今日のみ言葉
(2004年)
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今日のみ言葉 1222004年12月10日 |
これは著しい困難に直面した人の詩である。この引用した部分以外の箇所で、作者が激しく圧迫され、命を失いかねない状況に置かれていたのがわかる。そうした困難と苦しみのただなかから、この作者は神へのあついまなざしを向ける。襲いかかろうとする敵対者がいるのを感じつつ、そこからまっすぐに神への思いに集中する。それは自らの思いを注ぎだすことであるとともに、また沈黙して神からの直接の励ましの言葉を聞き取ろうとすることでもあった。
そのことは、後半の言葉でうかがえる。
神がこの詩の作者に語りかけたことから、作者は、二つの最も重要なことを聞き取った。それは、力が神のものであること、そして慈しみも神のものであるということである。
私たちは、何を必要としているのか、それはどのような状況にある人であっても要するにこの二つを求めているのである。 生きていくことが難しく感じる、それは困難に耐える力がないからであり、人の根拠のない悪口や中傷に耐えられないのも、それに耐える力がないためである。そのような根拠のないことをいうような人がよき心を持つように変えられますようにと祈るだけの力がないからである。
また、だれもが病気や老齢、死の近づくときに恐れるのもそれをのり超える力がないからである。私たちが間違った考えに惑わされるのも、正しいものを見抜く力がないからであるし、世の中の犯罪や戦争もみんな悪に打ち勝つ力がないから、悪に負けて罪を犯してしまうのである。
人間関係がうまくいかないのもみんな相互に相手を受け入れたり、相手を愛し、その人のために祈る力を持たないことからくる。
神は私たちの魂が一番必要とする「力」を与えて下さるお方である。それだけでなく、宇宙万物を創造し、いまも支配なさっている力をもっておられる。 私たちがいろいろと困難に悩むとき、その困難につぶされないためには、力の根源である神に求めよう。
そしてこの詩の作者はもう一つの神の御性質である、慈しみも示された。単に力というとき、暴力的な力、あるいは権力のようなものも含んでしまう。この世の大きな問題はそうした悪しき力が至るところではびこっているからである。
しかし、神の力はそうした力と全く異なっていてそれは慈しみ(愛)を同時に持っているものである。万能の力がしかも愛を内蔵しているというのである。
私たちは日常生活のなかで目に見えるものにとらわれているときには、そうした聖なる力を見ることができない。この詩の作者のように、沈黙して幼な子のようなまなざしもて神に向かうとき初めてそのような神の御性質が浮かび上がってくる。
ツリガネニンジン 徳島県海部郡 2004.11.23
この野草はとりわけ秋らしい花であり、晩秋のある日に見出したものです。秋には青い空と神の深いお心を思いださせるような青い花がいろいろあります。その中でもリンドウとこのツリガネニンジンの仲間はとくに知られています。
この花はだれにとってもほっとさせるような色合いと姿を持っています。
おそらく遠い昔には、秋になるとこのような野草が野山にたくさん咲き乱れていたであろうし、それによって今日のような娯楽もほとんどなかった一般の人々の心も慰められてきたことだろうと思います。
なお、この花の名は花の形が釣り鐘状であることと、根がチョウセンニンジンに似た太い根を持つことから。
別名トトキとは若芽をいい、食用となります。根は薬草の書物によれば漢方薬として有名で、健胃薬となるとされ、見ても美しく、食べることもでき、かつ薬用にもなるという有用な植物なのです。
この植物は、葉は茎の周りを取り巻くようについたり(輪生)、互いに入れ違いについたり(互生)、あるいは向かい合ってつくもの(対生)などいろいろあり、一見別の種類かと思われるほどです。
まここの花の仲間には、高山に咲くものもあり、剣山にもみられます。
またかつて日本最北の礼文島に訪れたとき、そこでは平地に近いところに、本州の高山に咲くこの仲間(ハクサンシャジン)が咲いていたのが印象的でした。
今日のみ言葉 121 2004年11月13日 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はない。 |
私たちは日々さまざまのものによって悩まされる。それは子どもにも大人にもある。周りの人たちとの人間関係、自分の能力や受験などのこと、また病気や、家族のこと、会社に入ればまた新たな問題、老年になって会社勤めが終わったら今度はまた新たな問題、孤独や病気などが私たちの前途に立ちはだかってくる。
そうしたものが大きい力をもって迫ってくるとき、私たちは希望を持てなくなり、そこから前に進むことができなる。そしてまちがった道を歩み始めることもある。
しかし、ここで引用した聖書の言葉は、もし私たちが神を信じて歩むときには、どのようなものが立ちはだかろうともあたかもそれがないかのように、超えていくことができるということなのである。私たちの前途にはもちろん神を信じる者にもそうでないものにも、さまざまの困難が立ちはだかってくる。それを乗り越え、勝利することができるか、それとも、それに打ち負かされるか、二つに一つなのである。
人間は不幸がつぎつぎと襲ってくるような人、弱い立場にある人に対しては関わりを持とうとしなくなったり、見捨てることもある。どうすることもできない困難な状況に陥っている人のそばには行きたくないという感情が働くことがある。
しかし、神はたとえ私たちがどのような孤独な状況になろうとも、つねに共にいて下さる。聖書は、このさまざまの混乱や不安がある世のにあって、神が私たちに近づき共にいて下さることを一貫して指し示している。どんなに失敗しても、また罪を犯しても、あるいは孤独に追い詰められてもなお、「決して見捨てない、見放さない」という
み声を聞き取るとき、私たちは新しい力を得て、神の国に向かって生きることができる。
ツワブキとアサギマダラ 徳島県小松島市日峰山 (わが家のすぐ近くにて) 2004.10.15
アサギマダラ、それは私にとってはなつかしいチョウである。
今から35年ほども前、四国の石槌山(1982m)から瓶ケ森(かめがもり 1896m)連峰を縦走していたとき、時おりひらひらと、高原の道の花を訪れ、私の目と心を喜ばせてくれたものであった。
その優雅な姿と色、そして独特のゆったりした飛び方はだれもが印象に残るものだと言えるだろう。
とりわけ高い山にあってこのチョウに出会うとき、心がいっそう引き上げられるようであった。
それは、数十年を経てもなお心のなかに残っている。
その後、徳島県の剣山に登ることがしばしばあったが、夏の高山に咲く、美しいナンゴク クガイソウに群れていたり、もっと低い
800mほどの山頂付近のヒヨドリバナにもきていたのを見かけたこともある。
この蝶は平地では見かけたことはないけれども、山の斜面に位置するわが家では時折(1年に一度か二度程度)、渡りの途中の休息を兼ねてであろうか、飛来してくる。
上の写真は、わが家のすぐ上の山で、ちょうど朝日を受けたツワブキの花に来ていたものである。
手で触れることのできるほどの近くに寄っても逃げずにいたので、それを撮影することができたが、このような機会は稀なことだ。
ツワブキの花もわが家の山に自然に群生しているもので、年々少しずつ増えているようである。
樹木や野草が生い茂るなかでこのような大きい花を咲かせるし、海岸植物として、強い潮風に吹かれても晩秋まで、咲き続けるたくましさがこの花にはある。
この和名は,葉に光沢があるのでツヤブキからきたとも、葉が厚いので、厚葉フキからきたともいわれる。
薬用に用いられ、若い茎はフキと同様に食用にもなる。
多くの植物が冬の近づくにつれてその勢いを弱め、枯れていくのも多いなかで、このツワブキは緑の大きく厚い葉を広げ、力強く花茎を伸ばして黄色い花を次々と咲かせていく。その野性的な姿はことに印象的であるし、夕日を浴びるとひときわその黄色が周囲に映える。
アサギマダラは、美しいだけでなく、また驚くほどの長距離を渡って飛んで行く。
その事実はアメリカ大陸でも知られているが、実際に日本でも、2002年11月に愛知県美浜町や和歌山などからしるしをつけて放されたチョウが、そこから1000㎞以上離れた南大東島(沖縄)で捕獲されたり、その後も各地から同様な報告がなされている。
前に立ちはだかるいろいろのものをも翼や羽で軽々と、超えていく小鳥やチョウなどは、私たちにも霊のつばさが与えられたらとの願いをかきたてるものがある。
どんな妨げがあろうとも、それらを神から与えられたつばさで超えていくこと、それこそ聖霊によって導かれるということである。
(文・写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 120 2004年10月18日 |
私たちはさまざまの困難、苦しみや悲しみに出会う。それはこの世にあるかぎり絶えることがない。いまそんな苦しみなどないと言っている人も、突然にして肉親の死や事故、あるいは自分自身の病気や大きな問題に直面したり、将来への深刻な不安に巻き込まれたりする。
そうしたこの世が押し寄せる力にどう対処するのか、それを持っていないときには、酒やこの世の快楽で忘れようとすることになることも多く、そこからまた新たな問題に巻き込まれることが多い。
今から数千年も昔に書かれた、旧約聖書の詩集(詩編)においては、そうした苦しみのときに、いかに神に向かって心を注ぎだし、その苦境から救い出されたかを、詳しく記したものが多く見られる。
