今日のみ言葉

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(2005年)

ヤマハゼ

ヤマハゼ

 




今日のみ言葉 139 2005.12.15
/image002.gif「苦労はむだにならない」
(Ⅰコリント1557-58

 
わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
わたしの愛する兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。
主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 

Thanks be to God!
He gives us the victory through our Lord Jesus Christ.
Therefore, my dear brothers, stand firm.
Let nothing move you.
Always give yourselves fully to the work of the Lord, because you know that your labor in the Lord is not in vain.

 

主イエスによって勝利が与えられるという。それは、キリストが復活したからである。復活とは死の力に打ち勝つ力が存在することを明らかにした出来事であった。
 
この世で死の力はあらゆるものを打ち倒していく。どんな権力者や組織、あるいは科学技術も、死ということに打ち勝つことはできない。
 
かつては、医学の力で病気が克服されると思っていたが、エイズや、SARS、あるいは、大流行が懸念されている新型インフルエンザなど、次々に新しい病気が発生して、その困難さが指摘されている。
 
戦争がない世界、平和を求める願いは万人のものである。しかしこれもいつになったら戦争のない時代がくるのかと思わせる状況がある。  病気や戦争、飢餓、そして事故や老齢化による死等々、この世界には至るところで、人々を死へと押し流していく力が働いている。
 
しかし、そのようなさまざまの形で押し寄せてくる死の力に勝利する道がすでに2000年前に、開かれた。それがキリストの復活であり、復活の力を受けることである。
 
その力は死にさえ勝利するのであるから、それを受けるときにはあらゆる困難に打ち勝つことができる。
 
それを信じて初めて私たちは、固く立つことができるし、主にうながされてする働きをそれが小さきものであっても続けていくことができるだろう。
 
そしてその私たちの弱く小さい器が行なうことが、たとえささやかなことであっても、また苦労して手がけていることが何の役にもたたないように見えても、神が私たちを見守り、別のかたちで必ず実を結ぶようにして下さる。主につながっているならば、私たちの苦労はどんなことであっても、無駄になることは決してない。ここにも福音がある。


ヤマハゼ

ヤマハゼ                 徳島県小松島市日峰山    2005.12.5

 
深い青色を背景に、ヤマハゼの紅葉が心に沁みます。  澄み渡る青空も讃美、真っ赤な紅葉もまた讃美!
 
四国の山々で、秋の紅葉で目立つのはこのヤマハゼが多いのです。
 
常緑の木々や、褐色や黄色に色づいたクヌギやコナラ、イヌビワなどのなかで、真紅の木々が点在するのは、雄大なキャンバスに描かれた、神ご自身の絵画なのです。
 
サクラは木全体に花が咲きますが、秋のこのヤマハゼの紅葉は、あたかも木全体に赤い花が咲いたようです。
 
もし、山がこのような紅葉ばかりとか、緑一色とか褐色ばかりでは単調でしょうが、緑や褐色、また緑にもさまざまの色合いがあってそのなかでこのような紅葉はことに美しさを感じさせられます。
 
人間もこのようにさまざまの個性をそれぞれの場で発揮するように、神が創造されているのであって、そこに全体としてよきものが生れてくるのだと思われます。
(文・写真とも T.YOSHIMURA



今日のみ言葉 138 2005.11.12
/image002.gif「清い霊を」
(詩編5112

 

神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。

 

 Create in me a clean heart, O God; and renew a right spirit within me.

 

 この詩の作者は、自分の心というものが、自分の力では清くすることができないことを、深く自覚していた。私たちは、こどもの時から、「きれいな心になりなさい、やさしい人になりなさい」といったことを耳にしてきた。しかし、そのようなことをどれほど言われても、心の清い人になったりできない、ということもまた事実である。
 
学校の成績がよくても、スポーツができても、音楽ができても、あるいは、家柄がよく金持ちであっても、だからといって心が清くなるということはない。 貧しくとも、また学問も何もなく、あるいはアジア、アフリカにはまだまだ多い文字すら読めないような人であっても、純真な心を持っている人はいくらでもいる。
 
そしてまた、老年になったり、苦しい経験を積めば心が清くなるというものでもない。かえって、人間世界の汚れがしみ込んでしまったり、心が固く感動する心も失っていく人も多い。
  
この詩の作者はそうした人間の魂の罪深い本質を深く知っていたのであり、それゆえに、人間を超えた存在、神によって新しい創造をしていただかねば清い心はあり得ないと知っていた。
 
ここで、用いられている「創造する」という言葉は、聖書巻頭の書である創世記の冒頭に、「はじめに神は天地を創造された」といったところに使われている言葉で、ふつうに何かを作る、という場合には使われない言葉である。
 
なにもないところに新たに創造する、造り出すのは、神のみができることであり、それゆえにこの作者は、神は、自分の心にも新たな創造をして清い心を生み出すことが可能だと確信していたのである。
 
作者にとっての根本問題とは、そうした魂の汚れ、罪といったものからの清めであり、新しい心を創造して頂くことであった。
 
このことは、この詩がつくられてはるか後に、キリストが、つぎのように言われたことを思い起こさせる。

まことに、まことにあなた方に言う。人は新たに生れなければ、神の国を見ることはできない。
(ヨハネ福音書三・3

 
自分の努力でなく、環境でもなく、神が新たに創造してくださるということを信じるからこそ、希望がある。たとえ自分にはそのような清い心がなくとも、かつてひどい罪を犯して汚れた心になっていたとしても、そのただ中に神は創造できるからである。

 それこそ、魂の平安を与えてくれることであり、動くことのない希望である。


キチジョウソウ(吉祥草)

キチジョウソウ(吉祥草  徳島県小松島市 日峰山    2005.11.12

 
この花が咲くと、よいこと(吉事)がある、という言い伝えから、吉祥草 という名があります。たしかに、この植物のわが家のある日峰山の谷筋にずっと以前から自生していたのですが、今まで一度も花がさいているのを見たことがなかったのです。
 
それで、本当に花が咲くのかどうかと実験してみようと、もう何年も前にいくつかの株を、わが家の庭に移植しておいたのですが、今年初めて上のような花が咲いたのです。そして、本来自生していたところには、花は全く咲いていないのです。
 
の高さは20センチ内外、花はその中にひっそりと控え目に咲いていて、湿った日のあまりあたらない所に育っています。
 
つぼみのときには、深みのある赤紫で、花が咲くと白い花びらが開きます。
 
昔は、天災にも備えができず、社会生活も差別に満ちていて、病気になっても医者にもかかれず、しばしば飢饉となり、食べ物にも事欠くといった状況が多かったために、何かよいことを待ち望む心が強かったと思われます。それで、なかなか花が咲かない植物が、花を咲かせると、人々のそうした願いと結びついてこのような名がついたのであろうと思われます。
 
けれども、「何かよいこと」が生じるのは、珍しい特定の花が咲くとか、流れ星を見るとか、まれな出来事によって生じるのでなく、だれにでもできる単純なこと、すなわち聖書に記されている神とキリストを受け入れて、そのご意志に従っていくことにあると気づかされます。      
  (文・写真とも T.YOSHIMURA




今日のみ言葉 137  2005.10.
/image002.gif「あなたの真実のゆえに」
(詩篇119:75

主よ、あなたの裁きが正しいことをわたしは知っています。わたしを苦しめられたのはあなたの真実のゆえです。 


 I know, O LORD, that your judgments are right, and that in faithfulness you have

afflicted  me.

