプリムラ(サクラソウ)という意味です。

*primus (プリームス)はラテン語で、始め、真っ先 、第一などを意味する言葉で、英語にも prime(主要な、最初の) という語として取り入れられている。 春の始めに咲くので、プリムラという名がある。

この花は、日本でも、東北地方の八甲田山から新潟と山形県境に連なる豪雪地帯の朝日連峰や、福島県の吾妻連峰といった1500mを越えるような高山帯でしか見られないという植物です。

こうした太古の昔から存在していたであろう高山植物の美しさ―それは神の国の清さや美しさをそのまま反映しています。人間が存在するよりはるか昔から存在して、神のご意志のままに創造されたものであるからです。神の国からこの世に射してきた光のようです。

私たち人間はこうした純粋な清さを持っていないのですが、主イエスは 求めよ、そうすれば与えられる と言われたのを思いだします。求めることによって私たちもこうした天の国の清いものをわずかでもいただけると信じるものです。( 文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 227

「火の中、水の中を」 2013..5.10

 

神よ、あなたは、我らを試みられた。…

我らは火の中、水の中を通ったが、

あなたは我らを導き出して

豊かなところに置かれた。 (詩篇6610-11より)

 

God, you have put us to the test.

We went through fire and water, but you brought us to a place of abundance.

 

神を信じる民は、歴史の中で数々の試練、困難に直面した。神に選ばれたということは、安楽を意味していない。かえってさまざまの苦しみや死の危険にも遭遇することになった。

歴史の中では、聖書の民であったイスラエルの人たちも歴史の中で、エジプトによる長い迫害や、砂漠地帯での数十年にわたるしばしば死と隣り合わせたような生活があった。その後にようやく神の約束の地にたどりついた後も、みずからの罪深さによってさまざまの外敵による攻撃を受けて、ついに国は滅ぼされ、多くの民は国外に逃れ、あるいは捕囚となって遠くの国へと連行された。異国での困難な生活を終えて、ようやく祖国に帰ることができた者たちも、そこではまた新たな試練が待っていた。

こうした聖書にある民の歩みはそのまま、現在に至るまでの神を信じる者たちの歩みとも重なる。

火の中、水の中とはそのようなさまざまの出来事を象徴的に表している。神を信じる人たちは、聖書の時代からその後、今日に至るまで、世界の各地において、予想もしなかったような事態―迫害や投獄、追放等々に直面してきたことが現実に生じてきた。そして、それは個人においても、信仰ゆえに苦しめられ、生活や家庭を奪われて困難に陥った人たちも数知れない。 さらに、自分の罪、病気、事故、災害等々、"火で焼かれる" ような苦しみや痛みを感じてきた人たちも数知れない。

この詩の作者は、そうした苦しみを神からの試練として受けとったが、そのような困難の中でも神への信頼をあくまで失わなかった者は、必ず最終的にはこの詩で言われているように―この詩の作者がじっさいに体験したゆえに記されている―そこから神は導き出し、豊かなところに置いてくださる。豊かなところとは豊かさ、満ち足りた状態である。

この「豊かな所」と訳された原語は、あふれるほどにする、という意味もあり、、「主は、私に敵対する者の前であっても、神の賜物を与え、私の杯をあふれさせてくださる」(詩235)と訳されている。 また、今日の聖書箇所のギリシャ語訳聖書では、「豊かな所」という言葉は、魂をリフレッシュさせるという意味の語(*)に訳されている。 

*)このギリシャ語訳旧約聖書は、70人訳と言われる。そこでは、「神は導いて、アナプシュケー ?ναψυχ? に至らせてくださる。」と訳されているが、この語は強調を意味する接頭語アンと、魂を意味する プシュケーからなる。 これは、refreshing , recovery などを意味する。