この詩もその一つである。ここに引用した前の部分で、この作者は、自分の罪が赦されたところにこそ、深い平安があることを深く知らされる。
そこから、その赦しの経験をもとにしたうえでなされる祈りこそ、そうしたこの世の闇の力に対処する道だというのを自分の経験から証ししている。私たちがそのような祈りをもってするなら、苦しみの押し寄せるときでも、新たな力となり、この世の悪の力が押し寄せても私たちはそれに呑み込まれてしまわない。
そしてさらに救いの喜び、讃美をもって囲んで下さるという。
現代の私たちを取り巻く状況は、新聞やテレビなどで繰り返し報道されているように、暗い重いものが取り囲んでいるように見える。都会では、コンクリートの砂漠であって、人口的な冷たいもの、きらびやかなものが取り囲んでいるし、大気は汚れに満ちている。
また、苦しみや悲しみのときには、この世はまるで悪の世界のように思われることもあり、それが私たちを取り囲んでいるように感じることもあるだろう。
しかし、愛の神、万能の神に心からの祈りをもってすがるとき、いつしか私たちを取り囲むものが、秋の澄んだ大気のような清い神の力、神の御手であることに気付く。
私たちの頭上に広がるさわやかな秋空、その青く澄んだ大空や真っ白い雲などは、私たちを取り囲むものが何であるかを私たちに告げようとしているかのようである。
ホトトギス わが家の庭にて 2004.10.15
この花は、わが家の庭にて半野生状態となってもう長年咲き続けているものです。
このように、石の間から自然に生えてきて 美しい花を咲かせています。この花の名前は、ホトトギスという鳥の名をもらっています。
鳥のなかでも、とりわけ印象的な声で鳴く、ホトトギスの胸毛のまだら模様と似ているためです。
ホトトギスはわが家でも6月ころにその特徴的な強い声で、何かを呼び覚まそうとするような、強い意志を感じさせる声で鳴きますのでその声が聞こえてくると聞き入るものです。
ホトトギスという名前のついた野草は、徳島県の山地では、ヤマジノホトトギスというのが比較的よく見られます。
これは秋のさわやかな山路を歩いていて、ふと見かけることがあると、心がなごみます。そしてその素朴な美しさ、沈黙のゆえにかえって多くのことを語りかけるその姿にしばし見入ったことがしばしばありました。
最近はもう山に歩く機会がなくなっているのですが、かつて見かけたその姿は今も心に刻まれていて、秋の頃になり、わが家でこのホトトギスがみられる頃になると、誰一人いない山道で見かけたヤマジノホトトギスのことや、学生の頃に、由良川源流地帯に数日かかって京都から入ったところで見かけた野生のリンドウたちのすがたを思い出します。
こうした清い美しさは、人間が造り出すことはできないものであって、人が見ていようといまいと関係なく、咲いていて神を讃美しているそのすがたに出会うとき、私たちの心に特別な印象を残すものです。
なお、ホトトギスの仲間は、ここに触れたもの以外にヤマホトトギス、キバナノホトトギスなど10数種があります。 (文・写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 119 2004年9月1日 (ヨハネ福音書16:33) あなた方はこの世では苦しみがある。 In the world you will have hardship, |
最後の晩餐として有名な食事のとき、主イエスが弟子にさまざまの重要な教えを与えたが、その教えはこの言葉で終わっている。だれでもこれが最後だとはっきり分かっていたらその人の魂の最も深いところから語ろうとするであろう。主イエスも同様である。
主は数々の教えを与え、実際に行動によっても示してこられた。最後の夕食においても以後2000年を経てもつねに新しく迫ってくるみ言葉を与えられた。それらすべては一体何のためであったか、それは主にある平安を与えるためであった。それは人間が生まれつき持っているものでなく、神から与えられる特別なものであって、それゆえ「主の平安(平和)」と言われる。
私たちの心が他人を赦せないとか、競争心や敵対する心でいっぱいであれば、心は平安ではありえない。悪の力に引っ張られているときには、心の平和はない。
それゆえ主イエスは、私たちが主の平安を与えられるためには、まず私たちの魂の内に宿る悪そのものへの勝利が不可欠であることを知っておられた。主は全面的な戦いにすでに勝利していることを実感されていたのである。
悪に対する勝利のあるところ、自ずから平安が湧いてくる。私たち人間は自分の力や意志の力で悪そのものに勝利することなど到底できない。だからこそ、主イエスが地上に来られて悪に対する勝利をなし遂げて下さったのであった。
そのことを信じるだけで、不思議な力が与えられ、周囲の悪がいかようであれ、その悪に染まらず、その魂に平和がにじんでくる。そして魂の一点に光がともされる。その平和こそ、神の国から与えられたものである。
世の中にかくもはんらんする悪に対して、すでにキリストは勝利されている、そしてそのキリストを信じるときには弱い私たちであるにもかかわらず、同様に悪に対する勝利を与えられ、神の国の平安をいただけるということは何と幸いなことであろう。
ゲンノショウコ 徳島県小松島市 2004.9.24 後ろの黄色の花はダイコンソウ。
これは数多い薬草の中でも、最もよく一般の人にも知られ、用いられてきたものと言われています。実物が咲いているのを見たことがない人でも、名前は聞いたことがあるという人は多いはずです。
薬用植物辞典によれば、「古来、整腸剤としてその効果は実に理想的といっても過言でない。腹痛、胃痛、急性腸炎などに効果あり、胃の弱い人にも常用すると最も適当」などと記されています。効果がすぐに「証拠として現われる」ことから、ゲン(現)ノ
ショウコという名がついているし、「医者いらず」という別名もあるほどです。
なお、この植物の学名に、Geranium (ゲラニウム)という語が含まれています。
(*)これはギリシャ語で、ゲラノス geranos と書き、「鶴」という意味で、花の終わったあとの実が、鶴のくちばしのような形だからです。 花屋さんでたいてい見られるし多くの家庭でもジェラニウムとして知られている花はこれと同じ仲間です。
この植物は野生でかなり高い山から平地にも見られます。わが家には野生化してずっと以前から咲いています。剣山付近の赤い花のゲンノショウコや印象的で、神戸の六甲山でもやはりその赤い花が美しい姿をみせているのに出会ったことがあります。
そしてこの仲間は、これより花も大きくて、美しいものもあります。徳島県の山好きな人ならたいてい知っているのは、四国第二の高峰である、剣山付近の高山によく見られる、シコクフウロです。7月~8月に剣山に登ると、標高1500メートル以上の付近ではシコクフウロが多く見られ、サラシナショウマやオタカラコウ、レイジンソウなどと共に、剣山のお花畑でよく目立つものです。
植物はその花が美しく、またケヤキやスギ、マツなど大木となると、樹木の形自体が力強く美しいのもあり、また食べて食物となり、また香りもあったり、葉の色も心を安らわせ、酸素を生み出し、さらにしばしばこのゲンノショウコのように薬用にもなります。そのうえ、強い風のときには、心を引き締めるような重厚な音楽を奏でてくれます。先日の台風のときに裏山に登ったとき、山全体の木々が壮大な音楽を奏でて圧倒的な力で私に迫ってきて、神の力の果てしないことを実感させてくれました。植物は沈黙を保ちつつもこのように実に多様な働きをもっているのは、神の手作りの作品で、そこに無限の内容がこめられているからです。
(*)学名とは、ラテン語を主として用いたもので、世界共通の名で、属名と種小名、命名者からなっています。ゲンノショウコの学名は、Geranium thunbergiiSIEB.et.ZUCC で、Geranium が属名です。
なお、ゲンノショウコというのは、学名でなく、標準和名といいます。
今日のみ言葉 118 2004年9月16日 主を信頼せよ 主を信頼せよ、そうすれば必ずむくわれる。
Trust in him, and he will help you; make your ways straight, and hope in
him. You who fear the Lord, trust in him, and your reward will not be lost. |
ここには、私たちがともすれば、唯一の神への信頼を忘れ、人間的なものにすがってしまう心への力強い励ましがある。私たちは弱いものであって、心を引き締めていなければ間違った方向にさまよっていくことは誰でもある。たえずこうした神からの警告や励ましによって、神の国へのまっすぐな道を歩き続けていくように導かれる必要がある。
ここで言われている、「歩む道をひとすじにして…」ということは、神を見つめ、罪犯せばその赦しを乞いつつ、神に信頼して歩むことである。
私たちが弱く、罪を犯す存在だからこそ、神からの憐れみがどうしても必要になる。罪の赦しとは神の憐れみを受けることにほかならない。
主イエスはこのような歩みを、「狭き門から入れ、滅びに至る門は広くその道も広く、そこから入るものが多い。しかし命に通じる門は狭く、その道は細い。」と言われた。
たしかに、信仰の道は細い道ではあるが、そこを歩き続けるときには、次第に奥はひろく、またうるおいも伴う道だということも分かってくる。そしてその道の行く手には、消えることなき光があること、そして、最後には天の国の賜物が与えられるという約束が確かなものだと実感されてくる。