 

私たちが出会うさまざまの苦しみや悲しみも、神様の真実のゆえだという。これは意外な言葉である。病気や人間の悪意や人間関係の分裂に苦しめられるとき、これは運命のなせるわざだ、とかこの世の悪魔的な力によってこのような苦しみが生じるのだと思うことが多い。
 
しかし、この詩の作者のように、この世が愛と真実の神の御支配と導きによっていると堅く信じる者にとっては、苦しみすらも、神の真実のゆえだと実感できる。私たちへの神の愛と真実があるからこそ、私たちを鍛練し、苦しめてより高いところへと導こうとされているのだと受け止めることができる。
 
このように信じることができるなら、そのような人はすでに悪の力に勝利していると言えよう。
 
主イエスは言われた。「あなた方はこの世では苦難がある。しかし、勇気をだしなさい。私はすでに世に勝利している。」
(ヨハネ福音書1633
 
聖書でいわれている神は決して信じるものを見捨てることなく、さまざまの苦しみや問題が生じても最終的には必ずよきところへと導く御方であり、このように信じる者たちには、「万事が益となるように共にはたらく」と約束されている。


ミゾソバ

ミゾソバ     徳島県小松島市日峰山    2005.10.19

 
食用のソバと同じタデ科で、ソバの花や実と似ているし、花もほぼ同じころに咲きます。高さ5-70cmほど。野山の湿ったところ、川岸などに生えるので、溝ソバという名がついています。わが家の裏山の谷沿いに、ほとんど人の通らないところでひっそりと咲いています。ソバの花は白ですが、このミゾソバは、つぼみや花びらの上の部分だけが、うす紅色をしており、あたかもより美しさを感じさせるように、ちょっと色を付けたように見える可憐な美しさを持っています。
 
タデの仲間で、道端によく見られるのはイヌタデです。昔はその花をとって、赤飯だとして遊んだ記憶があります。この花は、別名アカノマンマともいいますが、これは小さな紅い花を赤飯にたとえた名であり、このような名前が広く知られているということは、全国的にこうした遊びがなされていたことが推測されます。
 
またイヌタデと花はよく似ているアイ(藍)は、いうまでもなく、古代から有名な藍染めに使われる植物です。  アイは非常に注目されてきた植物ですが、このミゾソバは一つ一つを近くで見ると実に美しい花であっても、何の実用にもならないため、ほとんどだれも心に留めることもないような花です。こうした花にも、心惹く美しさを与えている創造主のお心を感じますが、神はたしかに人間においても一人一人をほかに比べることのできない独自の存在として価値を与えておられると感じるのです。





今日のみ言葉 136   2005.9.3
/image002.gif「いのちの水へ導く」
(黙示録 717

玉座の中央におられる小羊(キリスト)が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、
神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。

He will lead them to springs of living water. And God will wipe away every tear from their eyes.


新約聖書の最後の書である黙示録は、ローマ帝国における迫害の時代に記された文書である。闇の勢力が真理を愛する者たちを圧迫し苦しめる状況にあって、天からの光と力を与える目的で記されており、悪の力がはびこる世の現状と、それと対照的な天の国の状況が折り込まれている。 ここであげた言葉の少し手前には、 天の国において、無数の人々が白い衣を身にまとい、天使たちも共に、神と小羊たるキリストの前で、大いなる讃美を歌っている状況が記されている。彼らは大きな苦しみを通って、キリストの血で汚れを洗われて真っ白くされたのである。
このような記述は、現代に生きる私たちにもあてはまる。 私たちも迫害でなくとも、さまざまの苦しみを持っている。そこを信仰によって導かれ、キリストの十字架を信じることによってあがなわれ、清められ、日々をキリストによって導かれていく。そして、この世の混乱と悪のなかにありながら、「いのちの水の泉」へと導いて下さる。それが神を信じ、キリストによる罪の赦しを受け入れた者の歩みである。私たちが魂の奥で求めているのは、この世のものでない清いもの、力あるものでうるおされることなのである。 それによって人間の言葉やほかの手段ではどうしてもいやされることのない深い悲しみであっても、 その悲しみがすべていやされるという。 何という慰めに満ちた約束であろう。
主イエスが、「ああ、幸いだ。悲しむものたちは! 彼らは神によって慰められるゆえに。」と言われたのも、今日のみ言葉と同じような内容を持っているのがわかる。


センニンソウ

センニンソウ 徳島県小松島市日峰山 2005.9.3

夏の終りから咲き始める、この白い十字架のような花は、香りもよく、緑一色の夏山に、所々に白いベールをかけたように見えることがあります。蔓性で、やや低い木々に巻きついてその上でこのような花を咲かせるのです。
この花の学名は クレマチス テルニフローラ(clematis terniflora) といい、クレマチスの仲間です。なお、クレマチスという言葉は、ギリシャ語の クレーマ klema が語源です。クレーマとは、「若枝、または巻き蔓」という意味があり、クレマチスという名前は、「長く柔らかい枝をもった植物」につけられています。
(なお、花屋さんでクレマチスといわれている花は、中国原産のテッセンや、日本のカザグルマなどの植物を交配した園芸用の花を指して言っています。)
新約聖書では、このクレーマというギリシャ語は、つぎの有名な箇所で、「枝」と訳されて用いられています。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ福音書155
このような関連があるために、この花を見ていると、私たちが神による清めによって真っ白くされること、十字架による赦し、そして主イエスこそがぶどうの木であり、私たちはその枝であり、ただイエスにつながっているだけで、私たちの枝は実を結ぶということなど、いろいろのことが思い浮かんでくるのです。 (文・写真ともに、T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 135    2005.8.23
/image002.gif「いつまでも残るもの」
(Ⅰコリント1313141

いつまでも残るものは、信仰と、希望と、愛、この三つである。その中で最も大いなるものは、愛である。
だから、あなた方が願い求めるべきなのは愛なのです。

And now these three remain: faith, hope and love. But the greatest of these is love.
It is love, then, that you should strive for.


これは、聖書のなかでもとくによく知られた言葉の一つである。信仰と希望、それは深く結びついている。万能の神、すなわち万物を創造し、罪の赦し、悪への勝利等々すべてをなし得る神を信じるのが信仰である。そこからキリストの十字架が私たちを罪から解放し、赦しを与えて下さったという信仰も生れる。そしてそのような神だからこそ、いかなる事態が生じようとも神はきっと最善になされる、と待ち望む心が希望である。
 
そしてそのような信仰と希望のあるところに、注がれるのが愛である。しかし、ここで言われている愛というのはふつう、文学やマスコミ、歌などで言われている人間の「愛」とは本質的に違ったもので、聖書で言われているのは、「神の愛」である。この箇所の直前において、「愛は忍耐強い。…愛は真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と言われていて、ふつうに言われる愛との違いを強調している。この「すべてを忍び、すべてを…」と強調されているのはどういう意味があるのだろうか。
 
そのまえに、この愛は「真実を喜ぶ」と言われている。ふつうの愛は、真実(真理)への愛に根ざすのでなく、自分が大事にされる、というところに根ざしている。自分中心なのである。だから自分が愛している人が裏切ったとき、とたんにそのような愛は消えて、憎しみに変わってしまうのである。
  
しかし、聖書でいう愛は、真実を喜ぶことにその基盤がある。 それは、他者のためにはそれがたとえ敵対するような人であっても、その人が本当に善くなるためには見下されても、悪いことをされても、神が最終的にはすべてをよくされる、と信じ続けていくような姿勢である。すべてのこと、悪しきこともよいことも、神が支配なさっていると信じて、希望を持ち続けていく。 聖書で言われている忍耐とは、希望をもって待ち続けるという意味を含んでいるのであって、私たちがふつう日本語で「忍耐せよ」といわれるとき、あきらめて我慢せよ、というようなニュアンスを感じるのとは大きな違いがある。
 