「人生の海の嵐に」という賛美がある。それはこの世に生きるときには荒海に呑み込まれるような危険、困難にも出会うが、それをとおって、静かな港―神、キリストのもとへと導かれるという内容である。それはこの詩で記されていることと共通のものを持っている。

主イエスご自身、迫害を受け、十字架という「火の中、水の中」というべき苦難を経て御国へと帰られた。主を信じる私たちも、この地上で、どのような困難があろうとも、最終的には完全な豊かさの満ちた天の国へと導いてくださるのを信じることができる。

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野草と樹木たち  ハルリンドウ  三重県伊賀市 上野森林公園  2013.4.23撮影

ハルリンドウ     三重県伊賀市 上野森林公園 2013.4.23撮影

リンドウといえば、大多数の人々は秋を思いだすと思われます。じっさい、リンドウが取り上げられるのは秋と結びついた状況においてであることがほとんどです。宮沢 賢治の作品にも、秋のイメージのなかで現れます。これは彼の心にもリンドウの深い青紫の花が刻まれていたのを示しています。

…「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指さして云いました。

 線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。…(「銀河鉄道の夜」 六 銀河ステーション)

私自身が最も心に残っているリンドウは、昔、学生時代に京都北部の鞍馬から出発し、北山、丹波高原の山々を幾日もかかって越えて、福井県の日本海側まで歩いたとき、その山中―由良川の源流地帯で見いだしたリンドウでした。

けれども、リンドウも春に咲くものがあり、この写真は、三重県の愛農高校で、イースター礼拝での聖書の話をさせていただいたあと、帰途の途中で立ち寄ったところに咲いていたものです。秋に咲くリンドウとちがって草丈は低く、可憐な花ですが、春を告げ、新しい命のフレッシュな喜びがあふれています。

大地からこのような美しい色合いの花が生み出される―そこに神の大いなる御手のはたらきを感じます。青い色は広がる大空や大海原の水の色でもあり、神の深みを感じさせてくれる色です。( 文・写真ともT.YOSHIMURA















今日のみ言葉 226

「キリストの言葉を住まわせる」 2013.4.10

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、

互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ 316

Let the word of Christ dwell in you richly with all wisdom;

teaching and advising one another in psalms and hymns and spiritual songs,

singing with grace in your hearts to the Lord.


私たちの内に、何を住まわせるべきなのか、このようなことはキリスト教に触れるまでは考えたことはなかった。 私たちの内には何かが住んでいる。たいていの場合それは、自分自身である。何をするにも考えるにも、まず自分中心に考えるからである。あるいは、部分的に、他人が住んでいるともいえよう。他の人がどのように思うだろうかなどといつも考えている場合がそれである。他人中心といっても、他人にとってどのようにすることが一番よいのか、といったようにはあまり考えないことが多い。

目には見えないものこそ最も大切なのだと知らされると、その見えざるものが私たちの内に住んでいるのかどうか、それは決定的に重要なことになる。

神は、人間とははるかに離れた遠くにいる存在であって、人間のこの小さく、しかも汚れた心に住むなど考えられないことであった。それが、キリストが私たちの罪を担って十字架で死なれたのちに復活し、聖霊となって存在されるようになってからは、そのキリストが私たちの内に住むというそれまでまったく考えられなかった新しい状況となった。

そこから、内に住んでくださる活けるキリストが、各人に語りかけられるという状態こそ、私たちの最終的なあり方だといえる。キリストが内に住んでおられるなら、そのキリストの言葉も私たちの内につねに住んでいることになる。

そして、そうした内なるキリストの語りかけがまだ、十分には聞こえてこない場合でも、すでにキリストが語られた言葉は聖書に記されてあり、そのみ言葉を心に留め、住まわせることはできる。 キリストの言葉は生きており、それはおのずから他者にも働きかけるので、互いに教えあうということが可能となる。

キリストを信じる人たち同士の互いのはたらきがしばし ば言われる。互いに重荷を負いなさい(ガラテヤ 6:2)、互いに愛しあえ(ヨハネ 4:11)、互いに仕えあえ(ペテロ 4:10)等々。

