今日のみことば |
今日のみ言葉 284 「暗闇に住む民を大きな光を」
2018.12.10
暗闇に住む民は大いなる光を見、
死の陰の地に住む者に 光が射し込んだ。(マタイ4の16)
The people who live in darkness will see a great light.
On those who live in the dark land of death
the light will shine.
これは、キリストが誕生するより、はるか700年ほども昔に、預言者イザヤが神からの啓示を受けて語った言葉として聖書に記されている。
大いなる光を見たい、これは人間の深い願いであり、魂の要求である。
この世は、病気や死、そして人間同士の争い、憎み、ねたみ、不正…等々で満ちている。それは、人間一人一人の心のなかにその縮図があり、それが拡大してそうした人間社会の問題となっている。
本当の光が見えないーそれゆえに、さまよい、闇のなかを歩くことになり、同じく闇を歩く人間と衝突する。
また、私たちはすべて、死の陰の谷を歩んでいるということができる。その行く手には、必ず死があるから。
それゆえに、死という無限の闇のなかに光を求めるのは本能でもある。
動物には、こうした願いや欲求、さまよう心などはまったくない。未来のことも過去、現在のことについて心配するなどということがないからである。
光はどこにあるのかーそれを求めてあらゆる思想や哲学、芸術、そして学問なども探求している。
しかし、見つからない。青い鳥の物語にあるように、青い鳥ー本当の光を求めてどこまでも探求し続け、山の彼方のへと旅を続けてもーあらゆる可能なことをしつづけてもなお見つからない。涙をもって帰って来た。 しかし、幸いはすぐ近くにあるのを知ったという。
しかし、神に由来する光を知らないならば、本当の幸い、光は、すぐ近くにあるとは到底言えない。
近くには、光とは逆の闇と混乱、また愛なき人間関係があって、逃げ出したいというような気持ちになる人々は何万といういる。それはみずから命を断つ人たちがそのように多く、世界でも有数の自殺大国となっていることからもうかがえる。
だが、本当の光、それはたしかにすぐ近くにある。愛の神は、どこにでもいてくださるからであり、その神を知らされたときに、本当の光を感じる。私自身、かつては 死の陰の谷を歩いていたという感じが思い起こされる。 そこにまぎれもなく、大いなる光、命の光が射してきたゆえに、そのことがこの世に生きるとき最も大切なことだと確信するに至ったのだった。
そして、その光はときに雲がかかり、あるいは見えなくなるように思われることもあるが、ときが過ぎると、きっとその光を再び表してくるような光、永遠の光なのである。
この光こそは、どんな罪深い人間も、また若者や死に至ろうとする重病人も、重い障がいをもった人も、またいっさいの民族や国籍にかかわらず、心から求めるだけで与えられるというのが、聖書が語り続けていることであり、じっさいそうだからこそ、全世界にこの光なるキリストのことが伝えられるに至っている。
そして今もその光は、闇の世に輝き続けている。
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野草と樹木たち コバイケイソウ 秋田駒ヶ岳 2018.7.20
この花は、高さが1メートルほどにもなって花の咲く時期には、離れたところからも目につく花であり、高山ではよく見かける花です。
私はかつて福島県の吾妻連峰の高山にある大きな池を取り巻くように、何年に一度というほどの、この花の大群落があったのを今も思いだします。
それは、真っ白い花が手をあげて、神を賛美しているような姿と周囲の湖のような広い水面と調和していたのです。
この写真は、それと対照的に、緑の満ちあふれる東北の高山にあって、ほとんど見る人もない場所にあってその清楚で美しい姿を見せていました。
秋田駒ヶ岳自体は、高山植物のとくに豊かな山で多くの人々が訪れますが、この花を撮影した地域は、道の一部崩壊のために、下山危険個所となっている道の途中であったため、ほとんどの人は訪れない静かな道だったのです。
人の声や姿もなく、ただ神の直接に創造された白い花が神を賛美しているーという光景に、しばしたたずんでその姿と声なき声に耳を傾けました。
こうした高山の植物は、たしかに、この世の闇とは無縁の神の国の光を感じさせるものです。
人間が植えたのでもなく、人間の考えで美しくしようとしたのでもなく、また人間なら美しく着飾って
人に見てもらおうとするけれども、そうした気配はみじんもなく、ただ、大自然のなかで、静寂のなかでその清さと美とを注ぎだしていたのです。
人間の世界は、昔からどこまでいっても罪深いもの、しかし、こうした自然は、罪なき世界ー神の国を指し示しています。(写真、文ともにT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 283 「あなたの罪を霧のように吹き払った」 2018.10.10
私はあなたの背きを、雲のように
罪を霧のように吹き払った。(イザヤ書44の22)
I have swept away your offenses like a cloud,
your sins like the morning mist.