またいろいろな苦しいこと、悩み、不都合なことが生じてもそれらもすべて神がある何か良きことのために、起こしておられるのだと信じていくことでもある。 主イエスもまず神を愛せよ、隣人を愛せよ、と言われた。この愛はいずれも神から頂くものであって、その愛を受けるとき、私たちの日々の生活で出会う間にかかわる出来事も、この世でのさまざまの現象、それは自然現象や社会的なできごとも含めて、それらすべてが全体として、愛の神が良き方向へと導いておられるのだと、信じて受け取り、希望をもち続けるようにと導かれる。


シュウカイドウ (秋海棠)

シュウカイドウ (秋海棠)    わが家の庭にて

 
夏の終りから咲き始めるこの花は、ややうつむきかげんに咲き、淡紅色の花びらが印象的でどこか静かなたたずまいがあります。先日、県南の山間部の日陰のしめった急な斜面にて、この花が、群生しているのに出会って驚かされたものです。ほとんどだれにも気づかれずにひっそりと咲いているを目にしたとき、どのようにしてこのような山間の崖のようなところに咲くに至ったのか不思議に思うととにも、雑草や木々のただなかでこのような美しい花が咲いていた姿がことに心に残っています。
 
もう40年近く昔、京都の山で、やはりしめった木陰で群生しているこの花を見付けたときの情景が浮かんできたものです。 植物は、沈黙のまま、ただ咲いているだけで、私たちの心に何かを残す働きを持っています。

天つ真清水 受けずして
罪に枯れたる ひと草の
さかえの花はいかで咲くべき
注げ、いのちの真清水を (讃美歌2173節)

 
私たちも、この讃美歌のように、神からいのちの水を受けて、花を咲かせるものとしていただきたいものです。 (文・写真ともに、.YOSHIMURA


天使はまた、水晶のように輝く、いのちの水の川をわたしに見せてくれた。
この川は神と小羊の御座から流れ出て、都の大通りの中央を流れている。


 Then the angel showed me the river of the water of life, bright as crystal, flowing from the throne of God and of the Lamb through the middle of the street of the city

 

 この聖書の言葉には、私たちが最終的に導かれていくところが象徴的な表現で述べられている。この都とは、通常のものでなく、「神のもとを出て、天から降ってきた」(黙示録212)のである。また天地も、新しい天と地と言われているように、霊的な世界が指し示されている。
 
そこでは、第一に述べられているのが、「人の目から涙を全くぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみも痛みもない」(同4節)ということである。私たちの日々の生活を苦しめる一切のものがなくなるという、究極的な状況がここにある。聖書の世界においては、そこに来て真理を受けようとする人たちにこのような世界が約束されている。
 
そのような世界は、死んだのちの世界、あるいは世の終わりの状況を言っているのだから、現在の私たちには関係がない、と思う人も多い。
 
しかし、それは大きな誤解である。聖書が約束していることは、現代の私たちにも生じるのである。究極的な世界で生じることは、愛と真実の神を幼な子のように信じる者にとっては現在においても、部分的であっても与えられる。
 
「いのちの水の川」、それが都の大通りの中心を流れているという。それは祝福された人間の魂の世界を象徴していると言えよう。私たちがひとたびこの世界を創造された愛の神と結びつくときには、私たちの心の深いところで泉が与えられ、そこから私たちの魂をうるおす流れが生じる。それが私たちの存在の中心を流れるようになるということなのである。
 
そしてこのことは、本当にキリストと神を信じるようになった人には、程度の多少はあっても、みんな経験することだと言えよう。
 
そして、この世の砂漠のような状況にあっても、そのただなかに水があふれる、そんなことが心の世界には生じるのである。実際に、からだの目でなく、霊の目によってそうした命の水の川が、私たちの世界の中心を流れているのが感じられてくる。そのような流れがずっと続いてきたからこそ、いかなる暗黒の時代にあってもキリスト教の真理は消え去ることなく、二千年を経た今も世界をうるおし、そこに引き寄せられる人が次々と起こされているのである。


カワラナデシコ

カワラナデシコ         徳島県名西郡神山町  2005.7.7

 
夏の野山は、緑の深い海のようである。山々は緑、緑、緑であり、そのいのちがあふれるばかりである。そうした緑一色のただなかに、このような美しい色合いの花が咲いていた。これは徳島市から数十㎞離れた山間部での家庭集会に出向く途中に見出したもので、おもわず立ち止まりたいような美しさを持っている。

 今回はいつも通っている国道が通行止めであったために、長く通ったことのない、昔からの山道を通ったゆえにこの野草に随分久しぶりに出会うことができた。
 
柔らかなピンクの花びらがその先ではいくつかに切れ込みが入り、見えざる御手によって天然のはさみが入れられたようである。花びらにこのような切れ込みがなくてもこの植物は何の不自由なく生きていける。それなのになぜ、このような特別な切れ込みが入り、花の姿や色あいがこのように美しくできているのだろうか。
 
こうした植物を創造された神は、人がその花の美しさに触れることによって、人間の心にもその美しさが伝わり、そこから神の創造の力や究極的な美しさ、清さを見出すようにとの御計画をもっておられるように思われる。
 
その素朴な美しさのゆえに、この花は日本でも古く、出雲風土記という紀元733年のころにできた書物に記されているというし、万葉集の山上憶良の「秋の七草」の歌にも出てくる。
 
ナデシコ(撫子)という名は、その可憐な美しさのゆえに、愛する子供を撫でるような気持で接したくなるということから付けられたという。
 
中国からきたナデシコをカラナデシコ(唐撫子)または、石竹といい、ヨーロッパ原産のものを、アメリカナデシコというのに対し、この花はわが国に昔からあるので、ヤマトナデシコ(大和撫子)とも言われ、その控え目で清楚な美しさに満ちた花の名が、日本女性を意味する言葉としても用いられてきた。
  
しかし、この花のもっているような美しさは、日本女性だけをあらわすのでなく、神の国の美しさをあらわそうとして神が創造されたものであり、その美しさは、神と結びつくならば、どこの国の人であっても、だれにでもその魂に与えられるのだと言えよう
 (文・写真ともに、T.YOSHIMURA



今日のみ言葉 133   2005.7.2
/image002.gif「火の中、水の中をも」
(詩編6612より)

我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して、豊かな所に置かれた。

We went through fire and water, but you have brought us to a place of abundance.

 

神は、私たちをときには、大変な困難、苦しみに会わせることがある。それは苦しい病気であったり、犯した罪から来る苦しみ、あるいは、家族や職場の人間関係であったりする。
 
また、飢饉、戦争や迫害といった大規模に生じる苦しみや悲しみなど、火の中、水の中を通るような苦しみは、実に千差万別であり、それはときにはたくさんの人々が死に至るほどである。
 
現在の世の中を見てもそうした火の中、水の中を通っているような人々、民族、国家はたくさんある。 むしろそのような困難はこの世にあるかぎり、終わることがないと言えるだろう。
 
そのような深い闇に包まれたような現実にあっても、この詩の作者は、そこにも愛の神の御手を深く感じていた。神は火の中、水の中に信じる者をそのままにして滅びるにまかせることは決してなさらない。主を信じ、主にゆだねていく者たちを必ずそこから導き出して、豊かなところ、平安あるところ、緑の牧場へと連れ出して下さる。
 
たとえこの世でそのような良きところへと行けずとも、この世に生きる短い期間の後には、必ず神のみもとへと導いて下さる。
 
次の有名な詩編もここにあげたものと同様な、神の導き、困難を通っての導きを述べている。

「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。…
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださるから。」(詩編23より)


ザクロとナガサキアゲハ

ザクロとナガサキアゲハ                  徳島県小松島市 日峰山              2005.6.25

ザクロは、ペルシャやインド地方の原産で、古くから栽培されてきた植物です。ザクロの花、それは葉のゆたかな緑に対照的な赤い花をつけるのでよく目立ちます。この実は、ずっと以前にはわが家にもあったので、苦みのある皮の内側にあるたくさんの種のまわりについている部分が甘酸っぱく食べられるものでした。果皮や根の皮は、昔から駆虫剤として有名です。
 