センニンソウ 徳島県小松島市日峰山
2004.9.15
これは、夏に緑一色の山にときどき真っ白い花がみえますがそれがこのセンニンソウです。つる性植物なので、草や樹木に巻きついて登っていくので、木々の上のほうでこの白い花が遠くからもみえることがあります。
この「今日のみ言葉」を書いている日に撮影したものです。白い十字架状の花が、印象的です。
センニンソウは、学名を クレマチス テルニフローラ Clematis terniflora といいます。この名前でわかりますが、クレマチスといわれるものの仲間です。
クレマチスという属名(*)は、ギリシャ語のクレーマ(klema)という言葉から作られていて、このクレーマとは、「枝、巻いたつる」という意味をもっています。主イエスが、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなさい。」(ヨハネ福音書15章)と言われた、その「枝」という原語は、このクレーマなのです。
そのため、このセンニンソウという野草は、キリストの清めの純白と、私たちを罪の力から解放して下さったキリストの十字架と、さらにイエスの有名な言葉をも思い起こさせるものとなっています。
(*)学名は、ラテン語で書かれており、属名と種小名の二つの部分から成っています。前の方が属名で、この場合はクレマチスというのが属名です。なお、センニンソウのような図鑑に掲載されている名前を、学名と誤って思っている人があります。これは、学名でなく、標準和名といってカナで書くようになっています。 (文・写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 117 2004年9月1日
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 |
人間関係において、なにが根本問題かというと、互いに相手のまちがったところ、過失などを赦そうとしないことである。
自分に対して何かよくないことを言ったとか、されたということがずっと心に残って、心の溝が互いの間に生じる。そしてそれがひどくなると相手に対して敵意や憎しみが生じる。
小学生が同級生に対して命を奪うなど新聞で報道されるような事件も、もとはといえば、他人の言動を赦せないということが原因となっている。
こうした日常的に生じることから、国家間の戦争やテロも、やはりこの相手を赦せないという心が背後にある。
アメリカがアフガンやイラクへの攻撃をはじめて世界がいっそう不安定となったのも、同様である。
このように個人的なことから社会的、国家的な問題までその奥底に「赦せない」という感情が働いているために、聖書ではその根本問題を、いかにして解決するのかが示されている。
そのために、まず一人一人が自分の罪を赦されたという深い実感が与えられる必要がある。
神から自分の罪が赦されたときに初めて神の愛がわかり、そこから他者をも赦そうという気持ちが生じるからである。
キリストが十字架にかかって命を捧げられたのもそのためであった。そのことを信じて、実際に罪の赦しを受けるとき、そこから上の聖句にあるように、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにせよ」ということが少しずつでも実行できるようになる。
赦す心とは、単に忘れることでなく、相手の過失や罪が神によってぬぐわれ、そのような悪の心が取り去られるようにとの祈りの心である。
ここで、「愛はすべてを完全にするきずなである」とか、主イエスが、「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と言われたのも、そうした意味があり、自分に悪いことをするものを、ふつうの意味で好きになれといっているのでなく、そうした人間の罪を赦し、さらによき心となるように祈れということである。
人の罪を赦せない私たちの狭い心が主の導きによってこうした広い心に導かれたいと思う。
マントカラカサタケ 徳島県小松島市日峰山 2004.8.20
これは、わが家の裏山にある小さい谷に沿った道で見られたものです。竹林が隣接しているので、その葉があたかも敷きつめたように道を覆っています。その中からこのような興味深い姿をしたキノコが生えていました。
このキノコはカラカサタケに似ていて、柄の上部には、写真でもわかるように、目立ったつばがあり、マントのようだということで、このキノコの名前になっています。傘の大きさは15センチ内外、柄の高さは15~30センチの大型のキノコです。(なお、これはカラカサタケとごく近い種類で食用と書いてある書物と不明と書いてあるのがあります。)
キノコの類は、椎茸などの店で売っているもの以外では、野生のキノコについては、毒キノコがあるからというので触れたこともない、観察したこともないという人が多いようです。しかし、キノコ類は、その外観、色、香り、そして味や、毒性なども独特なものが多く、ふつうの植物とちがっていて興味深いものです。
そのため、昔からいろいろの民族で注目を浴びてきたし、食用ともなったりするので、普通の植物とまたちがった印象を与えてきました。
土の中の養分を取り入れて、このような特異なすがたを現すキノコは、神の創造のわざのふしぎを感じさせるものです。
今日のみ言葉 1176 2004年8月21日 the skies proclaim the work of his hands |
この詩の作者は、太陽や夜空に輝く星や月などのなかに、神の栄光が現れていることを深く知っていし、青く澄んだ大空そのものや空に輝く白い雲、夕日に燃える赤い雲、さらには嵐や稲妻などの空に現れる現象など、それらすべては神の御手の業(わざ)であることを、実感していた。
自然の美しさや繊細さ、またその力強さなどは多くの民族によって感じられてきた。しかし、この詩の作者は、自然を創造した神が、唯一の神であり、しかも単に創造しただけの神でなく、真実に富み、人間の最も深い問題である心の汚れ、罪を赦し、人間に生きた指針を与え導く神であることを深く知っていた。
それはこの詩の後半にある次ぎのような言葉が示している。
知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうか私を清めてください。…
主よ、わが岩、私のあがない主よ。
このことは、現在でも同様であって、たいていの人は自然の美しさに感動するであろう。しかし、その自然の背後に、愛の神の御手を感じることがどれほどあるだろうか。
私たちの心の深いところで起きる罪を赦し、苦しみや悲しみにあるときに、見えざる御手をもって力づけ、立ち上がらせて下さる神が、大空を創造し、星々をも夜空にちりばめ、太陽の絶大な光や熱をも注いでいるのである。
私たちも、大空の青い広がり、燃える夕日、あるいは力づよい積乱雲のむくむくと立ち上る姿を見て、あるいは、身近な草木のすがたや野草の花の美しさに接して、そこに神の万能とともにその力をもって、私たちの罪をも赦し、導いて下さる愛の神を思い起こすことができるようでありたい。
ツルボ (ユリ科) 徳島県小松島市日峰山 2004.8.20
この花はちょうど咲き始めたばかりです。野山の所々に見出される可憐な野草です。
球根(鱗茎)は長さ2~3cm。20~30cm位の花茎(かけい)の先に長さ4~7cmの花序(かじょ、花をつけた茎のこと)をつけます。
薄紫色の花がこの写真のように、控えめに咲く様子は心惹かれるものがあります。
上に述べた詩編19編にあるように、この野草の美しさ、小さな花びらの中に私たちへのメッセージがこめられており、人間以外の動物には感じられない美を私たちに向けて創造してくださった、神の私たちへの愛が感じられます。
今日のみ言葉 115 2004年7月31日 (詩編73:23~24)
I am always with you; you hold me by my right hand. you will guide me with advice, and afterwards you will take me into glory. |
神が、私の右の手をとって下さる、そして深いご計画にしたがって、また私たちに絶えず必要な言葉をもって、私たちを導いて下さる。 そのような神をもっていることはなんと幸いなことだろう。
主イエスは、「よく聞きなさい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。(ルカ18:17)と言われた。私たちもいわば幼な子のような心をもって、主に委ねるとき、神は私たちを母親がこどもを手を取って導くように、私たちの右手を取って神の国へと導いて下さる。
私たち自身の心や考えなどは、実にうつろいやすい。いくらある決心をしたと思っていても、事故や病気、または周囲の人間の言動によって大きく変わってしまうことも多い。
それゆえにこの詩を作った人は、導いて下さる神がおられるからこそ、私たちが神のそば近くにいることができるのだと言っている。 何が近くにいてくれるといっても、それらあらゆるものを創造した神がそばでいて下さることより素晴らしいことはない。
私たちの生きていく道は自分の考えや他人の考えでどうにもならないことが多い。だれも病気や事故、あるいは様々の悩みなどに会いたくはない。しかし、そのような苦しみは自分の思いを超えたところから降りかかってくるのである。そのような苦しみや悲しみのゆえの涙を流すことをも経験しつつ、私たちは神によって導かれていくことの深い意味を知らされていく。