だれの心の中にも、過去を振り返るとき、さまざまの自分の罪が思い起こされるであろう。
人間は、いかなる能力があり、環境もよく育ちのよい人であっても、その心の中には、真実や愛、あるいは正しい道に反したことが限りなくあると言えよう。
ここでいう罪とは、いわゆる犯罪にあたる罪を言うのでなく、そうした罪も含むが、そのような行動に至る前の心の動きまで含めて言う言葉である。人を殺傷せずとも、憎しみをもつことが、相手を心の中で殺すことであり、重い罪だということになる。
「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人を殺す者である。(Ⅰヨハネ 3:15)
最近のさまざまの災害に対して、単にテレビや新聞のニュースを見て、たいへんなことが起こっていると受けとるだけでは罪になる。そうした事態を見て、直接に何かの援助はできずとも、そのような人たちの苦しみや悲しみを思い、神がそのような苦難に負けないように力を与えてください、とせめて祈る心が起こらないなら、罪なのである。こうした高い基準にあてはめるときには、だれでもみな罪を数限りなく持っているということになる。
聖書の世界は、こうした人間の実体とその弱さや汚れから救う神の愛の双方で満ちている。
このイザヤ書でも2500年以上も昔に、この人間にとっての根本問題が記されている。
すべての人間が持っている正しいあり方からはずれていることー罪からの救いが、このように単純、明解に示されているのは驚くべきことである。
しかもそれが人間の意見とか考えでなく、天地創造をされた神の言葉として言われている。
神のほうから一方的に、「なんじの罪、赦されたり」 との語りかけをしてくださっているというのである。
同じイザヤ書の45の22 において、「あらゆる国の人々よ、私を仰ぎ望め! そうすれば救われる」との神の言葉が記されていて、これは上記の内容と一致する。
この神の言葉は、後のキリストの時代以降においては、キリストの十字架を仰ぎ望め、そうすれば救われる という福音メッセージとなった。
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野草と樹木たち カワラナデシコ 福島県吾妻連峰 2013.7.22撮影
このカワラナデシコは、吾妻連峰(福島県と山形県境にある、標高2000m前後の火山群)の浄土平(標高1600m)へ向う山道で自生していたもの。その名前のように、河原で咲く事もあっても、多くは、こうした山野でみられます。
このカワラナデシコはとくに強い紅色ですが、もっと色の薄いものもあります。
また北海道では、この変種のエゾカワラナデシコが海岸近くで群生しているのを見たことがあります。
山の草深いところを歩いているとき、この美しい花に出会うと思わずほっとするような、喜ばしい気持ちになります。
その繊細な美しい色合いの花びらは、何のためなのだろうかと思わされます。この植物が生きるためだけならその必要はなく、創造の神の内に秘められた美を示すためのものだと感じられるのです。
大多数の野生の草花は、その色や形なども地味なものが多いなかで、このナデシコは、その花の色、花びらの形がとくに引きつけるものがあります。
最近は、このカワラナデシコは、私の住む徳島や、ほかの四国の山々でも見かけることはわずかで、また平地の田畑の付近、あるいは里山のふもとなどでも見かけることがむつかしくなっています。
これは、この花が日当たりのよい地を好むのですが、手入れが十分になされず放置される場所では樹木や背の高い雑草が生い茂ることになり、日当たりが悪くなり、この花が育たなくなるからと考えられます。
私たち人間の心も、愛の神、真実な神という霊的な太陽の光を受けなければ、花開くことが難しいことを思います。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA)
2018.08.10
神が、あなた方に英知と啓示の霊を与え、心の目を開いてくださるように。
(エペソ書1の17~18より)
I pray that the God may give you the Spirit of wisdom and revelation …
I pray also that the eyes of your heart may be enlightened .