聖書にも、ザクロはしばしば出てきており、旧約聖書には30回ほど出てきますから、親しまれた植物であったのがわかります。
 
ちょうどこのザクロの花にその蜜を吸うためにきたのは、ナガサキアゲハという美しい蝶です。1824年シーボルトによって長崎で採集、発表されたので、この名前があります。私は子供のときに、家が山にあったためもあり、夏になると昆虫の美しさやその生活の様子に強く引きつけられ、各種の昆虫を追って、山を歩き回ったものでした。このナガサキアゲハもその頃に知ったもので、アカタテハや、ルリタテハ、以前に「今日のみ言葉」で紹介したアサギマダラやカラスアゲハ、美しい独特の模様をしたイシガケチョウなどはことに心に残っています。
 
神ご自身の直接の創造物である、植物や昆虫の美しさや無限の多様性に触れると、人間のつくったものは単にその貧しい模倣に過ぎないのがよく分かります。
  (文・写真ともに、T.YOSHIMURA



今日のみ言葉 132   2005.6.16
/image002.gif「座るのも立つのも」
(詩篇1391-2

主よ、あなたはわたしを究め
わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。


人間は、明日のこと、今日のことすら、何が起こるかわからず、自分の心にどんな罪に陥るか、他人の心の中にどんな気持があるのかなども見抜くことができない。また、いかに科学技術が発達してもなお、この身近な大地が揺れ動く地震がいつ生じるかも予見できないし、たった一枚の植物の葉や花を取ってみても、それらは驚くべき多様な、形や色、模様、鋸歯などを持っているが、それらがなぜそのようになっているのか、といったこともほとんど分からないと言えよう。
 
一歩踏み込んで考えると、万事分からないことばかりである。
 
しかし、神はすべてを見通しておられる。一つの植物の色や形などもすべて深い英知をもって創造されたものなのである。同様に、私たちの苦しみも悩みも、またなす事もみんな主は知っていて下さる。そのゆえに私たちは望みを失わない。私たちの心の悲しみが深くなる理由の一つは、だれもが自分の苦しみや痛みを分かってくれないところにある。そしていくらか分かってもらえたとしても、心に深く刺さったとげや苦しみはいやされず、病気や老齢化のための衰えは医学もどうすることもできないことが多い。
 
しかし、神はそうした私たちのだれにも分かってもらえない、心の痛みや苦しみも分かっていてくださる。そして、真剣に求めるときには、心のいやしとなる励ましを与えてくださる。
 
私たちは周囲の人たちから理解されず、かえって中傷され、見下されることなどで心が傷つき、苦しむ。しかしそのようなときにたった一人でもその心のうちを分かってくれる人がいたら、それによって支えられることがある。人間であってもそのように支えになるのであるから、万能の神、天地創造された神が私たちの苦しい胸のうちや、悲しみを分かって下さるということは、何にもかえがたい力となる。
 今日も主が共にいて、心の思いが清められ、その手のわざを祝福して下さいますように


クチナシ

 クチナシ             徳島県小松島市 日峰山                       2005.6.8

 
クチナシ、それは香りの点でも、花の姿、その純白の花と大きな黄色の雌しべ*がよく目立つ花です。やや日陰のところでも育ってこのような香り高く、また静けさにみちた花を咲かせます。

*)この花の中央のよく目立つのは雌しべのうちの、花柱(かちゅう)という部分です。めしべは、子房、花柱、柱頭の三つの部分から構成されています。

 
クチナシは花が愛好されますが、その実も、食品に黄色の色を付けるために用いられ、また消炎、止血(しけつ)、解熱など薬用にもされています。

 
花の香りはさまざまですが、このクチナシの花の香りは、それらのうちで最も心ひくものの一つといえます。この写真は、野生のもので、わが家の裏山には数十年前には多くの野生のクチナシがあったのですが、現在では少なくなっています。子供のころからその花にはなじみがあり、それをとってかざぐるまのようにして遊んだものです。
 
しかし、大人になってからはその濃い緑の葉を背景にして浮かび上がる純白の花のすがたと、その何にもかえがたい香りによって、とくに心惹かれる花になっています。園芸店で見かける八重咲きのものにはない素朴な自然の香りがこの野生のものにはあります。
 
この花の香りは天の国の香りといえるほどです。香りというのは、心に響く音楽のようなはたらきを持っています。言葉では言い表せないあるものを私たちの心に運んでくれるからです。
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」
(Ⅱコリント215という言葉がありますが、キリストに清められて私たちもいくらかでも良き香りを持ったものにしていただきたいと願っています。    (文・写真ともに、T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 131   2005.6.2
/image002.gif「み言葉がとどまるとき」
(ヨハネ福音書157

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、
望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be given you.


「求めよ、そうすれば与えられる。」という、よく知られた聖書の言葉がある。しかし、現実の生活では、求めても与えられないことはいくらでもある、むしろそれがほとんどであるから、たいていの人においては、このような言葉はすぐその人の日々の生活のなかからは消えていく。
 
今日のみ言葉は、この「求めよ…」という有名な言葉の条件が記されている。それはキリストの言葉、神の言葉がいつも私たちのうちにとどまっているということである。それは言い換えると、キリストご自身が私たちのうちにとどまっているということになる。 私たちのうちにだれかの言葉、それがよきものであれ、胸が痛むような言葉であれ、心に残っているということは、それを言った人がうちにとどまっているということであるのと同様である。
 
そして神や主イエスが私たちのうちにとどまることができるということは、聖書では繰り返し強調されている。
 
使徒パウロは、「生きているのは、私ではない。キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤ書220)といって、彼の大いなる働きは、自分の努力などでなく、パウロの内に住んでおられるキリストの力によるということを証言している。
 
さらに、「あなた方は神が内に住んでいる神殿である。」(コリント前書31617など)と述べるとともに、信仰がまちがった方向に傾斜していこうとする人たちについて、「キリストがあなた方の内に形づくられるまで、産みの苦しみをする」(ガラテヤの信徒への手紙419)と言って人々の内にキリストが宿るようになるのを切に願っていたのがうかがえる。
 
あの人がこう言った、別の人はこう言った、というように私たちの内にはともすれば人間の言葉がとどまり続け、そしてそれをいろいろと考える自分の思いや自分の言葉で満ちている。しかし、そうした人間を超えた高みから、語られる神の言葉、主イエスの言葉が私たちのうちにつねにとどまっていれば…、と思う。
 
そのとき、私たちの願いもそのみ言葉によって導かれ、正しい願いが起こされ、そのような願いが聞き届けられる。 


ウツギ

ウツギ             徳島県海部郡日和佐町                       2005.5.20

 
これは、5月の花としてとりわけ有名な花です。しかし、名前はよく知られていても、平地や都会では自然のままの姿では見ることがなく、このような花の有り様を直接に見る機会もなくなっています。
 
漢字では「空木」と書きます。それはこの木の内部が中空だからです。また、別名を卯の花というのは、太陰暦の4月を卯月といい、その頃に咲くからです。
 
この花は、その純白の花びらと、半開きに咲くその控えめなたたずまいが心を心ひくものとなっています。
 
この花は、つぎの広く歌われてきた唱歌(*)に含まれました。作詩は、短歌の作者としてはとくに有名な佐佐木信綱により、曲も明るく初夏の感じがよく出されているために、1896年に「新編教育唱歌集」に出されて以来、100年以上も愛唱されてきたものです。戦後は、この1節と、5節だけが採用されて親しまれています。そこには、いずれもこの卯の花が歌われています。
 
