今日のみことば (2017年) (文、写真ともT.YOSHIMURA) |
今日のみ言葉 274「主は、そのすべての道において正しく」 2017.12.11
主は、そのすべての道において正しく、そのすべての御業の中には、慈しみがある。 (詩篇145の17)
The LORD is righteous in all His ways, Gracious in all His
works.
なお、慈しみ と訳された原語は ハーシィード です。 この言葉の訳語は、いろいろです。
ハーシィードは、旧約聖書で 新約の愛に相当する ヘセド(慈しみと訳される)の 派生形なので、 日本語訳では、この訳のように、慈しみ と訳されることもあります。
ほかの訳は、例えば英訳では、ここで取り上げた gracious という訳語以外に、 holy、 kind、 faithful などの訳語をあてています。
中国語訳では、そのうちの2種の訳文は、 「慈愛的心」 あるいは、 「都有慈愛」 と いずれも 慈愛と訳しています。
人間は、過ちに満ちた存在である。本当の正しいありかた、いつも真実や愛によって生きるということは到底できない。
いかなる偉人とされている人でも、その深い魂の奥には、人間的なあまりにも人間的な部分があり、そのような部分に接したときには、人間とは本当に弱きもの、罪深きものだと知らされるであろう。
キリスト教の二千年の歴史において、最大の働きをしたパウローそれは彼が受けた啓示が新約聖書の重要部分を占めていることからもわかるーそのパウロさえも、自分自身のなかに、どうしても正しく真実な生きかたができないのを思い知らされている。
パウロは、「 善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいる。」と述べ、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマの信徒への手紙7の24) と言っているほどである。
そのような人間に対して、そのすべての道において正しい御方とは、ただ神だけ、そして神のすべてを受けているキリストのみである。
そうした絶対的基準を私たちは与えられている。 人間は、どうしても自分を認められたい、自分がほめられたいー等々の自分中心の心が深く宿っているが、そうした世界と根本的に異なるのが、神の道である。それは聖書に指し示されている道として、万人がいつでもそこに立ち返ることができる。
また、私たちの周囲にひろがる自然とは、そのような神の創造の業であるゆえに、いつもそこには、神の慈しみ、愛がある。冬の厳しい寒さのなかにも、また暑い夏のさまざまの自然の姿、そして広大な海の広がりやその色合い、また大波のとどろき、星々の輝き等々ー通常はそこに慈しみや愛があるとは考えられていないようなものもすべてそこには神の慈しみ、愛がある。
そうした自然そのものだけでなく、人間の歴史に起こっていく数々の出来事にも、それらは全体としては、神のわざであるゆえに、時代を超え、場所を問わずにそこに神の慈しみがあるーそれがこの数千年前に、この詩をつくった人が受けた啓示であった。
このようなことは、人間の思想や思いでなく、神の啓示であり、表面的に見える現象だけを見て、人間の思いや考えだけで見るならば、到底そこに神の慈しみがあるなどと思えない。
そうした状況においてこそ、信仰が必要となり、その信仰によって与えられる聖霊こそが、そうした謎のようなこの世界に根源にある真実を教えてくれるものとなる。
「聖霊が、すべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせる。」(ヨハネ:14-26)
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野草と樹木たち アサツキ (北海道瀬棚への途上にて 2017.7.13)
これは、北海道の小樽から、南西部の瀬棚地方に向う途中の海岸での撮影です。
アサツキとはネギの仲間で野菜として栽培もされている植物ですが、このように海岸近くや山野の一部にも自生しているものなのです。
このアサツキは、絶壁の岩の上に自生していたもので、日本海のひろがる広大な風景を眼下にするところです。ここは、こうした崖であり、ここに至る道筋も危険なので、この花に気づく人はごく少ないと思われます。この火山性の礫岩の上にあって、激しい潮風や、冬の吹雪が吹きすさぶ岩の上にこのような可憐な花が根付いていることに驚かされます。
人間も動物もこうしたところでは生きていけないところですが、この植物は、その厳しさに耐えて太古の昔からここに根付いてきたのであり、その生きる強靱な力を感じさせられたことです。
草は弱々しいものー引き抜けばすぐに枯れてしまうし、滅びてしまう。 他方、そのような弱いと見えるものに、こうした樹木も育たず、動物たちも生きられないような厳しい環境でも生きていく力が与えられています。
神は、弱いところに力を表される、ということがこのような自然のなかにも見られるのです。
「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」(Ⅱコリント12の9) と、キリストが使徒パウロに語りかけた言葉を思いだします。(文・写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 273「今日という日のうちに、日々 励まし合いなさい。」 2017.10.11