使徒の祈りと願いは、キリストを信じる人たちに、英知と啓示の霊ー聖霊が与えられることであった。聖書で言われる英知(ソフィア sophia)とは、この世の知識や賢さと大きく異なる。
それは、何が本当に価値あるものなのか、言い換えれば、何が永遠の真理なのかに関する洞察力である。
この世の知識や賢さは、知的に優れているほど多く持つことができる。大学や独学で多くの書物に学び、各地を旅行、あるいはいろいろな体験によって多くの知識を持つことは、お金も重要で、かつ決断力、実行力といったものがあるほど多くの知識が得られる。
しかし、そうした知識は、心の真実や無差別的な愛、心の清さといったものとは結びつかない。
逆にいかにそうした知識や能力に恵まれていなくとも、心の真実や、清い心、愛といったものは与えられることが可能である。
いかに自分の健康や年齢が変って病弱となり、孤独や不自由が増しても、また社会状況が変わろうとも、なお、変ることなき真実、真理がある。そういったものを知らせるのが、英知であり、啓示の霊(聖霊)である。
そして、そうした目には見えない神からの霊こそは、私たちの霊的な目、心の目を開いてくださる。言い換えると、霊的な目に、神の光が注がれる。
生まれつきの視力がいくらよくとも、霊的視力とは関係がないのは、すぐにわかる。
視力のない全盲の状態であっても、深い洞察力、真理との結びつきをしっかりと持ち続けている方々が存在してきた。
この世界にある数々の美しいものー特別な絶景というものでなくとも、夕焼けや青く澄んだ空、また小さな渓流の静かな美しさ…等々、身近にいくらでもよきもの、美しいものがあり、それらは肉体の目で十分に見ることができる。また、人間の生まれつき与えられている他者を思いやる心や真実を愛する心等々、もわかる。
しかし、心の目が開けるほどに、特別に美しい花でなくとも、小さな葉一枚や道端の地味な野草の花、チョウやバッタなどの昆虫であっても雲の一つ二つを見ても、そこに深い無限の神の御手のわざを感じるようになる。
人間についても、表面的な容姿や若さ、健康美や力といったものがない人に対しても、その魂の美や、輝いているともしび、またそこに宿されている神の力といった目には見えないよきものが見えてくる。
この聖句はそうしたさまざまのことが心の目が開かれることによって見えてくることをはっきりと知った人のものであり、私たちにそうした神のわざが見えるように、そこから私たちを救ってくださった神の大いなる力、英知がいかに大いなるものであるかを知るようにーとの願いが込められている。
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野草と樹木たち ハクサンシャクナゲ 秋田駒ヶ岳 2016.7.22撮影
シャクナゲは徳島県のような暖地においては、山々を歩いていてもなかなか見られない貴重な花だった。
シャクナゲが特別に植栽されている山寺の山域にその花を見るために行ったこともあった。 しかし、秋田駒ヶ岳では、白色や、この写真にあるように、薄い紅色をまとった花びらを持つものなど、登山道でも、数多く見られ、シャクナゲコースといわれる山道さえあるほど。
北国の寒い高山でなにゆえにこのような美しい花が多く咲くのかーとしばしば不思議に思われたことだった。
東北や北海道の高山は、冬季には風雪の厳しい状況となるが、そこに驚くような美しく、清い雰囲気をたたえた花々が多く自生している。
人間が到底生きていくことのできない過酷な環境にあってなお、こうした麗しい花々はたくましくはるかな歳月を生きてきた。
それと 似たことは、人間の精神世界にも感じられる。
ただキリストを信じているだけで、過酷な迫害を受けた人たちが歴史において多数存在してきた。旧約聖書の預言者たち、そして過去二千年の世界の各地での迫害…そして世界の歴史に比類なき影響を与えてきたキリスト、そうした人たちもまた、過酷な状況のただなかにあって、限りなく清い高さと深さを花のように実現し、この世に証ししてきたのだと思わされた。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
2018.07.30
わたしを苦しめられたのは、あなたの真実のゆえです。(詩篇119の75より)
In faithfulness You have afflicted me.
私たちが 生きていく歩みの中で、数々の苦しいこと、なぜこんなことが…と思われるようなことが生じる。
ときにはそうした苦しみが非常な重荷を伴うときには、生きる力をも奪い取り、死へと至ることもある。
病気、家族の重い病気や障がい、あるいは家族という一番身近な者同士での反目、職業における困難、差別、災害、事故、内乱、飢え、迫害…等々、この世界にははるかな昔から、現代に至るまで、いかに科学技術や民主主義、人権意識などの向上や平和への願いがあっても、なお そうしたことからくる苦しみは絶えることがない。
周囲を見てもこんな苦しみに遭っている人は、ほとんどいない、なのになぜ自分が…という思いは そうした状況に置かれた多くの人々が深い魂の疼きとともに生じるであろう。
そして、人間ではどうすることもできないある大きな力ー 運命がそのようにしたのだ、という思いにもつながる。
そうした人生の荒海に呑まれそうになっていく私たちに、ここにあげた聖書の言葉は、呑み込まれないための命綱となる。
それらすべての苦しみは、運命の魔の手によるのでなく、神の真実(*)による、と信じることである。そんなことはあり得ないし、とてものように信じられない、と直ちに反論が出るかもしれない。
しかし、神の示される道は、私たちが理性的に納得できるものばかりでは決してない。いかに考えても不可解、まったくの謎だ、ということはいくらでも生じている。
神の愛や真実がどこになるのか、そんなものはないーと断言する人がおそらくとくに日本では圧倒的多数を占めているだろう。そうした愛の神を信じる人は、わずかに1%程度と、世界的にみても驚くべき少数だからである。
それでもなお、私たちがここにある聖書の言葉を信じていく道は開かれている。
それは、ー数千年を経ても、なおその真理は変わらないし、そこから信仰によってその小道へと入っていく者もまた無数に生じてきた。
狭き門から入れ、といわれているとおりである。 そして、 求めよ、そうすれば、与えられる、苦しみから逃れる路、新たな力が与えられるーという約束を信じて生きる道がだれにでも開かれている。