なお、この1節に「卯の花が匂う」とあるので、たいていの人たちは、卯の花には香りがあると思っていますが、そうではなく、香りはありません。 なお、この「匂う」とは、本来は、「に」は丹で赤色、「ほ」は穂・秀の意で外に現れること、すなわち赤などの色にくっきり色づくのが原義で、「赤などのあざやかな色が美しく映える」とか「生き生きとした美しさなどが溢れる」といった意味にも使われています。(古語辞典、広辞苑などを参照)
 
讃美歌にも、「ああ、ベツレヘムよ、などか一人  星のみ匂いて 静かに眠る…」(讃美歌115番)という言葉がありますが、これは星が「匂いをもっている」ということでなく、「星だけが美しく輝いている」という意味です。

1
)卯の花の匂う垣根に ホトトギス
早も来鳴きて、忍び音もらす 夏は来ぬ

5
)五月やみ、ホタル飛び交い 水鶏(くいな)なき、
卯の花咲きて、早苗植えわたす  夏は来ぬ。

この歌にもありますが、たしかに卯の花が咲くころに、しばしば山々にはホトトギスの強いさえずりが聞こえてくるし、そしてホタルもみられるようになります。ウツギの純白も、ホトトギスの強く鋭い鳴き声も、さらに闇に輝くホタルの光も…こうしたさまざまの自然の姿は、神の国を求めようと心から願うものにとって、神の国からの清い白であり、またそこからの呼びかけのようでもあり、さらに闇のなかに輝く光があるとの証しをしていると感じるのです。
(文・写真ともに、T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 130 2005.4.22
/image002.gif「神はあらゆる恵みを」
(コリントの信徒への手紙第二 98

 

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、
あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。


And God is able to make all grace abound to you, so that in all things at all times, having all that you need, you will abound in every good work.


ここでは、特に神がいかに私たちの本当に必要なことを十分に満たすお方であるかが強調されている。原文では、 「すべて」とか、「あらゆる」 と訳されている言葉が5回も用いられているのに気付く。「いつも」と訳されている語にも、英語訳でわかるように、「すべての時」という意味がもとにある。

これはこの文を書いた使徒パウロがいかに神の恵みに満たされていたかをうかがわせるものである。すべての時において、さまざまの状況にあっても、必要なすべてのものを与えられる、という経験がパウロにはあった。
 
私たちがあらゆる善い業に満ちあふれるために、神は信じるものにあらゆるとき、あらゆる必要を満たすようにとして下さる。

 私たちはともすれば、ここで約束されていることと逆のこと、つまり、いつも不満、欠けているという感情になりやすいが、そうした人間がひとたびキリストに深く結びつくとき、その結びつきが深いほど、あらゆる状況にあっても、よい働きをなすことができるように、十分な恵みを受けるようになるのが示されている。   

 たしかに、迫害を受けているさなかであっても、敵のために祈る力が与えられたことが、最初の殉教者について記されている。イエスとともに十字架で処刑された重い罪人も、そのような死を目前にしたときであっても、そこでなしうる最善のこと、悔い改めて、主イエスを仰ぎ、恵みを祈り願うことをすることができたし、そこで主イエスから、彼がそのようなときに受ける最もよきこと、すなわち「今日あなたは楽園にいる」という、約束を与えられたのであった。

 現代に生きる私たちも、上にあげた聖書の言葉は、大きな励ましとなる。
 
今後私たちが直面するどんな困難においても、真に必要なものはすべて備えられ、与えられるといいうことなのであるから


ガクウツギ

ガクウツギ         徳島県海部郡                   2005.5.10

 
この花は、やや日陰のしめったところに咲いていることが多いので、この花の純白がとくに目立ちます。この花は、すぐわかるように、アジサイの仲間です。白い花びらは持った花は装飾花で、雌しべや雄しべが退化して種ができないものです。そばにある小さい花が、雌しべと雄しべを持った両性花です。その装飾花が、額のように囲んでいるガクアジサイと似た花なので、ガクウツギという名になっています。

 (なお、この花は、ウツギという名がついていますが、ゆきのした科 アジサイ属であって、5月の花として有名なウツギ(卯の花)は、同じ科のウツギ属です。)
  この花は、そのすがたとその白い花びらが、私たちへのメッセージを感じさせてくれます。
 
この花は、花屋によくみられる色鮮やかなセイヨウアジサイと違って、とても静かで、素朴なものを見るものに与えてくれます。
 
サクラやウメ、ジンチョウゲなどのように、一般の人々の話題になることもなく、ほとんど知られていないのですが、それだけに少し日陰の山間にこの真っ白い花が咲いているのを見るのは山間の自然に清められたなにか感じさせてくれます。
  (文・写真ともに、T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 129 2005.4.6
/image002.gif「すべてのものは神に向かって」

(ローマの信徒への手紙 1136より)

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。


For from him and through him and to him are all things..

 

 この短い言葉は、ローマの信徒に宛てた手紙の重要な区切りのところで、それまで述べたことの総まとめのように述べられている言葉である。
 
ここに、この全世界、宇宙にあるものすべてが、神によって創造され、神の御計画のままに保たれ、最終的に神に向かっていることが、きわめて簡潔に記されている。
 
このことから、身近な出来事も、実は神から出ていること、そして神によって導かれていること、すべては最善になるようにと向かっていると受け取ることができる。
 
また、周囲の空や雲のたたずまいなどの自然、さまざまの樹木や野草、植物たちの美しさやその多様性なども、みんな、神から出ていること、すなわち神のご意志やお心を映しているものであり、神がその美や力強さを保っていることもこの言葉に含まれている。
 
この世に生じる事件や出来事は、偶然的に見えたり、何の深い意味もないように見えることも多い。しかし、神を信じることによって、このみ言葉にあるように、神が私たちには分からないが深い御計画と意味をこめてなさっているのであって、そのような出来事も、私たちが神に向かって心を開くなら、その背後の神のお心に触れることができ、力を与えられる。
  
どんな悪いような出来事、悲しみに満ちたことですら、それは必ず神が神の国へと導く一歩一歩なのだと信じることができ、最終的によいことに結びつけられていくのだと信じることができればそれは何にも代えがたいことであり、深い心の平安を与えてくれるものになる。
 
こうした深い実感から、聖書に言われているような、すべてのことに感謝するとか、神に讃美することへと導かれる。


ナガバモミジイチゴ (長葉紅葉苺)

ナガバモミジイチゴ (長葉紅葉苺)   徳島県小松島市日峰山   2005.4.5 

 
春先にこのような、純白の美しい花を咲かせる木いちごの仲間は他にもいろいろありますが、このモミジイチゴの仲間はとくによく知られています。
それは、花も美しく、初夏に黄色い実をつけ、それは木いちごのなかまでも美味だからでもあります。

 
名前については、東日本にはこれより葉が丸みがかったのがあり、それをモミジイチゴといい、ここであげたモミジイチゴは、西日本にみられ、葉が長いので、この名があります。
 
このキイチゴは、花は多く咲いても、実は少ししかできないので、割合多く見られるキイチゴの仲間ですが、その実を山で実際に味わったことのある人はごく少ないようです。
 
私はもう四十年以上も昔に、山で初めてこの実を見付けたとき、まずその色合いが、やや赤味がかった黄色の美しいものであったので、こんなきれいな実が自然にあるのかと驚いたものです。そして食べてみたときの味わいもとてもよいものであったので、ずっと記憶に残っています。
 