キリストの言葉が豊かに住んでくださるかどうかによって私たちの日々が決定され、またその生涯も決まる。

礼拝のときの感話聖書の言葉のメッセージで感じたこと、心にとどまったことなどを短く語ることで、互いに教えあうということが少しではあるがなされる。祈りも代表の人が一人祈るのでなく、複数の人たちが祈ることで互いに祈りあうということがより実現できる。

こうした状況のなかで、賛美の重要性がここで言われている。キリストの言葉が内に住んでいるなら、悪の力から守られる。そしてそのキリストの言葉が賛美へと向かわせる。賛美の源泉は神の言葉であり、キリストの言葉だからである。


野草と樹木たち  ルリトラノオ  伊吹山   2012.8.28撮影

ルリトラノオ 伊吹山 2012.8.28撮影

(伊吹山の中腹から山頂を見る)

この青色の美しい花は、トラノオと呼ばれるいくつかの花のなかでは、ことに希少なもので、日本では、伊吹山にしか見られないとのことです。右に並べた伊吹山の頂上の付近に咲いているものです。

この山は、標高1377m、車などなかった時代何千年もの間、人々はこの山には何時間もかけてふもとから歩いて登らねばならなかったので、またいつも仕事があったわけだから、このような山の頂上まで、たいていの人にとって、とてもそのような1日がかりで登ることなどできなかったと思われます。

そうしたほとんど人のいない山頂部において、いつの頃からかだれも分からないけれど、はるかな昔数千年、あるいはもっと昔からこのような美しい花が咲き始めたのです。何者がこのような花を置いたのか、と問いたくなるような花です。

それはまさに神ご自身が 御計画によってこの山の頂上部の一角に置かれたのだと感じます。

昔から、強い風雨や厳しい寒さにさらされる山頂付近で人知れず咲き続けていたこの花、人間の世界にも、この花のような人を神は必要に応じて造り、必要なところに置かれてきたのを思います。

なお、その花穂(かすい)が長く、トラの尾のようだということから、トラノオ(虎の尾)という名を持つ野草としては、イブキトラノオ、オカトラノオ、ヌマトラノオ、そして、園芸種のカクトラノオなどあり、いずれも長い穂のような花をつけます。

ここにあげたルリトラノオは、その瑠璃色の花ゆえに、それらのトラノオのなかで、最も美しいものといえます。

イブキトラノオは、見いだされたときに 伊吹山に多いと思われたために、この名が付いていますが、各地で見られ、私が初めて見たのも、徳島の剣山近くの山(標高1700mほど)でした。

ルリトラノオの青い美しい色やその姿が、ほかの花とはまた異なるものを 見るものに語りかけてきます。何を語っているのか、それは人間の言葉でなく、神の国の言葉であり、心を開いて見るものには、それぞれにちがったメッセージを語り
かけてくると思われます。








(伊吹山の中腹から山頂を見る)

青い色、それは地上でもっとも広大な大空や海原の色です。それは常に人間の目に入るものを最も清々しい色にされた神の摂理だと思われます。

主イエスは、「野の花」を見よ、と言われました。それは何も意識や目的も持っていないはずの植物が、神の光に照らされるとき、そこから人の言葉でない霊的な言葉を語りかけてくるものになってきます。( 文・写真ともT.YOSHIMURA






















今日のみ言葉 225

「義の太陽がのぼる」2013.3.11

わたしの名を畏れ敬うあなたがたには、 義の太陽が上り、

その翼には、いやしがある。
(マラキ書320

For you who revere my name, the sun of righteousness will rise with healing in its wings

 