(*)原文のヘブル語では、エムーナー、ギリシャ語訳ではアレーセイア。 なお「真実」を意味するギリシャ語は、ほかにもピスティス、形容詞形でのピストスがよく用いられている。
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エゾツツジは、こうした荒野のような岩肌と樹木も何もないような二千メートル近い北海道の高山で美しい花を咲かせていて、心惹かれるものがあります。
冬季には氷点下数十度になり、さえぎるものない稜線地帯では、激しい寒風がふきつのり、初夏においてもまだ雪深く、9月にははや雪が降るという厳しい自然のなかに、こうした可憐な美しさ、その鮮やかな色彩をもって存在している姿は、まさに神の国からの力と美を受けとって咲いていると感じます。
このエゾツツジは、樹木の仲間であるけれど、このように高さは20cm前後で、草のようにつつましい姿です。
いかに厳しい環境でも神は花を咲かせる。 それは、人間の世界でもいえることで、経済的にも能力的にも恵まれている人が、心の中まで清く美しいということはなかなか伴わないものです。
かえって、困難な病気や障がい、あるいは家庭的にも恵まれず、苦しいなかで生きてきた方々が、その心の世界に清い花を咲かせている、ということもしばしばです。
そうしたことの中にも、愛の神を感じることができます。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 280 「わたしは常に 主をわたしの前に置く」 2018.06.10
私は常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右におられるゆえ、わたしは動かされることがない。
このゆえに、わたしの心は喜び、わたしの身も安らかである。(詩篇16の8~9より)
I have set the LORD always before me: because he is at my right hand, I shall not be moved.
Therefore my heart delights, My flesh also will rest in hope.
私たちは、日々何を前に置いているだろうか。
小さな子供であれば、母親であり、また少し成長すれば、友だちや遊び、飲食のこと、さらには成績やスポーツの好成績など…
そして社会人になると仕事のこと、上司のこと…等々。そして老年になれば、健康のこと、将来のこと…等々。また、何らかの芸術や製作、研究などに専心している人たちは、その方面のことが常に前に置かれているだろう。
しかし、重い病気となれば だれでも自分の体の癒しのことが日々忘れることができなくなる。日夜その病気が快方に向うようにとの願いで日々がすぎていくであろう。
そうした状況においても、この聖書に書かれたことー主を常に前に置くーが可能となってきた人たちが数知れずいる。いかなる状況にあっても、神のことを前におくー神のことを思うということである。
神のことーそれはいろいろな意味を含む。神の全能の力、またその愛、そして清さ、真実…等々、そして最終的にはその愛ゆえに、すべてをよきにしてくださるということ、たとえ死が迫ってきても、その死さえも越えて、神のところに導いてくださる。そしてそこで永遠の平安と、命が与えられる。
そうした希望をいつも前に置く。
最も大切なものーそれゆえに永続するものは、信仰、希望、(神の)愛。(新約聖書Ⅰコリント13の13)
いつも神を前に置くとは、そのようにこの三つをいつも前に置くこと、心の中心に置くことになる。
神は全能であるゆえに、いかなる悪の力にもうち勝ち、死の力にさえも勝利して、信じる者を、神のみもとに復活させてくださる。
そのような思いに導いてくださるゆえに、この詩の作者が告白しているように、根本的には動かされることがない。もちろん弱い人間のことゆえ、一時的には動揺もすることがあるだろう。しかし、そこからまた神を静かに前に置くように導いてくださる。人間の目標とすべきありかたが、このように数千年も昔から、明確に示されていることに驚かされる。
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野草と樹木たち キンバイソウ(金梅草) 伊吹山にて 2017.7.29 撮影
キンバイソウとは、金色に咲く梅のような花ということから名付けられました。この写真は、伊吹山の頂上付近に群生していたものです。
周囲の青くかすんだ山々を見下ろし、雲の海をも眼下にしつつ、山頂部に咲く姿は、草花にはめずらしい力を感じさせるものがあります。
高山に咲く花々は、短い時期に一斉に咲き、概して美しいものが多く、かつ高山ゆえの清澄な大気と、山々を見下ろす高地にあるゆえの、風雨、風雪に耐える力を感じさせ、さらに、その多くは、一部の人たちしか登ることができないゆえに、静けさの中にあり、誰も見るものもないところでも、その美しい姿を表しているところにも心惹かれるものがあります。
伊吹山とは、滋賀県の北部と岐阜県の境にある山で、標高1377m。高さはそれほどでないにもかかわらず、数多くの高山植物とみなされる花々がさいています。
私は、40年以上前に、紀伊半島の大峰山系を南部の熊野の方まで、7月に1週間近くかけて奈良の吉野山から縦走したことがありますが、高山植物と言えるものはほとんどみられず、また全体的に雨の多い森林地帯なので花々はわずかだったのを思いだします。(そのかわり鳥類が多く、コマドリの高いさえずりを初めて聞いたのもこの大峰でした。)
また、鳥取の大山や四国の剣山、石槌山やそれらに通じる縦走路、あるいは九州の山々も、高山植物といえるものは少ないのです。その点から見ても伊吹山は高山植物には、特別に多くの多様性ある植物が自生しています。
樹木や草花は、黙してその力や美を表しつづけています。そして神により創造されたものゆえに、神の無限の英知がそこに宿され、私たちに語りかけています。
静まれ、そして見よ、聞け!…という呼びかけが聞こえてくるようです。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 279 「神は人の歩む道、その一歩一歩を見ておられる」 2018.05.10
神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる。(ヨブ記34の21)
His eyes keep watch on human ways, and he observes every step.