そして最終的には、私たちは死を超えた永遠の命を与えられ、神の国へと導かれていく。
信仰の生活とは、たんにある箇条書きしたようなものを、機械的に暗記することでなく、この詩の作者のように、生きた神の御手を感じ、その御手によってこの世の嵐吹きつのる状況から導かれていくことなのである。
ダイコンソウ (バラ科) 徳島県小松島市日峰山 2004.7.20
この花は、初夏から7月も終わりに近づいた現在に至るまでずっと咲き続けています。山道などで時折出会うことがあります。もうずっと前からわが家の周辺で自然なかたちで咲いているものです。
鮮やかな黄色のこの花は、私たちをじっと見つめているかのようです。
こうした植物の花や、樹木のたたずまい、あるいは大空の空や星、夕日に輝く雲、山々の動じることなき姿…などなど、自然の事物は、神の直接の被造物なので、神の清さや雄大さ、力など、そのお心の一部がそのまま現れているように感じます。
私たちが神に真実な心をもって向けるとき、しばしば神もまた私たちを見つめていて下さるように感じますが、同様に、自然の星や植物なども、私たちが心を注ぐとき、それらも私たちを見つめているかのように思えてくるものです。
なお、この植物の名は、下部の葉が大根の葉に似ているということで、このような名となっています。(この写真は上部なのでわかりません。)
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私たちの生活の中で、苦しみや悲しみに直面することは避けることができない。病気や、将来のこと、家族や職場、あるいは周囲の社会状況からくる問題によって私たちは悩まされ、その重荷を強く感じることもある。
神を信じ、キリストを救い主として受け入れてもなお、その助けが与えられないように思えて、どうして神は助けては下さらないのか、なぜ捨てておかれるのか、本当に神は生きて働いておられるのか、などなどの疑問が生じてくることもある。
ふつうなら絶望と思えるようなときにあっても、なお神を信頼し続けることができるかどうかが、そのようなときに極めて重要となる。
この聖句を引用した、「哀歌」とはエルサレムの町が、今から2500年以上も昔、人々の背信のゆえに、神のさばきを受け、当時の大国バビロンによって破壊され、多くの人々が死に、捕囚として遠い異国に連行されていった悲劇的な状況のもとで預言者エレミヤによって書かれたと伝えられている書物である。
そうした絶望的状況にあっても、なお、神を信じる人々はこの聖句にあるようにあくまで神に信頼し続けた。そのような暗い状況に陥ったことも、それは人々を鍛え、正しい道に立ち返らせようとする神の真実の現れなのだと受けとったのである。
そしてその信仰に基づく希望は、のちに実現することになった。
私たちにおいても、生きていくなかで出会うさまざまの苦しみや悩みに出会って、それが困難な問題であるほどに、神は助けては下さらないというあきらめにも似た気持ちになりがちである。
そうした無数の人々の心のなかに、このような聖句は光を投げかけてきた。神は信じるものを決してそのままに捨て去ることはない、必ずその憐れみをはっきりと実感できるような状況へと導いて下さる。
ハンゲショウ 徳島県小松島市(わが家の庭) 2004.7.05
この植物の名前は、夏至(げし)から11日目の7月2日ごろ、梅雨明けの時期を半夏生(はんげしょう)というので、その頃に咲くからという説明と、上部の葉が半分化粧しているようになっているからとも言われたりします。
これは薬草として有名なドクダミのなかまであると言われるとその葉や花の形がどこか似ていると感じるはずです。
いずれも花びら(花弁)も、ガクもない花です。
ドクダミは白い花びらのようなものがありますが、植物学的には花びらではありません。ハンゲショウの花は花びらもないめしべとおしべだけの地味なものですが、葉が上部のところには白くなるという珍しいものです。
それによって白い花のような雰囲気をたたえています。
緑と白の組み合わせは、落ち着いた静けさを感じさせてくれます。
花の地味なすがたを葉が白くなることによって補い、独特の美しさを表しているもので、このような植物に接すると、このように創造された御方(神)の私たちへの心を感じさせてくれる花です。
今日のみ言葉 1143 2004年6月18日 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。 |
女奴隷であったハガルは家から出され、水もなくなり、幼な子と共に死が目前に迫っているという状態であった。その時、神が現れ子供の泣き声を聞かれ、助けをさしのべられた。神がハガルの目を開くと、彼女は近くに水のある井戸があるのに気付いた。
もはや生きてはいけないような状況のなかで、神に向かって叫ぶ真剣な祈りは神が必ず聞いて下さっている。そしてその祈りが聞かれることにより、新たな目が開かれていく。
これは現在の私たちにも生じることである。困難のなかに置かれ、そこから必死で逃れようとし、それでも道が開かれないで、苦しみが続くということを多くの人は経験したきただろう。しかし、そこから神を知ることができればそれは人生で最大の祝福へと変えられていく。
苦しみや悲しみのさなかから神に出会った魂に与えられることは、心の目、霊の目というべきものが開かれるということである。それまでまったく見えなかったこと、気付かなかったことに目が開かれる。私たちに降りかかった苦しみや困難は偶然や不幸、あるいは運命が悪かったのだといったことでなく、その背後に大いなる神の御手があり、神の導きがあったのだということに目が開かれる。
闇としか思えなかったことも、それがなかったら正しい道が見出せない不可欠な出来事であったのだと気付く。
あるいは、聖書という一冊の本のなかにどれほど深い真理があるのかについても目を開かれる。自分自身についても自分の気付かなかったさまざまのまちがい、汚れ、不真実(罪)といったことにも目が開かれていく。そしてそのような心の深いところの出来事、だれにも知られていないようなことですらも、そこに神の御手が臨んで赦しと力を与えられることにも目が開かれていく。
また、罪の赦しと並んで、最大のことは、死のかなたにあることに目が開かれるということである。私自身のことを振り返っても、死に打ち勝つ力があるとか、死後の永遠の清い命などといったことは、以前には考えたこともなかった。すなわちそのようなことについては全く目が閉じられていたのである。
また、周囲に満ちている草木や空、雲などの自然についても、神は日々あらたに目を開いて下さって、それが愛の神のわざであることを知らせてくれるようになる。
神はそのようなさまざまの領域について新たに目を開き、そして私たちの生活のすぐそばに、水の湧き出る泉があることにも目を開いて下さっている。
主イエスは、次のように言われた。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書7:37-38)
現代に生きる私たちにも、神を信じ、キリストを受け入れるだけで、この世の霊的な砂漠のただなかに、生ける水の流れる泉を見出し、そこから飲むことが与えられている。
クチナシ 徳島県小松島市日峰山 2004.6.12
この花は香りの点からも、その色や姿の点からも、多くの人にとって最も心惹かれる樹木の花の一つといえます。
この写真はわが家のすぐ裏の山に自生しているものです。
樹木や野草が数千もあっても、この野生のクチナシのような心ひく香りはほかにはないといえるほどです。園芸店にもクチナシはいろいろと販売されていますが、残念ながらこの野生のクチナシの気品と香りの素朴さにはとても及ばないと感じます。
緑一色のただなかに、その純白の花を咲かせ、類のない香りを漂わせているさまは6月の自然のなかにとくに心に残るものです。
私の妻も、6月は梅雨時でいやな季節だけれど、クチナシが咲く季節だからいいね、と言います。6枚の純白の花びら、中央の薄い黄色のめしべの色合いがその香りとともに見る者の心に、静かに神の国のメッセージを伝えてくれるのです。
この花は、静岡県から西の暖かい地方にしかないとのことで、野生のこうした美しい姿には寒い地方の人は接することができないようです。
この花の果実は熟しても口が開かないので、「口無し」という名前になっています。
この果実は冬には黄赤色となり、菓子や漬け物などの食品の着色料にもよく用いられ、さらに薬用植物辞典には薬用としても用いられると記されています。
今日のみ言葉 1142 2004年6月9日
見よ、私は蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、あなた方に授けた。 |
私たちを日々苦しめる出来事は、自分や他人、総じて人間そのものに内在する悪にかかわる問題がとても多いのです。それは小さな子供からすでに日常生活のなかにも自分中心に行なったり、いじめなどという形で現れるし、社会のなかにも、また民族の対立や国際的な問題の中にも多くみられます。
私たちがどんなによいことをしようと思ってもなぜかそのよいことができず、かえってよくないことをしたり、言ったりしてしまうこと、それを罪といっていますが、それも私たちがよい方向に進ませないようなある力、罪の力、言い換えると悪の力があるからです。
そのような状況だけを見ると、善よりも悪が強いのだと思ってしまいます。
こうしただれでもが持っている漠然とした気持ちに、全く異なる見方を人間に与えるのがこの聖書の主イエスの言葉です。