中国や朝鮮半島ではキイチゴのある種類を薬用としても利用するとのことで、花は目と心にもよいし、実もよく、また薬用と、多方面に用いられているのが分かります。
 
日本のキイチゴの仲間は、ほかに、カジイチゴ、クサイチゴ、フユイチゴ、バライチゴ、ナワシロイチゴなど、30種類以上あると言われています。

  
キイチゴの学名は、rubus palmatus (ルブス パルマートゥス)といいます。 ルブスは「赤い」(*)、パルマートゥス は「手のひらの形をした」 という意味ですが、これは、 キイチゴの仲間は実が赤いのが多く、葉が手のひら状をしているからです。(ただし、このモミジイチゴは実は黄色です。) これは、ラテン語の ruber  (ルベル 赤い)という言葉に由来します。
 
*)なお、このラテン語から、ルビー(紅玉)という宝石の名前も派生しています。

 この写真は、わが家の近くの山間の谷間にひっそりと咲いていたもので、ほとんど誰も見るものもいないところで、このような美しい花を見出すと、天来の贈り物という気がします。
 
このような自然の清さに触れるとき、人間の持つ清らかさというのは、まるで色あせてくるように思われます。それは、当然のことで、この自然の白い花は、神ご自身の清さを直接的に映し出しているからです。
 
神の国とはどのようなところなのか、そうした一端をかいま見させてくれるものとなっています。
 
(文・写真ともに、T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 128   2005.3.21
/image002.gif「荒れ野に川を」
(旧約聖書 イザヤ書431819

過ぎ去ったことを忘れよ。過去のことを考えるな。
見よ、私は新しいことをなす! 今やそれは起こるのだ。
あなた方はそれに気付かないのか。 私は、砂漠に道を造り、荒れ野に川を流れさせる。

Forget the former things; do not dwell on the past.
Look, I am doing a new thing ! Now it springs up; do you not perceive it?
I am making a way in the desert and streams in the wasteland.


聖書のメッセージで、とりわけ重要な内容の一つは、この聖句にあるように、常に未来を見つめるということである。しかもその内容は、起こるはずもないことを、夢のように思い描いているとか、漠然と期待しているとかではない。過去、現在、そして将来をもすべてその御手のうちにおさめておられる万能の神がなされることであるから、神の言われる「新しいこと」は、必ずなし遂げられると信じることができる。過去がどんなに重く、また苦い想い出であっても、そしてそれらが時として私たちの前途を暗くするようなものであっても、なお、それらすべてを超えて、神は新しいことをなすことができる。神は人間のあらゆる考えや悪を超えた存在であられるからである。
現代のこのさまざまの問題に満ち、混乱した世の中をみるとき、過去、現在は荒れ野であり、どこにも道がないように見えるかも知れない。
しかし、神は、私たちの前途に、水をもたらし、うるおいを与え、新しい道を開くことができるお方である。 それは私たち一人一人をとって考えても、確実に生じる。キリストの十字架の死が私たちの罪を取り去り、清めて下さることであったと信じるとき、私たちの本質は、新しくなる。 そして心のうちに、天からのうるおいが与えられるようになる。
今日の言葉で言われている、「新しいこと」、それは罪赦された人にはみんな生じることである。
そして更に、その「新しいこと」のうち、最も重要なことは、私たちの前途が単なる死でなく、復活の新しいからだ、霊的なからだを与えられることだと言えよう。


タチツボスミレ

タチツボスミレ  徳島県小松島市 日峰山2005.3.23
春の花、それはいろいろありますが、スミレはその典型的なものの一つです。
ここにあげたスミレは、山で最も多く群生しているのがみられるタチツボスミレです。
これは、まだ花が咲いていなくても、櫛状になった托葉(*)が見られるのですぐに見分けがつきます。

*)托葉とは、葉の付け根にある普通葉の葉柄の基部にある葉片。

・山路来て何やらゆかしすみれ草この芭蕉の有名な俳句も、昔から、スミレが私たちに呼びかけ、語りかけるように感じられる存在であったのを感じさせます。
この5枚の花びらの下を向いている一枚には、特に花びらの付け根のところがうっすらと白く、さらにそこに、網のような模様がかけられていて、あたかも花びらの中心部から水が流れ出ているように見えます。
このような細かな装飾とその柔らかな美しい色合いは、私たちに語りかけようとされる神のお心が反映されているように感じます。
このような白い部分とか模様がなくとも、このスミレが生きていくためには何ら差し支えがないはずのものです。こうしたことは花びらの形、葉のぎざぎざの部分(鋸歯)、茎や葉の小さな毛の有無やその色や大きさ、太さなどなど数えきれない特徴についても言えることです。それらの特徴は、単にその植物が生きていくためだけでない何か別の目的があることを暗示するものです
そのような目的の一つとして考えられるのは、神が一つ一つの独自性を重んじ、それを強調しようとされているのではないかということです。
人間も一人一人が同様に他にはどこにもない個性を与えられて創造されているのを思うのです。
主イエスが野の花を見よ、と言われたり、私たちの頭の髪の毛一つ一つが数えられ、スズメの一羽ですらも無意味に死んだりしない、と言われたのも、神がいかなる人間も自然のものもみんな神の深い御計画のうちに置かれているということを言おうとされたわけです。
(文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 127   2005.3.11
/image002.gif「心を一つにして」

(マタイ福音書181920

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、
わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 

In truth I tell you once again, if two of you on earth agree to ask anything at all, it will be granted to you by my Father in heaven.

For where two or three come together in my name, I am there among them

 

 「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、有名であるが、本当にこの主イエスの言葉、約束の意味が分かっている人は少ないと思われる。
 
だれに求めるのか、また何が与えられるのか、ということがはっきりしないという人がいるし、またどのようにして求めるのか、ということについても同様である。
ここで引用した聖書の言葉は、二人が心を一つにして、一致して祈り求めるとき、与えられるという。また、二人、三人がイエスの名によって集まる、すなわち、共にイエスを信じ、イエスを共に見つめて集まるとき、またイエスが招いて下さったと信じて集まるとき、そこにキリストはいて下さるという。
 
ここに、信じる人たちの共同体の重要性がある。祈りはもちろん一人でなすことが多い。またつねに他者と共にいることはできない。一人で獄に入れられることもあるし、ともに集まることのできない状況もしばしばあるだろう。
 
しかし、もし私たちが共に集まることができるなら、そのとき、たしかにキリストはその集まりを祝福し、そのただ中にいて下さる。そして力を与え、聖霊を与えて下さる。
 
その集まりは、何十人とか何百人といった多数である必要はない。主を見つめつつ、心を一つにして集まるなら、たった二人でも三人でも、神のその集まりを祝福され、そこにいて下さり、その数人に恵みを与えられるのである。
 
人間は大きなものを求める。大きな組織や資本を持つもの(大会社)、大きな力を持つ選手、スター、車、家等々である。しかし、神は目立たない小さきもの、そしてそこに心をひとつにする真実さを愛される。
 
こうした主イエスの言葉を思うとき、私たちが出会うときには、主がそこにいて下さることを思い、共に祈り願う心をつねに持っていたいと思う。そして別れるときにも祈りをもってするならば一層の祝福が与えられると言えよう。


トサミズキの写真および拡大ページへのリンク

トサミズキ (マンサク科)                   わが家の庭にて       2005.3.11

 
春を真っ先に告げるように咲くので、今頃にはことに心に残る樹木の花です。一つの花の房に七~八個の花がついて、穂のようになり、垂れ下がって咲きます。これは自生しているものが、高知県の一部に見られるのでこのような名前になっています。
 
山で一番早く、2月ころから咲き始めるのは、マンサクです。私はかつて京都北山を歩いたとき、まだ木々の芽も出ていない春先に、その花があちこちに静かに咲いているのに出会ってとても印象的でした。
 
このトサミズキも、マンサク科の植物で、色もともに黄色です。ほかにレンギョウ、オウバイ、サンシュユなど早春に花を咲かせるものには黄色い花が多く見られます。

土佐ミズキ サンシュユも咲きて 黄を競う    (水原秋桜子)

 
梅やスイセン、そしてこのトサミズキのように、寒いころ、あるいは春先に咲かせる花は、春を待ち望む心を表しているとともに、厳しい寒さを超えてようやく暖かい春が来た喜びをも感じさせてくれます。
 
こうした到来の喜びというのは、聖書においても、主イエスが来られた喜びというかたちで強調されています。暗く、厳しい状況に置かれていた人の心に、ようやく神の愛の日差しを感じるようになった、それがキリストの到来を喜ぶ人の心だったのです。
 
そして今日でも、さまざまの苦しみや問題によって、寒さのために芽も出すことができない植物のように動きがとれなくなっている方々はたくさんいます。そうした人の心に、神の国からの春を告げる日が射してくることを待ち望みます。
   (文・写真ともに T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 126 2005.3.1
/image002.gif「疲れた魂を潤し」
(エレレミヤ書3125

わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

I will refresh the weary and satisfy the faint.