この世に生きる限り、さまざまの問題が生じる。私には、もう日は昇らないのではないか、と不安を感じ、あるいは絶望的になっている人たちもいる。

2年前の東北大震災の津波、原発大事故により、肉親や家、仕事場、あるいは住み慣れた故郷などを失った人たちのうち、相当の人たちはそのように感じていると考えられる。とくに福島原発周辺の地域は、もう帰れないのではないか、との疑問が大きくふくらんでいる方々も多いだろう。

そのような特別な災害に遭った人たちだけでなく、病気や、人間関係の崩壊、仕事の喪失、老年の孤独と苦しみ等々によって、その魂のうちにはだんだんと闇が深まっているという人々も多い。

すべての人は、死に向っている。その過程で病気にもなり、確実に体力、能力は衰え、最終的にはすべて失われていく。その意味では、みな、日は沈みつつあるということができる。

そのようなことは人間であるかぎり、必然的であり、いかに現在有名であり、権力や金の力を誇っていてもみな失われていくということは避けることができない。

そのようなただ中にあって、聖書は、日は必ずまた昇る、ということを確言している書物なのである。いかに打ち倒されても、病気の苦しみに遭おうとも、事故、災害の困難で前途が真っ暗になろうとも、それでもなお、日はまた昇る、と語りかけてくれる力をもっている。

いっさいの希望は失せたという状態、 闇と混沌の状態の中にあって、それでもそこに日は昇る。

それは、神が光あれ!と言われるならば、いかなる闇の中でも光が存在するようになるという神の言葉があるからである。

聖書という書物の比類のない特質は、最初から最後まで一貫して、この日はまた昇るということを語り続けているということであり、しかもそれが単なる夢物語でなく、現実に生じるという確信を与え続けてきたということである。

旧約聖書の最後に現れるみ言葉、神の定めたそのときには、日を昇らせまいとする闇の力は、すべて消え失せ、義の太陽が昇ると約束されている。そしてその太陽は、翼を持つという。それは至るところに翼を持ったかのように光を飛ばせ、必要なはたらきをするからである。

そして、その光の翼は、いやす力を持っている。 その光を受けるときには、たしかに体や心―その人の何かがいやされることも確実なことである。

我が名をおそれる人には、必ずそのような新たな日が昇る。―いまから2400年以上昔、このことは確実に実現することとして記された。そして、その後400年余り後に、たしかに、新たな太陽であるキリストが現れたのであった。 神を信じ、その大いなる力を畏れる人たちには確かに「日は昇った」のである。

そして、この世界、宇宙にいかなることがあろうとも、世の終わりには、ふたたび日が昇る。 それが聖書の最後に記されている明けの明星としてのキリストがふたたび来られるということなのである。

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「今日のみ言葉」に引用した、マラキ書の章について。

今月の「今日のみ言葉」(義の太陽がのぼる)は、マラキ320、そして42 という二種類の表記で書いたために、入力ミスでないかと問い合わせなどがありましたので、説明を付けておきます。

マラキ書は、一部のヘブル語の写本に、3章の19節以降を区切って4章としているものがあるために、以後の訳にもこの二通りの訳があります。 現在、旧約聖書の標準的ヘブル語原典として、広く用いられている、キッテル(Rudolf Kittel) の校訂によるヘブル語原典も、3章で終り、4章というのは設けていないのです。

そして、旧約聖書の代表的なギリシャ語訳(70人訳―紀元前250年ころから訳された) では、新共同訳などと同様に、3章で終り、4章はありません。

日本では、新共同訳や、関根正雄訳がそれを受け継いでいます。 カトリックのフェデリーコ・バルバロ訳、フランシスコ会聖書研究所の訳も、やはり同様で、4章は設けてありません。

さらに、カトリックの 代表的英訳である、 NEW AMERICAN BIBLE , NEW JERUSALEM BIBLE なども同様です。

すなわち、口語訳の4章1節以降は、そのまま新共同訳などでは、3章19節以降になっています。

しかし、ラテン語のウルガタ訳(ヒエロニムス訳)は、口語訳のように、3章の19節以降を 4章としました。

そして、英訳でも NEW REVISED STANDARD VERSION NRS)や、New International Version NIV)などは、4章を設けています。