ここでイエスが、敵とか、蛇とかサソリと言っているのは、みな悪そのもの、すなわちサタンを指しています。
イエスは、悪そのもの、サタンがその大きな力を失って、落ちていくのを見ていたのであり、イエスはご自身が悪を支配する力、悪の力を踏みつける力を持っていたのです。
そしてそのような大いなる力を弟子たちに与えた、と言われています。
私たちは自分の力だけでは悪に踏みにじられそうになりますし、最終的には死の力によって滅ぼされていきますが、悪の力、死の力にすら勝利したイエスの力を信じることによって、現代においてもそのような悪に勝利する力が与えられるということなのです。
たしかに、キリストを真実に信じ、キリストからの力を受けている場合に、周囲の汚れた雰囲気にあってもそれに汚されずにかえって周囲に清いものを及ぼしている例を私たちは知っています。
悪とは霊的なもの、目には見えないものであり、心の奥深いところにまで入ってくるものです。それゆえ、いくら部屋に鍵をかけても、また法律を作っても、罰則を強化しても、悪そのものに打ち勝つことはできないことです。
しかし、悪そのものに勝利され、悪の力を踏み砕く御方(主イエス)を信じ、その御方の力を頂くとき、初めて私たちも、悪そのものに勝利していくことができるのです。
ウツボグサ 徳島県小松島市日峰山 2004.6.1
6月に咲く野草としては、とくに美しいもので、多くの人たちの愛好するものとなっています。
その色は青紫で私たちの心に調和音をかなでるように入ってくるものですし、その花の姿も素朴で野草らしさにあふれています。
また、この野草は、花が終わると、褐色になるので、夏枯草(かこそう)とも言われ、優れた利尿剤とされています。
しかし、このような心ひかれるような野草は次第に少なくなり、山道でもあまり見かけられないものです。
平地ではめずらしいことですが、徳島県の吉野川のある地域の堤防にはこのウツボグサ が多く群生しているところがあります。
青または青紫色の花は、いろいろありますが、秋に咲くリンドウやキキョウ、アキチョウジのようにたいていは人の心惹くものが多いようです。深い大気の集まりは青空となって見えるし、多くの水の集まりである海は青く見えてきます。
遠くの山々も青く見えます。
青という色には遠い彼方の国を思い出させるような感じがあります。
今日のみ言葉 1141 2004年5月9日 (主よ、あなたは)座るのも立つのも知り You know when I sit down and when I rise up; you discern my thoughts from far away. |
私たちは自分がしていることを、だれも見ていないとおもっています。
しかし、私たちの一挙一動をすべて見守って下さっているという深い実感がこの詩にはあります。
私たちがなにかやましいことをしていたら、それをじっと見守っているお方の存在などわずらわしいものとなります。
しかし、まっすぐに真実な神、慈しみに満ちた神に心を向けているとき、神はこの詩の作者が感じているように、私たちを愛のまなざしで見守って下さっているのがわかるのです。
それゆえに、私たちは人が見ていないからといってよくないことをしたり、考えたりしてはいけないという気持ちに自然に導かれます。
「求めよ、そうすれば与えらる」という言葉は、こうしたことについても言えます。
幼な子のような心をもって、主なる神を仰ぎ、心にいのちを水を下さい、私たちを導いて下さいと心から願うときには、神の愛を感じるようにさせて下さるということです。
正義の神、愛の神などどこにいるのかわからないと思わせるような世の中の暗い出来事は昔からどこにでもあります。
しかしそうしたただなかにあってこの詩の作者のように、深い神との交わりの実感を与えられてきた人が常に存在してきたのです。
現代において、孤独という苦しみはこの詩の作者が感じていたような神との近い関係、心の交わりが与えられて始めていやされるといえます。
このような神が、共にいて下さっている、または守って下さっているという感じは、単にいるかいないかわからないものを信じているということでなく、他の何者をもってしても代え難い魂の奥深いところでの実感なのです。
そしてこのような神がともにいて下さるという事実こそは、混乱と悪のはびこる世界にあってもなお、神の国への道を歩み続けていく力となってくれるのです。
フジ 徳島県名西郡神山にて 2004.4.29
このフジの見事な花は、徳島市から30キロほど西の山深いところに、谷の向こう側に咲いていたものです。撮ったところからはかなり距離があったのですが、拡大して写したものです。私たちが県内で見るフジはノダフジが多いようです。
香川県と徳島県の県境付近の山では、ヤマフジが多いのを見ています。
ノダフジは、つるは右巻きで、花の房が長く、30センチから長いものでは90センチにもなるのがあります。
また、花は上の方から順次咲いていきます。ヤマフジの方は、花の房が10~20センチと、ずっと短く、つるも左巻きで、集まっている花の一つ一つはヤマフジのほうが大分大きく、花もほぼ同時に咲き始めるといった違いがあります。
ふつうは私たちはあまりこのように観察していないので、どれでも同じものだと思ってしまうのですが、よく似たものでも、このようなはっきりとした違いがあり、それぞれに個性が与えられています。
フジは、多くの人名にも使われています。藤原、藤川、藤山、藤田…。 こうしたことからも日本人にフジが愛好されていたあとがうかがえます。
その姿、かたち、そして色も美しく、山野のみどりあふれるただなかに静かにその美しい花を咲かせているすがたは、日本的なよさを感じさせます。あちこちのフジ園で見かけるのは、ノダフジが多いようです。
これは、日本原産です。なお、ヨーロッパにはフジはなく、日本のフジとよく似た中国のフジが、1816年に紹介されたと、アメリカの植物図鑑に記されていることをみると、ヨーロッパの人たちはこの美しい植物は200年ほど前にようやく知ったということになります。
私の手元にある、ヨーロッパの植物図鑑には、このフジの説明文を a noble climber(気高い つる植物) という言葉から始めていることからも、フジの気品ある姿が西欧の人の心にも印象的であったのがうかがえるのです。
植物は時として、ブナやトチノキ、マツ、スギの大木のように、見るものの心に強い印象を残すような力を与えてくれるものがあり、また、いっせいに芽吹く春の新緑は神のいのちを感じさせ、またこのフジのようにある種の気品を伝え、また天国の香りをたたえたもの、神の世界にある美をほうふつとさせるものなど、人間に精神的なさまざまのものを与えてくれるものとなっており、まさに「聖なる書」だと言えます。
今日のみ言葉 110 2004年4月23日 信じる人を守るあなた(神)の言葉である。… It is not the production of crops that feeds humankind, |
私たちは、人間を養うのは、食物であり、病気からいやすのは医者であり、薬であると当然のように思っています。たしかに、私たちのからだのみを見るとそれは当然です。しかし、どんなに口から入る食物があっても、よいものに感じる心や考え方が養われるのは、たしかに食物によってではないことはすぐにわかります。
それは、戦前や戦後まもない貧しい時代に比べたら現在は比較にならないほどに食物はゆたかになっていますが、美しいもの、清いものに感動する心が以前よりずっと養われているとは到底いえないからです。
また、医者や薬によって苦しい病気がいやされ、いのちをたすけられことも日常的に行われていることです。
しかし、健康なからだであるからといって、心も健康であるとは決していえないことも数々の犯罪など悪しきことは、ほとんどみな体の健康な人がかかわっていることを見てもわかります。
ここでも、からだと心が合わさった全体としての人間のいやしは、医者や薬ではできないことが明らかなのです。
聖書はこのような事実を深く知っていて、人間を本当に深いところで育て、いやすのは、人間でなく、神の言葉なのだと明確に告げています。
主イエスも、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われています。
私たちが養われるとはどういうことか、それはいのちを与えられ、弱っているとき強められることです。
また、他者を傷つけた言葉や行いはとりかえしがつかず、そのような罪に心痛めるとき、なにがその心をいやすのか、それはたしかに食物や医者ではできないことです。
私たちの存在を超えたところから語りかけてくださる言葉、神の言葉こそ、そうした深い心の傷をもいやしてくれる唯一のものです。
そして愛する者の死や別れによって失われた心の空洞も、やはりそれをいやし、新たな力を与えて養ってくれるのは、愛の神から魂に語りかけられる生きた言葉なのです。
コバノタツナミ (小葉の立浪) 徳島県小松島市日峰山 2004.4.20
これは、波が寄せてくるさまに似ているところと、タツナミソウよりも葉がやや小さいためにこの名があります。
山道にて見出すことがありますが、実際にはそう多くは出会わないものです。
上の写真のものは、いつの頃からか、わが家の近くの山道に自然に見られるようになったものです。
草丈はこの写真の群生のものでは5~10センチ程度で、写真のものは赤色ですが、青い花のものが多く、小さな波の寄せるような姿には、心ひかれるものがあります。
この写真の花は私たちに呼びかけているような感じがあり、春の山で出会う野草として印象に残る花の一つです。