私たち自身のうちに生じる数々の問題、そうした中には、どうして神がおられるのにこんなことが起こるのか、と深刻な疑念にとらわれるようなことがしばしばある。
世の中を見ても、神はどこにおられるのかと思わずにいられないような恐ろしい戦争、自然災害、また人間のテロその他のさまざまの事件…。
にもかかわらず、ここにあげたように、神は私たち一人一人の歩む道を愛をもって見つめ、しかも神の無限に深い御計画をもって最善にされているーと信じる人たちが存在してきた。そしてそのことが魂の深いところで真実であると実感してきた無数の人たちがいるからこそ、こうした言葉が伝えられてきたのである。
その出発点は、信じるということである。まず天地を創造された神がおられる。しかもその神は、無限の愛、真実に満ちた存在であるということを信じることから始まっていく。
この「信」は、私の経験からいえば、まず神から与えられた。大学4年の5月末のころまでは、まったくそのように信じるなど考えたこともなかった。それが突然に一冊の本のわずかな箇所から与えられた。
そしてひとたびそのような信じる世界を知らされた者は、また、自分の方からもさまざまのことに対して、その背後には神がおられるというように信じていこうとする意志が重要になる。 そのように信じた上で、神が生きて働いておられることを示してください、と求めていく。「求めよ、そうすれば与えられる」と言われているとおりである。
「義人は、信仰によって生きる」(旧約聖書 ハバクク書 2:4)という古代の預言者に示された言葉は、現代の複雑な世界においてもそのまま成り立つ。「信なくば立たず」という中国の思想家(孔子)の有名な言葉は、単に政治の世界で成り立つ言葉ではなく、人間同士、そしてその人間を創造された神と人とのあいだにも成り立つ言葉である。
神が人のすべての歩みを見ておられると信じる、しかもそれは愛に満ちた目で見てくださっている、と信じるとき、「神を愛する人たちには、万事が益となるように共にに働く」(ローマの信徒への手紙8の28)ということも真理であるが体得されていく。
また、同時に私たちを悩ませ、世界をも覆っている闇の力も最終的には、神の全能の力によって滅ぼされて、「新しい天と地」(黙示録21の1)とされること、私たち自身も、「キリストの栄光のからだ」と同じような存在にしてくださる(フィリピ書3の21)、ということも信じられるようになる。
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野草と樹木たち チングルマ 大雪山系縦走路にて 2017.7.18 撮影
チングルマは、高山に咲く花として広く知られていますが、この広大な群落に接して目を見張る思いでしたし、いったい誰が、いつ、どのような意図でこのような群落を…と思われたものです。ほとんど誰も人影もない高山にて、無数の花たちが、白い衣を着て賛美をしている姿は、心深くにのこっています。
これは、草のように見えますが、バラ科の小低木で、本州中部以北や北海道の高山では親しまれていますが、さらに北方のサハリン,千島,カムチャツカ,アリューシャンなどにも生育しているということです。 この花が咲いたあとはカザグルマのような形となり、稚児車(ちごぐるま)と言われ、それが チングルマとなったといわれています。
春になってようやく草木の芽も見られ、花々も咲き始めることになれている私たちからみると、寒さの厳しいところでは、美しい花々は見られないと思われがちですが、高山や北方の寒冷地でも多くの花々が短い夏のあいだに一斉に美しい花を咲かせるし、長い寒い氷雪に覆われるときでも生き延びていく強靱な力を与えられているのを感じます。
この写真は大雪山系の縦走路に見られた広大な群落で、 はるかな太古の昔から、大雪山という火山の長い歴史の中から、徐々にこうした植物が生育し、現代に至っているのを思います。
人間、その社会の実態とはおよそ異なる清められた世界を神は私たちにこうした自然の姿をもってさし示しておられます。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 278「神の生きた言葉によって」 2018.4.18
今あなた方は、神の変ることのない、生きた言葉によって新たに生まれた。 (Ⅰペテロ1の33 )
You have been born anew, through the living and abiding word of God.