このように、3章で終わるか、それとも、3章の19節以降を、4章1節として新たな章とするか、二つに別れているのです。

今回の「今日のみ言葉」では、メールでのタイトルに、マラキ320 と書いたのに、本文では英語聖句の後に (Mal 4:2) と書いたために、二通りの聖書箇所が表記されていたのでわかりにくくなったのでした。


自然の中から  秋田駒ヶ岳から、 田沢湖遠望   2012.7.20

秋田駒ヶ岳から、田沢湖遠望 2012.7.20

これは、秋田県で最も高い山、秋田駒ヶ岳(1,637m)の9号目付近からの展望です。

青く澄んだ大空、そして、白い雲、静かに水をたたえた田沢湖、さらに緑なす草原状の山の斜面に咲き乱れるニッコウキスゲの群落―それらすべては、人間の手の感じられない大自然の広大さと美しさをたたえています。

大空は神の栄光をあらわし、花々は、その御手のわざを示し、湖は、私たちの魂に不可欠ないのちの水を感じさせてくれます。

田沢湖は、最大深度は423.4mで日本第一位だとされています。 かつては摩周湖につぐほどの透明度もあったということですが、その後、強酸性の水が流入したことで、魚類もほとんどが絶滅し、クニマスという魚もいなくなっていたのです。しかし、 2010年、山梨県の西湖にて生存個体が発見されたことが広く知られるようになりました。

ここに写っているニッコウキスゲは、東北の厳しい寒さのゆえに、冬は氷雪で覆われるような高い山にも自生しており、その強い生命力を感じさせます。

花は、ただ一輪であっても、その花びらや色、形、緑ゆたかな葉との調和などなど、私たちに何かを語りかけてきます。

他方、ここに見られるようなたくさんの花々の集りは、神の創造された自然の花園にあって、清いコーラスを歌ってるのが感じられてきます。

いかなる人間の指示も受けず、あらゆる人間的な考えや思いから完全に清められたその花たちは、天上の天使たちが地におりてきたかのような雰囲気を持っています。

青い空と湖、そして緑のなかに浮かびあがる黄色のニッコウキスゲ…こうした自然の姿とその色彩の美しさは人間が持つことのできないものであるがゆえに、強く心を惹くものがあります。 (文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 224

「水のない荒野を」2013.2.13

主はあなたを、蛇やさそりのいる、あの水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、

硬い岩から水を湧き出させ、

あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。

それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。 (申命記8章1516より)

The Lord guided you through this vast and dreadful desert, a land of fiery snakes, scorpions,

who in this waterless place brought you water out of the flinty rock;

who gave you mannaa to eat in the desert, something your fathers had never known,

to humble and to test you so that in the end it might go well with you.

 

神は、とくに選んだイスラエルの民を、あえて荒野、砂漠のような土地を通る道を歩ませた。それは数週間もあれば行ける距離であったのに、40年という歳月を要して、目的のカナンに到着するという驚くべき長期間にわたる苦難の旅となり、長い回り道の生活となった。

この聖書に記された神の民の歩み、その後の長い歴史において、無数の信仰に歩む人たちが同様の道を歩むことになった。聖書とは、そのように特定の民族や国家のことを述べながら、それが真理として、あらゆる民族、国、そして個人にもあてはまるという不思議な普遍性を持っている。

私たちを苦しめるそれが目的でなく、最終的には真の幸いへと導くためである。

これは、一部の人だけに成り立つというものでなく、あらゆる人にあてはまるゆえに真理なのであり、聖書に神の言葉として収められているのである。

この世を、生きることは、たしかにしばしば水のないところを歩くようなことになる。うるおいなど全くないような、人間同士の差別や対立、あるいは衝突、また病気や災害、事故等々がどのような人にあっても程度の差こそあれ、生じてくる。