このような花は、天の国の小窓のようなものなので、心して見つめているとこの花を創造された神のこと、そしてそこから奥のほうにある天の国が少しは見えるような気がします。
今日のみ言葉 109 2004年4月15日 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、 For to all those who have, more will be given, and they will have an abundance; but from those who have nothing, even what they have will be taken away. |
これはたいていの人にとって意外に思われる言葉です。一見したところ、何か現代の社会的な貧富の問題のことを言っているのかと思うような言葉です。
しかし、そうした単なる社会問題の解説めいたことを言っているのではありません。
この言葉は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のすべてにあり、マタイ福音書では2回もべつべつの文脈のなかで見られる言葉で、このように多く記されているということは、この言葉が初代のキリスト者たちにとって、重要な意味を持っていたことがうかがえるのです。
この言葉は、タラントのたとえにあります。
…ある人が長期間不在となるので、自分の使用人たちを呼んで、ある者には1タラント、別の人は2タラント、5タラントなどを与えた。2タラントや5タラントをもらった人は、すぐにそれを用いてさらにもうけた。しかし、1タラントもらった人は、全く使おうとせずに土のなかに入れておいた。
主人が帰って来て、働いたそれぞれの人をほめてより多くのものを管理させようと言った。しかし、1タラントもらった人は自分が怠けていたことについて、主人が厳しいから隠しておいたなどと言い訳をした。そのために、主人は、その怠け者が持っていた1タラントをも、すでに多く持っているものに与えた。…
回引用したのは、そのときの主人が答えた言葉なのです。
どんな人でも、私たちの主人である神から、何かをゆだねられて持っています。しかし、自分が与えられているものを感謝して受け取ろうとせずに、他人に与えられたものを見てねたんだり、やる気をなくしたり、自分にわずかしか与えない運命をのろったりということでは、せっかく与えられているものまでも失われていくということなのです。
神様からいただいたと信じて用いるとき、そこに神の力が働くわけです。それで、どんなにとるに足らないと思われるようなことであっても、それを神から与えられたものだと信じて用いるときに、それは不思議なはたらきをするものです。
例えば、よい本を見出した、それを少しでもだれかに手紙やインタ-ネットメールなどで紹介することなどはたいていの人ができることです。短い手紙を書くとか、もしくはメールを出したりすることはしようと思う気持ちさえあれば、だれでもできることだからです。
自分だけにとどめるのでなく、少しでもそれをだれかによいものを伝えようとすること、それが ここで言われているタラントを用いるということです。
体力や健康、そしてお金や時間も、神から与えられたと信じてそれらをなにかよいものに用いようとすること、車やパソコンでもそのように考えると、神の国のためにいろいろと用いることができます。
寝たきりの人でも、神の国のために、信仰と希望と神からの愛を保ち続け、きわめて重要なはたらきである、「祈り」ということができるのです。
さらに、神の国や今も生きてはたらく主イエスが私たちに与えられ、そのイエスを信じる信仰が与えられているとき、そのわずかの信仰であっても、その信仰をつねに用いて、信じて前進しようとするとき、つぎつぎと新しく目に見えない世界のことがわかるようになっていき、さらに思いがけない人との出会いやよい書物との出会い、困難に逢ってもそこからまた意外なよいことにつながるといったふうに、何事が生じようともさらに与えられていくということです。
それが神の祝福ということでもあります。思い切って神の導きと真実を信じてものごとに対処していくとき、人から見下されることもあり、また敵対する人も生じたり、窮地に陥ることもある、しかしそれらがなかったら決して与えられないような、霊的な高みへと導かれるということです。
ジロボウエンゴサク 徳島県海部郡日和佐町 2004.4.6
この野草らしい赤紫の可憐なたたずまいの花は、私のすんでいる小松島市や徳島市周辺の山々ではわずかしか見られないのですが、徳島市から南へ50キロほどの日和佐町などには山沿いなどでわりあい多く見られます。
先日も日和佐からさらに30キロ南への地方に家庭集会での聖書講話に行ったとき、その帰り道で見出したのがこの写真です。
変った名前ですが、ジロボウ(次郎坊)とは、タロボウ(太郎坊)に対する言葉で、スミレのことをタロボウと言っていた地方があり、それと同じ季節でしかも色、形もよく似た(*)この花を弟分と見て、ジロボウといったということです。
そして、エンゴサクとは、この仲間の根を漢方薬として用いていて、その名前がエンゴサク(延胡索)というものです。
スミレとジロボウエンゴサク、この二つはたしかに春にとても目立つ美しい、野草らしい花です。
私はジロボウエンゴサクの花を見ると、かつて何回も登ったことのある、四国第二の高峰である剣山(標高1955m)とすぐとなりにある、ジロウギュウ(標高1925m)という山を思い出します。
剣山もむかしは一部でタロウギュウといい、そのすぐとなりに高くそびえる山をジロウギュウといったといわれています。
ジロウギュウは、四国でも屈指の秀麗な山容で、剣山に立つときとくに目立つものです。
(*)距(きょ)があるところも、スミレと同じである。距とは、花のうしろについている尾のような細長い部分。
今日のみ言葉 108 2004年4月2日 |
この詩では、神が何をして下さるお方であるのかが、言われています。罪の赦し、病のいやし、死に打ち勝つ命が与えられること。まず第一に言われているのは、罪からの赦しです。罪とは人間の心の一番奥深いところにある問題です。正しい心、真実な心、愛、すなわち弱い者や敵対する者へ心を注ぎ、祈る心、そのようなことこそ人間にとってあるべき心の姿です。しかし、それがどうしてもできない、その心の実態が罪といわれているものです。それを赦し、清めてくださるのが神なのです。
病気をいやすこと、これは医者だと思われています。しかし医者が用いる医学や技術は、しばしばかえって新たな病気を生み出すために、入院患者の相当数が医学・薬学の発達によって引き起こされた病によると言われています。そしてもし、健康になったとしても、自分の楽しみなど自分中心に生きるならそれは本当の意味では健康とは言えないことです。神が、「病をすべていやす」とは、私たちが本当に神に心を注ぎ祈っていくとき、どのような種類の病気であっても、神からの新たな力が与えられることによって、時には実際にその病気がいやされたり、いやされない時であっても、それに打ち勝つ力が与えられるということです。
そして、「神が、私たちを墓から贖いだす」といった表現は現在の私たちにはなじみにくいものですが、要するに、「死の力に勝利させて下さる」ということです。
死の力とは、私たちのよきものが死んでいくようにさせる力であり、老年になったり病気になってはじめて働くのでなく、今生きているときからすでに働いています。例えば、若いときには純真であっても、大人になって感動する心を失っていくのは、そうした死の力によきものが呑み込まれていったということです。
また、どんなに健康であっても、また金や権力があっても、すべては死んでいきます。しかし、神は信じるものに、よみがえりの力を与えて下さる、言い換えると死んでも神のみもとに帰り、しかも現在の罪深く、病気や老化によって衰えた体でなく、キリストのような栄光のかたちに変えてよみがえらせて頂けるということです。
これこそ、私たちの最終的な希望であり、世の中がいかなる状況になろうとも、この希望は決して消えてしまうことはありません。神は一切をもっておられるお方であり、
神のいのちが与えられるということは、あらゆるよきものが与えられるということです。それはよき友や仕事であったり、神の創造された自然を深く味わう心であったり、苦しみに耐える力であったり、さまざまです。このようにして、神に真剣に求めていく生活は、神のいのちを与えられるゆえに、心の若さがいつまでも新たにされ、新たな力が与えられる生活となる、…これはこの詩をつくった人の深い体験であり、それが聖書におさめられているのは、そのような体験が神を信じて生きるすべての人るちも同様に与えられるということなのです。
タチツボスミレ 徳島県小松島市日峰山 2004.3.30
山を歩いていて最も多いのはこのタチツボスミレです。葉の付け根のところに、クシの歯のような托葉(たくよう)があるので、ほかのスミレとはすぐに区別がつきます。
この写真のスミレは、わが家の裏山にていつの頃からか、毎年このように咲くようになったものです。
このスミレがあるところの付近にはかなり離れてもこれは見られないので、どこから種が来たのか不思議に思われます。
こうした不思議さはどこであっても感じられます。
例えば徳島県では、カタクリはごく一部の山にしか見られませんが、以前1300メートルほどの山の頂上付近に自生している美しいカタクリの一群に接したことがあります。