あなた方のうち誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。(ヘブライ人への手紙3の13)
Every day, as long as this today lasts, keep encouraging one another so
that none of you is hardened by the lure of sin,
罪の力に惑わされて心が、神の愛や真実に対して心動かされなくなる。そうした最も重要なことに関して反応しなくなる固さが生じないように、一日一日を大切にする。それは、自分だけが心して生活するーというように思いがちであるが、ここでは、とくに「互いに励まし合う」ことの重要性が言われている。
自分の力や意志だけでは、本当の真理や愛から離れていくことがあるーそれは、私自身、知人において実際に見てきたことである。
自分だけの意識や努力では足りないということはいくらでもある。この世で生きていくことは、たくさんの人たちによって助けられ、教えられ、支えられてできることで、信仰に生きることにおいても同様である。
キリスト者が、その信仰を維持できてきたのは、本人の祈りと意志とともに、周囲のさまざまの人たちの祈り、励まし、援助…等々により、神がそのことを祝福し、支える力を与えられてきたからでもある。
キリストも、「二人、三人私の名によって集まるところに私はいる」 と言われた。これは、単独でなく、複数の人たちが、主を信じ、主を仰ぎつつ集まるところに、主がいてくださるということである。
このことは、最小限二人または三人でもいいから、互いに祈り合い、互いに励まし合い、互いに仕え合う…ということがいかに重要であるかを指し示す言葉である。
使徒パウロも、絶えず祈れ、と祈りが日々のつとめであることを教えているが、それとともに、「私のためにも祈ってください」(Ⅰテサロニケ5の17、25)と願っていて、祈りは互いになされることが示されている。
さらに、「私たちが目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるようになるために、あなた方は、励まし合い、互いが造り上げられるように心がけなさい。」(*) と述べている。
また、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。」(**) とも言われている。
このように、キリストを信じる人たちは、キリストのからだ、というべき存在なので、からだの一つの部分の痛みは全身の痛みとなり、喜びも同様に全体の喜びとなるーそれがあるべき姿だと言われている。
互いに励まし合うことは、互いに祈り合うことを含んでいるので、 一日一日がそのようになされていくべきことを、今日の聖句は指し示している。
(*)Ⅰテサロニケ5の10~11より (**)ガラテヤ書6の2
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野草と樹木たち シラネアオイ(秋田駒ヶ岳 2017.7.21)
シラネアオイは、高山に咲く花として、とくに愛されているものの一つです。その柔らかな淡紅色の花と大きな葉、それらは、見るものの心を包み込むような柔和さがあります。
この花を見るために、高い山に毎年のように登るーといった人の文を読んだことがあります。花にそれほどの関心がもてない人には、時間と費用、そしてエネルギーを注いで、単に特定の花を見るために登るーなど考えられないのではないかと思われます。
しかし、愛する花は、一目見るだけでも心がどこか満たされるーということがあります。次は、「星の王子さま」にある言葉です。
…だれかが、200まんの星のなかにもふたつとない、どれか一輪の花を愛するようになったなら、そのひとはきっと、星空をながめるだけで幸せになれる。『あのどこかに、ぼくの花がある……』って思えるから。…
聖書のなかには、神の御顔を仰ぎたい、そうして深く満たされたい、という切実な願いが記されています。神は、愛や真実そのものであるだけでなく、このような美しい花を創造された美の根源でもあるのです。
… わが魂は生ける神を求めて慕い、渇く。
いつ、わたしは御前に出て神のみ顔を見ることができるだろうか。(詩篇42の2)
…わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して満ち足りるでしょう。(詩篇17の15) (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 272「恐れるな、私はあなたの右の手を固く取る 」
2017.9.14
主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う、
恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。(イザヤ書41の13)
I, the LORD your God,
hold your right hand; it is I who say to you,
"Do not fear, I will help you.