それは人によって異なるが、時には、ここに書かれたような、恐ろしい精神の荒野を歩むことになり、そこには蛇やさそりが現れて私たちに毒を与えようとする。悪意や誘惑という毒をもったものが私たちの前途に現れ、そしてじっさいにそれらのものに倒されていく人たちも多くいる。

だが、他方、そのような恐ろしいこの世にあっても、いのちの水を飲ませ、天来の食物をもって養い、それらの毒に噛まれないように守り、導く大いなる御手がある。

そして、そのようなこの世の苦しみもすべて愛なる神が、私たちの最終的な幸いのためになさっているのだと、信じるように導かれる。

そうした歩みをするとき、じっさいに、5年、10年あるいはそれを越える歳月の後には、たしかにこのみ言葉が言うように、本当の幸いへと導かれていったのだという実感を持つ人たちが、過去数千年において、無数に起こされてきたのである。

今日のみ言葉は、使徒パウロが、「神を信じるものには、すべてが益となるように共に働く」(ローマ828)に通じるものがあり、この世の数々の苦しみを越えていく道が示されている。

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野草と樹木たち コマクサ (駒草) 秋田駒ヶ岳 2012.7.20

コマクサは、高山に咲く花ではとりわけ有名なものです。私は、ずっと以前、北アルプスの後立山連峰を縦走していたとき、見たものですが、それ以来、長く見ることがなかったものです。この写真は、岩手から、山形県北部に向う途中で登った秋田駒ヶ岳でのものです。この花は、こうした火山性の砂礫地に育っていて、ほかの植物は生育できない困難な環境です。

しかも、この花は、カムチャッカから、北海道の大雪山や、知床、あるいは東北の岩手山、蔵王、中部山岳地帯の白馬岳等々、高山の厳しい寒さにさらされる地域に分布していて、その生育は強い風、氷雪、水や栄養分のごく少ない地で育つという特異なものです。そしてこのような大きさの株になるには、10年、20年という歳月がかかるといいます。厳しい風雪と寒さに耐えた驚くべき結晶がこの花なのです。

神は、本来なら、生きてはいけないような厳しさにもそれに耐えて生育していく力を与え、 それをとおして人間にも、神の御手のなすわざのはかりしれない多様性とそこに秘められた力、そして美しさを伝えているのです。 (文・写真ともT.YOSHIMURA







今日のみ言葉 223

 

「新しい創造」 2013.1.8

だれでもキリストにあるならば、そこには新しい創造がある。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
(Ⅱコリント 5:17

So if anyone is in Christ, there is a new creation:
everything old has passed away;
see, everything has become new ! (2Co 5:17 NRS)


だれでもキリストにあるならば、その人は新しく創造された者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(Ⅱコリント 5:17

So if anyone is in Christ, he is a new creation:
everything old has passed away;
see, everything has become new ! (2Co 5:17 NRS)