県下では稀なこのカタクリが、いつ、どこから、そしていかにしてこのような高い山の頂上付近だけに生えるに至ったのか、と思うと、とても不思議に感じたことがあります。それはいわば神が見えざる御手でもって、そこに運び、植えたかのような感じがしたものです。
キリストも福音の真理を種にたとえたことがあります。真理の種があちこちに蒔かれても、迫害や人間の側の心のゆるみなどで、芽を出してもつぎつぎと枯れていくという状況がある。
しかし、よき地に落ちる種が必ずある、そしてそれが何十倍、何百倍にも増えていくという、神のエネルギーの不滅性を言われたものです。
このスミレには中央の花びらに繊細な模様があります。
このような模様がなくとも、スミレは何不自由なく生きて生けるのですが、なぜこのような美しい模様があるのか、とよく考えたものです。
その美しさは人間だけが味わうことができるのであって、神が人間に無限の多様性を知らせるためにつくられたのだという気がしてきます。
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 Bless those who persecute you. |
ここには、人間関係において究極的なあり方が指し示されています。迫害するもの、もっと身近な言葉で言えば、それは私たちに敵対したり、悪口を言ったり、差別や見下したりするような人たちに対して、憎むとか反感を持つのでなく、そのような人たちの心がよき心に変えられるようにと祈ることが強調されています。
たしかに、このようなことは自然のままの人間の心には到底できないこと、思いもよらないことです。どんな柔和そうな人であっても、根拠のない悪口や侮辱をするような人に対しては顔も見たくない、その人への怒りとか反感が生じてしまうでありましょう。
この手紙を書いた使徒パウロはかつてはキリスト教徒たちを憎んで迫害し、殺すことまで加わったような人でしたが、そのような「神の敵」ともいうべき状態であった人をも、神は愛し、主はパウロを直接に呼びかけて、それによりパウロは回心しキリスト者となったのです。
彼は、自分自身の魂の深みで体験した神の愛ゆえに、ここにあげたように「敵を愛せよ、敵のために祈れ」と教えることができたのです。
このようなことはパウロ自身も神の愛を受けて初めて可能となったように、私たちも単なる道徳的教訓として言われたり、自分の努力によってはこのような心には到底なることができません。
敵対する者にすら、その人に最善のことが生じるようにと祝福を祈ることができる心は、自ずから他者の苦しみや悲しみに対しても共感することが可能となってきます。それは結びついているのです。そのような心は神の愛から生れるものであり、私たちが神の愛の一滴(ひとしずく)を受けてはじめてそうした方向への歩みをはじめることができると言えます。
悪に対して勝利する道、それは憎しみや復讐、あるいは武力によって相手を打ち倒すことでなく、相手にも自分にも神の愛を待ち望み、その神の愛が働くことによってであると言われています。
トサミズキ わが家にて 2004.3.10
名は、高知県の石灰岩の土地などに自生していることに由来。庭園などによくに栽植されています。
高さ2~3m。花は春,葉に先立って開きます。
ミズキという名前はついていますが、ハナミズキとは花の形なども全く異なることからわかりますが、科が別です。ハナミズキやヤマボウシなどの花はミズキ科、このトサミズキは、マンサク科です。
まだ他の木々が新芽も出さないうちに、このような薄い黄緑色の花を咲かせる姿は印象的です。
4月、5月ともなると、草木の葉もたくさん出てきて花も目立たなくなりますが、今頃に咲く花はまだ木々が冬の装いのままのものが多いのですが、ウメに続いてまだ寒い頃から咲き始めます。こうした寒さの中に咲き始める花は私たちにも、精神的な目覚めをうながすように感じられるものです。
それは神ご自身がいつも目覚めていて、草木に限らず、空や川、海など私たちの周りの自然をたえず新しい変化へとうながし、私たちをも目覚めているようにと励まし、かつ見守っていて下さるからです。
今日のみ言葉 106 2004年3月2日 |
私たちは、だれでも、いろいろの計画や予定、希望を持っています。人間は考える動物であるといわれる通り、つねに何かを考えていますが未来のことについても当然、人間だけがいろいろと考えます。ある人は、よい人と友達になりたいとか、理想的な人と結婚したいとか、また研究者とか、パイロットや教師、看護師など、特定の職業に、またある人は登山とかスポーツなどで有名になること、あるいは立派な車や家を持つこと等々、多くの人は何らかの計画や希望をもっているし、その計画の実現のためにいろいろと方法を考えます。
人間の集まりである企業などについても将来の会社のあるべき姿についていろいろと考えるし、 国家同士であっても、たえず、会議をしてそこではさまざまの国の計画に従って、駆け引きや妥協をもします。それらはみんな人間の計画です。そしてそれらは実現するように見えるのもあれば、実現しないのもあります。
しかし、聖書のこの箇所では、ただ神の計画だけが実現するというのはどういう意味でしょうか。それは、人間の計画もたしかに短期間を見れば実現するように見えるのもあります。しかし、少し期間を広くとるときには、たいていは変質したり壊れたり、消えていくということがわかります。例えば、よい友達とか結婚を目的としてそれが与えられることもあります。しかしそうした人間に関することも最終的にはみんな死んでしまい、消えていくばかりです。
大きい会社にしたいと考えて計画をたててそれが実現して有名な会社になることもあります。しかし長い目でみると、以前は有名な会社であったのにあえなく倒産していく会社もたくさんあります。
また、有名になるとか、業績をあげるとかいうことも、ある時期には実現しても、病気になったり事故とか他人がさらにすぐれた業績をあげるとたちまち過去の業績は消えていくのです。
このように人間の立てる計画はもろいのは、人間自体がもろくはかないからであり、未来のことを正確に読み取ることなどは到底できない小さな存在だからです。そしてさらに人間は突然の事故や病気によってもいとも簡単に動けなくなったり死んでしまうからです。
しかし、この世は人間が主人でなく、目には見えないけれども愛をもって支配されている神が主人であり、その万能の主こそはすべての物を創造し、導いているのですから、その神のご意志だけが成就するのは当然のことと言えます。
一方に人間の汚れや弱さ、はかなさがあり、他方には永遠に不滅の神、全世界、宇宙を導いておられる神がおられます。私たちはそうした神をみつめ、神がいまもその御計画をなしとげておられることを信じるときに、初めて平安を与えられます。どんなに、自分の計画が実現しなくとも、希望は失うことはありません。神が私たちの背後で、私たちの狭い考えによる計画をはるかに越える英知をもって実現されつつあるのをほのかに実感するからです。
神が御計画されている、神の国、それだけが確実に実現することであり、永遠に壊れることもないものです。
そしてこのような壮大な御計画をなし遂げておられる神を思うとき、おそれの心が自然に生れます。神をおそれるとは、そのように神の無限に偉大なことを信じ、実感して敬意をささげることなのであり、そのような心には、神のいのちが与えられると約束されています。
水を飲むメジロたち 我が家の庭にて撮影 2004.2.27
私が机をおいている窓際から見られる金魚のいる大型水槽に最近は、しばしばいろいろな小鳥たちがやってきて水を飲み、また、一番下のメジロのように、中に入って水浴びして羽をふるわして水を落としているのもあります。
このように同時に4つものメジロが来て水飲みのためにやってくることは珍しいことです。
植物とちがってたえず動き、カメラを向けたとたんに飛び去るのも多いため、小鳥を写真にとるのはとても難しいのですが、これはちょうど仲良しの小鳥たちがともに水を見つけて喜んでいるような感じで、うまく撮れたものでした。
小鳥たちのすがたは、そのさえずりの清いひびきとともに私たちの心をさわやかにし、人間世界の複雑さ、みにくさとはまったく違った世界を感じさせてくれるものです。
今日のみ言葉 105 2004年2月13日 |
私たちは泉といえるものをもっているだろうか。泉とは、そこからつねに湧き出るもの、あふれているもの。しかもそれは清く、いのちを養うもの。
私が幼いころは、山の斜面に位置するわが家のそばから、湧き水があり、それを夏場は飲み水としていた。それは今も記憶にはっきりと残っているが、その水の味、清さというのはほかのものに代える事ができない。澄み切ったその湧き出る水を飲むだけで満たされるのであった。
現代においては、もはやそのような湧き出る泉を用いて生活している人は山間部の人以外にはごく少なくなっただろう。
しかし、目には見えない泉が私たちには与えられている。この聖書の言葉において、私のあらゆる泉は神の内にあると言われている。神を信じるということ、それはこうした霊的な泉を神のうちに見いだすことなのである。
そしてその泉から、本当に大切なもの、力あるもの、永遠的なもの、清いもの、愛、正しさなどなどさまざまのものがあふれているのを感じる。私たちはただそれを汲んで飲みさえすればよいというのである。
私たちはこの世において、数々の汚れや苦しみ、そして悲しみに出会う。そうした汚れをぬぐい去り、清めて頂くため、また苦しみにさいなまれる心を生き返らせていただくためにも、そうしたいのちの水といったものが必要である。