一般的には、この世に生まれたことを誕生日として祝う。しかし、 単に生まれただけで、もしその生涯が他者に悪をなして、たいへんな苦しみや悲しみを与えるもので終わったなら、生まれないほうがよかったーと思われるであろう。
自らの命を断とうとするほどに 苦しみや嘆きで追い詰められることも数多くある。毎年2万数千人が命を自ら断つほどの苦しみや悲しみに追い詰められている。不審死や自殺未遂の人も含めるなら、この数よりはるかに多くなると言われている。
そこまでいかずとも、何のために生きているのか、生きる目的や意義がわからないで魂の暗夜にて生涯を終えていく場合も数多くあるであろう。死んだら無になるのなら、生きていても無に向っているのだから、空しいーと感じる人も多い。
このようなことからもわかるが、この世に生まれたというだけでは、魂の闇は晴れない。それを本当に晴らしてもらうためには、私たちは再び生まれることが不可欠なのである。
それは、何によってであろうか。 それが、ここで言われている神の言葉によってである。
私自身も、新約聖書の中の短い神の言葉によって、まったくそれまで知らなかった世界を知らされた。闇がこの世を包んでいる。しかしそのただ中に、永遠の光があることを知らされ、新たに生まれたーということを実感を与えられた。
神の言葉ーそれは、今も生きて働いておられる神が直接に私たちに静かな細い声で語りかける言葉であるとともに、それを明確に聞き取った人が書き取った啓示として私たちには聖書が与えられている。聖書は神の言葉の集大成ともいうべきものである。
さらにその神の言葉によって新たに生まれた人の言動によっても、私たちは新たに生まれることへと導かれることもある。
神の言葉は、私たちの想像をはるかに超えた力をもっている。聖書の2千頁にわたる膨大な内容の最初に記されているように、神の言葉こそは、宇宙万物を創造するという力を持っている。
そのような力によって私たちは新たに創り変えられるのである。しかもそのためには、ただ幼な子のような心もて、神を仰ぐ、キリストを仰ぐだけでよいというのが、聖書に記されている喜ばしい知らせー福音である。
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野草と樹木たち ジロボウエンゴサク 徳島県海部郡 2018.4.10
徳島県南部の高知県境に近いところでの、家庭での聖書集会に出向いた帰り、古くからの渓流沿いの山道にて、ジロボウエンゴサクに出会ったのです。
渓谷のせせらぎの音が響くところ、山の斜面のあちこちにこの花が美しいすがたを見せてくれていました。
ジロボウとは、スミレのことをタロボウと言っていたことに対する名前で、エンゴサク(延胡索)とは、この花の仲間の中国名からきているとのことです。
徳島県は人口も74万人ほどと少なく、山地が大部分ですが、そうした山野を歩いてもこの花はどこにでもあるわけでなく、なかなか出会うことは少ないものです。
湿気の多い谷筋、あるいは半日陰の道端などで時折見かけます。
その筒状の花は、青紫の花びらと白い筒状の部分からなっていて、そのやさしい美しさに立ち止まって見入ってしまうものです。
神は、ツバキのような厚い葉と花びらをもった花を創造し、また1ミリにも満たないような小さな花もあり、チューリップのような小さな子供から老人までだれにでも知られ、親しまれる有名な花もあり、そしてこのような、静かな山間の谷間にひっそりと咲く可憐なものもあり、その多種多様さが心に残ります。
それぞれの花が、独自の個性を持ちつつ、神の無限の創造の力、その美、繊細さ、また清らかさ等々を表して私たちに語りかけています。(写真・文ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 277「人を潤す者は、自分も潤される」
2018.3.10
人を潤す者は、自分も潤される。(箴言11の25より )
He that wateres shall be watered also himself.
この世界には、物理の万有引力などの力学的法則やさまざまの化学反応などに見られる法則とともに、精神世界においても法則がある。
聖書とは、そうした法則を一貫して記した書物である。
ここにあげた言葉もそうした精神世界の法則の一つである。
人を潤すーそれはいろいろな意味を含んでいる。貧しい人、食物もないような人たちは以前の日本にはたくさんいたし、現在も世界の国々には多く存在する。そうした人たちに愛の心で何らかの食物などを提供することは、他者を潤すことにつながる。そうした見えるものだけでなく、目に見えない愛や真実といったよきものを他者の魂にものをもたらそうとするときには、その人自身もよきもので潤される。
この箴言の聖句のギリシャ語訳(70人訳)では、「真実な心の人は祝福される」と訳されている。真実な心の人 の原語は、ハプルース haplous であり、真っ直ぐに神に心を向けている人を意味する。英語の simple と同語源。真実とはその心の状態がさまざまのこの世のものに動かされずに、神に向けられているという意味で 単純 な心である。
ギリシャ語文の英訳では、Every sincere soul is blessed.