キリストの内にある人、キリストと目には見えない結びつきを与えられている人―、その人は、新しい創造なのだと言われている。そのようなことは、人間の努力や生まれつきの才能によってできたのではなく、神ご自身の御手による新たな創造であるからである。
私たちは、神の一方的な恵みによって罪赦され、キリストの内に留まることができるようにしてくださった。
そのとき、内面は新しくされ、それまでの暗い憂うつな、あるいは希望のない内面の世界は過ぎ去っていく。
キリストは、神と同じお方であるゆえ、あらゆる真実や愛に富んでいるお方である。そのような純粋な愛や真実に出会うとき、人間は限りない深さと新鮮さを実感する。
ここには、一般世間の考える新しさと、全くことなる新しさがある。世間の新しさは、たちまち古びていく。新聞やニュースなどそれを読んだり聞いたりしたとたん古びていき、もう読む気もしなくなる。私たちの人間そのもの、魂が新しくされなければ、いかに新たなものを身につけ、買い換えても人間そのものは日一日と古くなっていくのをどうすることもできない。
新しい場所へ行くこと、新しい経験を積むこと、あるいは新たな勉強をしたり未知の人間とかかわることを誰でも求めている。 そしてそれらはたしかに部分的に私たちを新しくさせ、新たな世界を実感することになる。
しかし、それらの新しさは必ずふたたび古びていく。どんな新たな経験もまもなく色あせてくるし、新たな人間関係も分裂や誤解が生じたりする。私たち自身も日々古くなっていく。
この世の新しさは、このように、時間とともに古くなっていくのが宿命である。
しかし、キリストの内にあるとき―キリストと霊的に深く結びついているときには、単調な生活や、同じようなものに繰り返し接しても、そこに新たな何かを感じ取ることができる。それは、キリストの内にあるゆえ、万能であるキリストがそのように実感させるのである。
キリストの内にあるとき、キリストも私たちの内にいてくださる。(ヨハネ154) それによって、私たちは周囲のものが新たに創造されたものとして実感するようになる。
そしてこの道こそは、万人に開かれた道である。病気の人はいくら新たな場所に行きたくとも行けない、新しい家に住みたい、と願っても貧しい人にはできない。新たな勉強をして考え方や技術を身につけたいと思っても、そこにはやはり能力や健康が必要となる。
キリストが示した道は、そのようなものが何もない者であっても豊かな新しさを与えられる道であり、しかもそれは、死後ですらも、永遠に続く新しさなのである。
キリストの内にある者は、神の力によって復活してキリストの栄光と同じように変えられるからである。

野草と樹木たち
モミジカラマツ(紅葉唐松)  キンポウゲ科   秋田駒ヶ岳にて(秋田県と岩手県の境にある。標高1637m 2012.7.20

モミジカラマツ(紅葉唐松)キンポウゲ科   秋田駒ヶ岳にて(秋田県と岩手県の境にある。標高1637m)      2012.7.20

このモミジカラマツ は、中部地方から北の東北、北海道、さらにカムチャッカ、千島にも見られるとあります。 私がじっさいに見たのは、北海道の大雪山や月山(山形県)、この写真を撮った秋田駒ヶ岳で、こうした山々でよく見られた花です。
この写真では、緑の茂みのなかから、純白の花を咲かせ、すがすがしい雰囲気をかもしだしています。この写真では分かりにくいですが、葉がモミジ状になっているのでこのような名前となっています。 真っ白い花は、おしべがこのように多数出ているのです。 花というと花びら(花弁)のある花を思いだすことが多いのですが、この花のように、雄しべが美しく伸びてそれが花となっているのもあります。カラマツソウの仲間には、ほかに、シキンカラマツ、ミヤマカラマツなど10数種に及ぶ種類があり、そのなかで、このモミジカラマツは、大型で60センチほどの高さになり、下部の葉の直径や、葉柄なども、30センチほどにもなります。
この純白の花は、花の色素を持たないのですが、色彩ゆたかな花とは違った美しさとなっています。
まっ白い色―それははるか昔から、汚れなきもの、清いものを感じさせるので、心ひかれるものとなってきました。
聖書にも、この清らかさへの願いが記されています。
「わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。」(詩篇519
また、聖書の最後の書である黙示録にもつぎのようにあります。
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
わたしは、彼の名を決して命の書から消すことがない。」(黙示録 3:5
また、地上の混乱のまったくない天の国において、すでに信仰のゆえに苦難を受けた人たち、そしてキリストによって清めらた白い衣を来た人たちが、「救いは、神とキリストのものだ!」と大声で叫んでいたと記されています。(黙示録7の910
私たちの最終的な希望は、このようにまったく清められて神のみもとへと導かれることです。 (文・写真ともT.YOSHIMURA