天地万物を創造され、いまも生きて働いておられる神を信じるとき、私たちはそれまで求め続けてきた泉がその神のうちにあることを知らされる。そして、その神が人類に送って下さった主イエスのうちにも泉を見いだすことができる。さらに、主イエスは私たちから遠くにおられるのでなく、私たちが主イエスを信じるとき、主イエスご自身が私たちの内に住んで下さる。そしてそこで泉となってくださる。こうした霊的な泉に関しては、主イエスもつぎのように約束されている。
…しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(新約聖書 ヨハネ福音書4:14)
私たちが、そのような泉を与えられるならば、そこからすべては変わっていくことであろう。
紅梅 わが家にて 2004.2.10
この紅梅は数十年前に、父が植えておいたもので、父が召されたあともこのように毎年、白梅とともに花を咲かせ続けています。
きびしい冬の寒さのただなかで、こうした美しい花を咲かせ、ほのかな香りを周囲に漂わせていること、それは、人間にもあることだとわかります。への信仰にかたく立ち、重いからだの障害や病気、あるいは当時の社会のおそろしい迫害にもかかわらず、信仰ゆえのうるわしい心を与えられた人たちを私たちは書物などによって知らされています。
そのような魂は、寒さきびしいなかに咲く梅のようなものです。
この紅梅のような樹木も、神へのまなざしをもって見るとき、ひとつの泉となってくれます。
人間は心のなかにしばしば純粋ではない心が生じるものですが、こうした自然の草木はいっさいの汚れを感じさせないものがあります。
それは神の心そのものを映し出しているようです。
こうした自然からもあふれてくる清いものを感じるとき、私たちは神のうちにあらたな泉を見いだしたという実感を与えられるのです。
今日のみ言葉 104 2004年1月26日 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。 but by every word that comes from the mouth of God.' |
これは、聖書のなかでも最も知られている言葉のうちの一つであろう。私自身これは、高校時代からどこかで読んだか耳にした覚えがある。しかし、この主イエスの言葉の意味の深さには全く気付かないままであった。
この言葉は、生きるとは何か、何が生きるために必要であるかということを述べている。私たちは、家庭や学校において、生きるとはどんなことだと教えられただろうか。多くの人たちは、目的をもって生きよとか、できるだけいい学校に入れ、大会社とか公務員のような安定した職場につくことが生きることに好都合だと言われてきただろう。 そしてここでいわれているような、神の言葉が生きるために必要だなどという教えは全く聞いたことがなかったはずである。
ここには、人間の生き方は、二つに別れていることを指し示している。それは、パン、すなわち口から入る食物こそが一番大切なのだ、言い換えたら経済問題が最大の問題だ、とする考え方であり、他方は、目には見えない大切なものがあり、それを受けていかなければ人間として本当に生きていくことにならない、というものである。
前者の、パンの問題こそが一番重要だという考え方が一番広くゆきわたっているので、現在のニュースでも経済問題が最大の重要性を持つかのように言われることが多い。
戦争もその背後には経済問題がある。例えば、歴史上最大の戦争であった、第二次世界大戦も、ニューヨーク・ウォール街で起こった株価の大暴落がきっかけとなって始まった。それが世界を巻き込む大不況となり、ヨーロッパではヒトラーのドイツが戦争をはじめることにつながり、日本では太平洋戦争へとつながっていった。また、今のイラクの問題も、そこが石油地帯であるからこそ生じているのである。食物の問題、経済問題を第一だと考えるところから、さまざまの争いも生じてくる。
しかし、聖書には、そうした世間の常識とは全くことなる真理が言われている。神の口から出る言葉によって生きる、なんと意外な言葉であろう。自分の努力や考え、あるいは健康や金をもって生きるのだと考えていたものにとっては、本質的にことなる発想だ。
神の言葉などわからないという人も多いだろう。天地宇宙を創造され、いまも生きて働いておられる神など存在しないと思っている人にとっては、神がないのだから神の言葉もない。だからこうした有名な言葉であっても意味をもたないのである。
しかし、そのような人であっても、例えばこう考えてみるといくらかわかりやすいのではないだろうか。 つまり、私たちは人から冷たい言葉、見下すような言葉やいじめ、差別なとの言葉をつねに受けていると、生きているのが苦しくなるだろう。たった一回のひどい言葉のために学校にいけなくなったという人もいる。
逆に愛のこもった言葉によって、絶望していた魂がはげまされことがある。そのように、愛や真実からの言葉は人を生かすことにつながる。だからそうした愛や真実の源である神からの言葉は私たちを力づけ、生かすであろうことは、想像できるだろう。
人間の言葉は一時的である、その人も心が変わり、そのうちに死によってその言葉は消えていく。そして、しばしば、人間の言葉は自分中心のことを語ってしまうし、怒りや、悪意、中傷、ねたみなどが多くなりがちである。
しかし神の言葉は、とこしえに消えることがない。そして、神の言葉には不思議な、驚くべき命がある。そこには、朽ちることのない愛がある、真実がある、そして力がある。神かの語りかけを聞き取るとき、私たちの本当の部分が新しく造り替えられ、初めて生きるということが何であるかを気付くようになる。
生きるとは、神の言葉を受けることであり、そこから神のいのち、すなわち永遠の命をいただくことであり、神の言葉に導かれて生きることである。そこに平安があり、自然な喜びも生れる
ウメ 徳島県小松島市 わが家の梅です。2004.1.24
.わが家にはウメの木が数本あります。
そのなかで、この木は一番はやく咲き始めます。このような自然の美しさは、心して見るならその背後に見えざる創造主の御手が浮かんできます。
梅の花は、そのかすかな香りと、花やつぼみの形、色、そして厳しい冬のただなかに初々しい花を咲かせるというところが、古くから人々の心に特別な引きつける力を持ってきました。
それは、万葉集に114首もの歌が詠まれていることからもうかがえます。
梅は、このように花そのものの美しさや汚れなき雰囲気とそのほのかな香りなどのゆえに、好まれていますが、他方、その実も梅干しや梅酒などに用いられ、大きな役割をもっています。
梅はヨーロッパやアメリカにはなく、古い時代に中国からわたってきたとされています。
今日のみ言葉 103 2004年1月13日
あなたのなすべき事を主にゆだねよ、 Commit your work to the LORD, and your plans will be established |
この簡潔な言葉は私たちの日常生活に密接にかかわることです。
私たちはたえず何かをしつつあるし、また、しようと思うこと、なすべきことを持っています。 私たちの、職業生活、また自由な時間のとき、他者との交わりのとき、家で時間があるとき、また病気のとき、老年になったとき…どのようなときにも、「なすべきこと」というのがあります。
それらは、なにかの用件といった個人的な小さなことである場合もあるでしょう。また、社会的に大きな困難を伴うようなことであるかも知れない。また、たまたま知った人の困難な状況をまのあたりにしている時もあります。
また、生涯の決定的な重要性をもつような出来事に直面しているときもあります。
そうしたすべてのときにおいて、それにどのような心で取り組むかが重要だといえます。自分の能力や意志に頼ってするのか、また他人の力、国家社会の力がなすのだと考えるか、それとも、そうした人間的なすべてを超えた存在、すなわち聖書で記されている神がなされると信じるかどうかでなのです。
今日の聖書の言葉は、私たちが主を信じ、主に委ねるならば、ふしぎないきさつを通って、また私たちがしばしば考えたことのないような形で実現していくということを意味しています。それがいかに回り道のようであっても、またいかに実現されがたいように思うことであっても、私たちが心から主にゆだねていくことは、必ずなにかよきことをなして下さる。
カラタチバナ わが家(徳島県小松島市) 2004年1月10日
このカラタチバナという、小さな木は、もう20年ほども以前に、低い山で野生を見つけて、その種を採取して蒔いておいたら、このような株となって、毎年実をつけています。
私がこの植物を野生状態で見つけたのは、わずかにこの一度だけです。石川県などでは、群生しているところがあり、その写真も見たことがありますが、徳島県ではそのようなところはないようです。
センリョウや、マンリョウは有名ですが、このカラタチバナはほとんど知られていないものです。しかし、晩秋から冬の花のほとんど見られない時期にこのように、冬中赤い実をつけて私たちの目を楽しませてくれます。
実をつけるというのは、なにか心なごむものがあります。その植物が成長し、花をつけ、そして結実するまでに場合によっては長い年月を要するものもあります。実をつけはじめると毎年実を結び続けます。そしてその実がまた新しい植物となって増えていきます。
人間もこうしたよき実を結ぶことができるということが、聖書に記されています。
よくよくあなたがたに言っておく。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(新約聖書 ヨハネ福音書12:24)