 

 これは短い聖句であるが、聖書が私たちに何を与えようとしているかを明確に述べている。人間は、どんなに自分の力でやっていくなどと思っていても、必ずそのような自分の意志や決心がいかにもろいか、自分でも分かっていないほどに崩れてしまいやすい存在であるかが、そのうちに思い知らされる。
 
この世に生きるということは、たえず「疲れ」、そして「衰え」、弱っていくことなのである。
それを紛らわすためにさまざまの娯楽がある。そうした気晴らしは一時的には弱さや疲れた心を忘れることができよう。しかし、その娯楽や気晴らしが終わったときには何の力にもなっていないことを知らされる。
 
正しいものが圧迫され、不正な者が力を得ている。そして弱い者が苦しめられている。そのような事実に繰り返し直面させられるとき、私たちのうちから、正しいことや真実なものへの気力が消え失せていくようなことにもなる。
 
そのようなただなかで、神は、弱く、悲しむ者の心に潤いを与え、さらに力を与えて立ち上がることができるようにされる。
 
死んだと思われた少女に対する、「タリタ・クミ!」 という、主イエスの言葉も「娘よ、起きなさい!」という力ある呼びかけであったが、これはあらゆる弱っていて、立ち上がれないでいる人たちへの言葉なのである。(マルコ福音書541
 
さらに主イエスは、「悲しむ者は幸いだ。彼らは慰められるから。」と言われた。
パウロもまた、「私は弱い時こそ、強い」と言った。神の力は、自分の弱さを深く知って、神にその力を求めるようにと導かれる。
 
人間はたえず転がり落ちようとする石のようなものだ。
 
それを支え、力を与えて、とどまり、御国に向かって上っていくようにする何かがどうしても必要となる。
聖書はそのような人間の魂の深い要求に答えてくれるのである。


ツバキの写真および拡大ページへのリンク

ツバキ              わが家にて       2005.3.2 撮影

冬の樹木の花と言えば、ツバキはとても親しいものです。冬の寒さから身を守ろうとするかのように、厚い葉と花びらが、特徴的です。ツバキという名前も、アツバキ(厚い葉の木 の意)とか、ツヤバキ(つやのある葉の木 の意)から作られたと考えられています。なお、他のツバキの仲間と区別するために、ヤブツバキとかヤマツバキという名も用いられます。
 
私はこどものころ、家の下の方にある古いツバキの木に上ってよく遊んだものです。あれから何十年も経ったけれども、そのときからほとんど成長もしていないのがわかります。樹木には、クスノキ、スギ、マツ、ブナの木のように数十メートルにも及ぶ大木もあれば、ツバキのように、ふつうは6~7メートル程度しかのびないのもあります。
 
ツバキの花の奥には、甘い蜜があります。蝶や、蜂などの昆虫がいない冬であるゆえに、小鳥たちによって受粉してもらうのに都合のよいように、たくさんの蜜があります。
 
英語名を、Japanese rose(日本のバラ)と言います。
 
ツバキは、寒さ厳しいなかに、他の木々の花に先駆けて明るい大きな花を咲かせて春をつげるので、古くは神聖な花だとされ、春を告げる木、という意味で「椿」という漢字が日本で作られたということです。
 
このツバキの実から採取される椿油は、頭髪用だけでなく、薬用、食用、潤滑油ともなり、さらにその木そのもの(材)も、長寿の木として大切にされ、美術工芸にも広く用いられたということで、その花のよく鮮やかなことや有用性から、古代からよく知られていた日本の花木の代表的なものと言えます。
 
現代では、ツバキのこうした有用性は忘れられ、単に花だけの樹木と思われていますが、さまざまの用途があるように、神は創造されているのがわかります。
  
(文・写真ともに T.YOSHIMURA


今日のみ言葉 125   2005.216
/image002.gif「御国を下さる」
(ルカ福音書1232

 

ただ、御国を求めよ。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。

恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。

But seek his kingdom, and these things will be given to you as well.
Do not be afraid, little flock, for your Father has been pleased to give you the kingdom.


これは誰にとっても、喜ばしい約束である。「求めよ、さらば与えられん」という有名な言葉があり、これは私も子供のときに聞いていた。 何でも求めても与えられないということは当然のことであるが、それなら何を求めたら与えられると、主イエスは言われたのだろうか。それこそ、ここで言われている「御国」である。まず御国を求めるとき、それは与えられる。
 
しかし、こうしたことは、キリスト者となって聖書に親しむまでは、考えたこともなかった。また、一般的にもなにを求めるべきなのかについては、ほとんど知られていないだろう。

 御国とは、神の国である。それはは神の愛と真実による御支配のうちにあるものをすべて含んでいる。それは、罪の赦し、復活のいのち、清さや真実、喜び、真理への洞察などなどである。
 
神のご意志(みこころ)とは、人間にそのような良きものを与えることなのであるからこそ、私たちが心からそれを求めるときには必ず与えられる。本当にキリストを信じる者たちはいつの時代にも小さな群れである。弱くすぐつぶされそうなものと見える。それゆえに神を信じるものたちであっても、周囲を見れば恐れが生じる。しかし、神はそのような小さき群れを愛し、最も重要なものを下さる。そこにこの世の不思議な本質がある。


雪の中の梅

 雪のなかの梅            わが家にて       2005.2.1朝撮影

 
前回の「今日のみ言葉」で掲載した梅の花が次々と咲いていますが、南国の四国では珍しい雪となり、雪の白のなかに梅の白い花が寒さに負けないという意思表示をしているかのように咲いています。

 ウメは、万葉集の時代から特別に愛されましたが、その後花の王座としての地位はサクラに譲ったと言われます。現在では、花屋さんには多種多様な花がみられるので、ウメの花を王座に据えるような人はごく少ないかと思われます。
 
古代の素朴な感性をもった人たちが、ウメをことのほか愛したというのは、この花に、独特の気品ある色と香りを見出したからだということですが、それだけでなく、やはりこんな雪の降るような厳しい季節に咲き、ほのかな香りを漂わせるという繊細さとともに、力強さを感じるからでもありましょう。
 
一般的には、花は力を感じさせるというよりは、美しさであり、色合い、またその姿、形です。そのようななかにあって、厳しい条件によっても倒されない力をも感じさせてくれるのが梅なのです。
 
雪もほんらいは透明な水粒が凍ったものですが、このように、純白となり、とくに雪の少ないところでは、いろいろのイメージが連想されてきます。聖書においても、つぎのように罪からの清めと関連して用いられています。

・ヒソプ(*)の枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。(詩編519

・たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。
(イザヤ書118

 
確かに雪の白さは私たちに人間の心が神によって清められるならばこのように白くなるのだと、私たちにつよく語りかけているようです。
 
梅の花の白、そして雪の純白とが天の国からの清い音楽のように私たちの心に入ってきます。

*)しそ科の植物。夏から秋にかけて小さな淡紫色のくちびる状の花をつける.