私たちは自分自身さえなかなか潤すことはできず、心が渇き、悩み、動揺することもしばしばである。
そのような現状をみるときには、他者を潤すなどとてもできないと思う。
それが可能となるのは、私たち自身がまず、あらゆる潤いと祝福の根源である神によって魂が潤され、その潤いを他者に分かつときだけであろう。
そのために、私たちが不完全な人間であるにもかかわらず、他者を少しでも潤すことができる道が開かれている。
それは、神に潤された人たちの書いたよき書物、印刷物を提供することであり、さらには、それもなくとも、できるのは、真実な他者への祈りである。
私たち自身も 十分には潤されていない者であってもなお、こうしたことはできる。他者のことを覚えつつ、他者に神様からの潤いが注がれるようにと祈る。
それは、いま現在の私たちの不十分な存在を自覚しつつもなお可能なことである。
いつも喜べ、いつも感謝せよ と使徒パウロは語りかけている。そのようなことができる心とは、つねに神によって潤されている心だと言えよう。
この世の人がみな、清い潤いの水ーいのちの水の水源である神に結びつくことーそれこそが私たちの共通の目標である。
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野草と樹木たち エゾオヤマリンドウ 大雪山(旭岳) 2017.07.18
リンドウにはいろいろなものがありますが、その深い青紫色に心惹かれるものが多くあります。
私が半世紀以上昔に京都府北部の由良川源流地帯で出会ったリンドウは、一日歩いても誰一人見かけないほどの奥深い山深いところでもあり、年月を経てもその記憶は鮮明に残っています。単に美しい花、というより、魂の深いところにとどまる花でした。
地元徳島県の剣山(標高1955m)の山頂近くなどにも、リンドウは見られ、もっと低い山々でもアサマリンドウといったあまり目立たないものもあり、春にはハルリンドウ、フデリンドウといった春を告げる可憐なもあります。かわったところでは、つる性のツルリンドウなどもあります。
この写真のエゾオヤマリンドウは、大雪山(旭岳)での撮影で、エゾリンドウの高山型とされています。花は、写真のように茎の先だけにつきます。これに対して、山地の湿地に咲くエゾリンドウは、花付きが良く、園芸種の母種になっていて、私たちが花屋で見かけるリンドウの花束は、そのエゾリンドウからつくられたものです。
この写真では、まだ開いていないつぼみですが、その色は濃い青紫色で、何か思い秘めたようなたたずまいです。
じっさい、自然の草木はそれぞれに小さきもの、目立たない花から大きな美しい花、そして低木から大木までそれぞれに、創造者である神様の思いがそこに秘められています。 私たちも、少しでもその無限の神のお心から何かよきものを汲み取ることができればと思います。 (写真・文ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 276 「私は再びあなた方と会う」 2018.2.20
今はあなたがたも、悲しんでいる。
しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 (ヨハネ福音書16の22より)
You now have sorrow; but I will see you again and your heart will rejoice, and your joy no one will take from you.
再び会うーこの単純な言葉には、深い意味が込められている。
愛するものとの離別は、悲しい。ことに、死別は、深い心の空白を残す。
通常は、私たちは、死んだら二度と会えないと思っていることが多い。何らかの会などで、一度会っても二度と会えなかったーということもしばしばある。
しかし、この世で最も重要な永遠の存在であるキリストは、自分が死んでいこうとするときに、ふつうならもう二度と会えないにもかかわらず、「再びあなた方と会うのだ」という驚くべき約束をされた。
そして、じっさいにキリストは復活され、みえる形で弟子たちと再会された。その後は、天に帰られ、聖霊となって弟子たちと再び会うことになった。
もっとも大切なものは、一時的に壊れてしまい、消えてしまったように見えても、滅びることなく再び現れる。
神の本質である愛や、真実、永遠、美などは、悪の力によって弱められ、ときには滅ぼされてしまったように見えても、必ず信じる者は再び出会うことができる。生きている間に会えなくとも、死の後の復活のときに、会うことができる。 それらは不滅だからである。
キリストはすべてをもっておられる。それゆえに、私たちがキリストを内にもっているならば、さまざまの良きものと再び会うことができる。
愛する家族、友人ともいずれ必ず別れねばならない。しかし、キリストと結びついているなら、再び会うことができる。
さらに、世の終わりには、キリストは再び来られると記されている。 どのような形で来られるのかは私たちには、分からない。言葉で表現できるようなことではないからである。
神の愛からは、死やこの世のいかなる力も、私たちを引き離すことはできない、と記されている。(ローマの信徒への手紙8の31~)
言い換えれば、私たちは神とその愛につねに交わり、会うことが与えられており、そこから与えられる喜びはいかなるものも取り去ることはできない。
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野草と樹木たち サラシナショウマ 伊吹山にて 2016.7.30
この植物は、1メートル前後になり、しばしば群生して花の季節には、白い花が林立します。
私が、この花を最初に私が見たのは、地元徳島県の最高峰である剣山の標高1500mから上部の特定の山域においてでした。平地では見たことのない白い花がすらりとした茎を立てて上部に真っ白な花が茎をとりまいて咲いている姿は、一見して忘れることのない植物となったのです。
サラシナ(晒菜)とは、若菜を茹でて晒して山菜としたからであり、根の部分は「升麻」と呼ばれる漢方薬になるとあります。
しかし、そうした利用とはちがって、この花をじっと見つめているだけで、私たちの心の栄養となり、薬となるように感じます。
この写真は伊吹山の、標高1300メートルほどの地点に群生していたもので、遠くを見渡しつつ、澄みきった大気を吸いつつ、遠くの青くかすむ山々や大空と語り合っているかのようです。
このような高い山地にあって、冬の氷点下の厳しい寒さや強風にも耐え、独特の純白な花のつけかたとその姿、まっすぐな花茎、下部の大きな葉…一つ一つが、神の無限の英知から生み出されたものなので、見飽きることがありません。
今日のみ言葉 275「主は、わが牧者。主は 私を緑の牧場に休ませ 憩いのみぎわに導かれる」 2018.1.11
主は、わが牧者、私には何も欠けることがない。
主は私を緑の牧場に休ませ、憩いのみぎわに導き
魂を生き返らせてくださる。(詩篇23篇より)
The Lord is my shepherd, I lack nothing.
He makes me to lie down in green pastures.
He leads me beside the still waters.
詩篇のなかの真珠と言われるこの詩は、大多数のキリスト者にとって、おそらく最も心に響く詩だと思われる。
神が私たちの牧者なら、いっさいは解決するということである。なぜなら、神は全能であり、完全な愛であり、真実な御方であるから。
そのことを詩的に美しく言い表している。
私たちを緑の牧場に休ませるーそれは羊にとって緑の草はいのちを支えるものである。同様に、神は私たちに命のパンというべき神の言葉、聖霊を与えて、深い平安、主の平和をあたえてくださる。
それこそが、いかなることにも増して私たちの魂の平安となる。
さらに、憩いの水際とは、やはり生きるに不可欠の水のあるところに導いてくださるということであり、私たちにとってそれはキリストのいのちの水を与えられることである。
そのようにしていただけるなら、たしかに私たちの魂は、暗い沈んだ方向から方向転換して、生き返る。
これはダビデの詩として伝えられている。ダビデとはキリストよりも千年ほども昔の王であり、今から三千年ほども昔である。そのようなはるかな古代にうたわれた詩が、それ以後数千年にわたって無数の人たちの魂を流れ、うるおしてきたということは驚くべきことである。
詩は多くの国々で、古代からつくられている。
しかし、このような長期にわたってしかも世界で広く愛され、それが単なる言葉の美しさとか特定の状況にある人だけが体験できる内容でなく、ありとあらゆる時代のいかなる状況に置かれた人であっても、この詩篇の真理は、生涯を通してじっさいに体験できるという点において、比類のないものである。
上記に引用した部分に続いて、次の言葉がある。
…死の蔭の谷を行くときも
私は災いを恐れない。
あなたが私とともにいてくださるから…
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野草と樹木たち イブキトラノオ 伊吹山にて 2017.8.28
イブキトラノオは、私の住む徳島県の剣山(1955m)にも見られ、いまから50年ほど昔にのぼったときに、だれもいない高原ですらりと花茎を立てて咲いている姿を初めて目にし、それ以来忘れられない植物です。
最初に伊吹山で見いだされ、またこの山にとくに多いと思われたゆえに、名前にイブキが付いていますが、ほかの山々にもよく見られるものです。
トラオノという名前の植物は、ほかにもいろいろあり、園芸用として親しまれるカクトラノオ(ハナトラノオ)、また山野に見られるオカトラノオ、ルリトラノオ…。
この写真は、滋賀県と岐阜県の境にある伊吹山(1377m)の山頂付近に咲いていたものです。淡いピンクの花があちこちに咲いているのは、カワラナデシコです。
遠くに山々をのぞむ山頂部にあって、澄んだ大気のなか、青いやまなみを展望しつつ、素朴な美しさをもって咲いています。
この花の姿を見ていると、私たちも、さまざまの汚れのある現実の世界だけを見つめるのでなく、つねにこうした 高みに引き上げられ、神の御手による、清くて美しい世界に置かれて、清澄な大気を取り入れつつ、心の目で見つめていなければーと思わされます。 (写真・文ともT.YOSHIMURA)文、写真ともT.YOSHIMURA)