今日のみ言葉 124 2005.1.28

/image002.gif「主の山に備えあり」
(創世記2214

 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。

そこで、人々は今日でも

「主の山に、備えあり」と言っている。


 
So Abraham called that place "The LORD will provide"; as it is said to this day,
 "On the mount of the LORD it shall be provided


 アブラハムには、もう生れないとあきらめていたところにようやく生れた大切な子供がいた。しかし、神からその息子を神にささげるようにと言われたとき、不可解な言葉ではあったが彼は従うことを決意し、翌朝早く起きて三日ほどもかかる遠いところにある、神が示す山へと出発した。息子をささげよ、といわれるのはどういうことなのか、その理由をつかめないままに、神からの答えを切実な思いで待ち望みつつ、息子を連れて旅を続けた。そして目的地の山に着き、いよいよその最愛の息子をささげようとしたとき、ふとかたわらに、神にささげるための羊がいた。最も重要なものすら、神のためにささげようとしたとき、不思議にも必要なものが与えられたのであった。「主は備えられる」、そのことの重要性のゆえに、その場所の地名となったと伝えられている
 
この言葉「主の山に備えあり」は、長い歴史の間に、無数の人たちへの励ましとも導きともなってきた。聖書の記述は、はるか数千年もの昔のことを書いているのでありながら、現代の私たちへの生き生きとした言葉として迫ってくるところに真理であると確信させるものがある。 これは私自身も神の万能と、助けを信じて、重要な決断をしたことが何度かあった。それは、場合によっては困難な状況に巻き込まれることが十分予想されることもあった。そしてたしかに一生の方向に関わるような困難な問題に直面したこともある。

 しかし、この言葉で言われているように、主を信じて歩んでいくとき、必要なものは備えられるということは、驚くべき事実であった。それはたしかに神は生きて働いておられるということを実感させるものである。
「主の山には備えあり」、この言葉を言い換えて、「主の道には備えあり」、あるいは、「御国への道には備えあり」などと言うこともできる。まず自分のしたいこと、安楽なことを求めるのでなく、まず主が求めておられることを知ってその方向に歩むときには、たとえ困難があろうとも、不思議な助けや必要なものが備えられていく。偶然に満ちたように思われるこの世にあって、そのような備えて下さる神がおられることは確かな真理なのである。


ウメ

ウメ                 わが家にて       2005.1.27

 
ウメは古来から広く親しまれています。その花の姿や色、ほのかな香り、そして果実、それぞれが愛され、用いられてきました。他の草木がほとんど、まだ固い芽の状態で、花も咲かせることができない寒いただなかにこのような美しい花を咲かせることのなかに、自然の多様性を感じさせられます。この写真にあるように、梅の花の美しさは言うまでもないことですが、つぼみもまた独特の美しさがあります。

 
人間においても、神の霊を受け、いのちの水を受けるなら、次第に花を咲かせていくことができるのがわかります。しかし、まだ花を咲かせるに至らない、つぼみのようなキリスト者であっても、神はまたそれはそれでつぼみらとしての美しさを現して下さるのです。

 
ウメはその花を味わうと共に、クエン酸を多く含む栄養食品でもあり、またおにぎりという日本人に最も親しまれている食品の材料としても親しまれていることから、古代より現代に至るまで老若男女いずれの人たちにも親しまれ、重要視されています。

 
聖書の書かれた地域では、やはり冬に、梅によく似た花を咲かせる樹木として、アーモンドがあります。私も以前にシナイ半島や、イスラエルを訪れたとき、その白い花のアーモンドの花を見たのを覚えています。聖書では、このアーモンドが、他の樹木がみんな眠っているようなときにはやくも目覚め、白い花を咲かせているので、その様子は、神がこの世を見張っていることを連想させ、この世を見つめる神の深いまなざしを象徴的に示しているとして取り上げられています。(エレミヤ書1:11-12
 
私たちもまた、この世が正しい歩みをしているかどうか、神の言葉がいかになし遂げられているのかといったことについて、つねに心の目を開いているようにとうながされるのです。主イエスも、「目を覚ましていなさい!」と繰り返し強調されたのもこのような意味からです。


今日のみ言葉 123 (2005年1月8日)
/image002.gif「日々あらたに」
(Ⅱコリント4:1617

だから、わたしたちは落胆しない。

たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。
わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる。

Therefore we do not lose heart.

Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day.

For this slight momentary affliction is preparing us for an eternal weight of glory beyond all measure.


この世には、落胆させられるようなこと、希望や期待とは全く異なるような悲しむべきことが生じる。自分自身の性格や能力、周囲の人間の言動、あるいは世の中に生じるさまざまの出来事など、また信頼していた人に裏切られるなど、また自分自身が年をとっていくにつれて、次第に体力も失われ、仕事もできなくなり、親しい人もいなくなって心に力が抜けていくということが多くなりがちである。 

 このような、心の気力を失うようなただなかにあって、もし私たちの魂がキリストとしっかりと結びついているときには、日々新たな力を与えられるし、古き自分がさらに清められ、強められていくということをこの言葉は述べている。

 しかし、私たちが、落胆させるような出来事に打ち負かされるとき、私たちはもう生きることに深い喜びを感じなくなって、日々が新鮮ではなくなってしまう。

 先頃、インド洋沿岸に大きな波が押し寄せて、建物を破壊し、人々は波に呑まれていった。しかし、霊的にみるとき、この世の大波にのみこまれていくことは絶えず起こっていることである。何が本当に正しいことか生きる道はどこなのか分からなくなってしまい闇のなかであえぎ苦しむ人々も実に多い。自らの命を断つ人たちが日本で年間で3万人を越えていること、さまざまの犯罪や、国家間の戦争やテロなども、人々がそうした波に呑み込まれていったゆえに生じているといえよう。

 そのような現実のなかで、いかなることが起こっても落胆しないような力、日々新たな前進と成長がなされるような力が与えられるという約束は何と喜ばしいことであろうか。そして最終的には、現在の私たちが直面している苦しみや重荷が除きさられて、神が持っておられるような永遠の命にあふれさせて下さるのである。ただ幼な子のような心をもって主を仰ぎ、求めていくだけでそのような新しいところへと導かれる。


リュウノヒゲ(ジャノヒゲ)

リュウノヒゲ(ジャノヒゲ)    徳島県小松島市日峰山      2005.1.6

 

  この美しいブルーの種をつける植物は、その葉が、幅は数ミリと細く、長さは1020cm であるために、ジャノヒゲ(蛇のヒゲ)とか、リュウノヒゲという名前がついています。しかし、その名のイメージとは異なって、冬のさなかであっても、このような目の覚めるような青い色の種をその草陰に保っています。これは実のようにみえますが、種皮が脱落した種なのです。

 この植物は樹林帯の下草として目立たずにひっそりと育ち、この青色の宝石のような種も、繁った葉に隠れていることが多く、葉のなかにあるのを探して見つかることもあります。そのような目立たないものなので、実際に見たことがある人は最近では少ないと思われます。そのように控えめであるゆえに、この植物の種の美しさがいっそう感じられるのです。

 青い色は、澄み切った大空の色、そして深い海の色。私たちの目にするもので最も広大な天と、海がともに青い色であることは、暗示的です。これらは、その広大さのゆえに、地上ではどこにいても双方またはそのいずれかを目にすることができます。

 神はこの二つのものによって、私たちの狭くて汚れた心を、ご自分の広大で深いお心へと呼び寄せようとしているのです。

 この植物はしずかな樹林帯の下草にその青い色を秘めて私たちの注目を待っているかのようです。