この世はさまざまの恐れで満ちている。幼いころは、単純に闇がこわい、という状態であるが、次第にすでに小学生のときから、友だちにいじめを受けるという恐さにはじまり、さまざまの形で人間への恐れが生じてくる。
周囲の友だちや同僚、あるいは家族等々から無視されるのではないか、というような何らかの恐れは、生涯つきまとう。
そして人間が必ず直面する老齢化そして死ということを見つめるとき、あるいは、この世界全体がこれからどのようになっていくのかーという漠然とした恐れが魂の深いところにあって抜き去ることができないようにもなる。
そのようなさまざまの恐れが人間を取り巻いている。 そうしたいっさいの恐れに対して、すでに数千年まえから神は語り続けておられる。
その一つがここにあげた言葉である。 人が弱って倒れてしまいそうになるとき、しっかりと右の手をとって支えてくれる人がいたらじっさいに支えられる。
体だけでなく、深い心労ゆえに倒れてしまいそうになるとき、その心のそばに立って、私たちの存在を支え、助け起こしてくれる人がいたらどんなによいだろう。
しかし、現実には、体の重い病気にしても医者や家族さえその痛みや苦しみにどうすることもできないということがしばしばであるし、体とともに心も折れてしまったときには、そのような自分を助け起こしてくださる御方を知らないときには、生きていけなくなる。
そのような絶望的状況にあっても、私たちの右に立って、右の手をとり、支え、助け起こしてくださる御方ーそれが聖書に記されている神である。
キリストは、死んだと思われた人の手をとって起こされ、よみがえらせた。(マルコ福音書5:40~)
現在や将来の自分や家族、さらには周囲の世界のさまざまのことについての不安、恐れで生きる力が消耗していくとき、そしてさらには立ち上がれなくなったときでも、主は、私たちのそばにたって 「恐れるな、私があなたの右の手をとって起こし、助ける、そして御国へと導くのだから」と語りかけてくださる。
これは、数千年を通じて、無数の人たちがその苦難のときに 静かな細き声として聞き取った神からの語りかけなのである。
コマクサは、高山に咲く花として、とくによく知られています。
これは、秋田駒ヶ岳の火山による砂礫(砂、小石)が広がるところに咲いていたものです。
高さは10㎝程度、花は淡紅色。ほかの植物が生育できないような場所に、緑の細かい切れ込みのある葉のなかから伸びた花茎に咲くこの花の色や形は、見る人がだれも、驚くような美しい植物です。
とくに冬場は、風雪はげしく、気温も氷点下数十度にもなるような中部から東北、北海道にかけての高山や寒冷地ーシベリア東部、千島、カムチャッカに分布する、しかもこのような砂礫ばかりのような地ーどこからみても可憐な美しい花が生育しうるとは思えないので、とくに印象的な花です。
人間が園芸用として作った植物は、虫害から守るために消毒をし、また水や肥料をやり、日当たりも必要、温度管理や剪定等々も必要です。
しかしこのコマクサは、そのような世話などいっさい不要で、それどころか、上の写真にあるような荒涼としたこの荒れ地に、しかも何年もかかって花を咲かせるという忍耐強さを持っている植物です。
そのことを思いめぐらしているとき、聖書とその神の言葉を信じる神の民のことが浮んできました。雨がごく少ない砂漠や荒れ地の広がる地域のただなかに種まかれ、周囲の大国の侵略に脅かされ、滅ぼされていく状況にありながら、そこで世界の人々に深い影響を及ぼしていく真理の花を咲かせていったのが聖書だといえます。 現代の私たちにおいては、古代にはなかったような、異なるかたちで荒涼とした精神世界が広がっていますが、そのただなかにあって、神の御手がはたらくときには、私たちのうちに命の水が注がれ、葉が茂り、花を咲かせ、実りを与えられることを思います。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 271「主はすぐ近くに 」 2017.8.15
主はすぐ近くにおられる。
どんなことでも思い煩うのはやめなさい。
すべてのことにおいて、感謝をこめて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ書4の5~6より)
The
Lord is near.
Do
not be anxious about anything ,
in everything by prayer and supplication, with thanksgiving,
let
your requests be made known to God.
多くの人は、聖書に言われる愛と真実の神など、まったく信じられないという。いるにしても、そのような神は、自分とは無限に遠いところにいて何の関係もないのではないかーと思っているようである。
私自身もそのような状態であった。 しかし、本当はこの聖句にあるように、すぐ近くにおられる。私たちの心の目がふさがれているゆえに、はてしなく遠くに、あるいは存在しないように感じるのである。
自分のさまざまの正しいあり方にとどまることができない心の状態(罪)を思うとき、それを赦して、心を軽くしてくださるという実感を与えられたとき、神は突然近くにおられるのを実感するようになった。それはいまから50年余り以前のことであったが、はっきりと思いだすことができる。
人間の愛でも、離れていても、思いだすだけで心がある種のあたたかいものを感じるということはあるだろう。それは相手の人の心を間近に感じるからである。
心の目に浮かぶ十字架の上から、キリストが、あなたの罪は赦されたのだーという静かな語りかけを聞き取るとき、神は、そしてキリストはいかなる人間よりも近くにおられると実感できるようになる。
近くにいてくださるのを実感すればこそ、その神に自分のだれにも言えないような苦しみや悲しみをも打ち明けることができる。
そのような重い心や沈みがちな心のただなかで、感謝などできるだろうかーとだれしもが思う。そうした中でも、必ず神は愛と真実の神でしかも全能ゆえに私たちの願いを何らかのかたちで聞いてくださると信じることができるゆえに、感謝を込めて祈ることへと導かれる。
また過去の数々の主による導きを思い起こすとき、現在与えられていないものでなく、与えられているものを思うときに、感謝はうまれてくる。
そうした感謝をもって、心の願いを神に打ち明ける-そのようにすることは、神がいかなる御方であるかを知り、過去、現在そして未来を見つめる心の姿勢があるほど、この聖書の言葉でいわれているような祈りへと導かれるのがわかる。
主は近いーこの言葉は、また、主がふたたび来られて悪の力から最終的にこの世界を救いだされる時が近いということも含めて言われている。
私たちは、いろいろな理由をつけて神など遠くにいると思ってしまったり、あるいは、愛の神など いないのではないか-などと考えがちである。
そのような私たちに向けて、常に主は近くにあって語りかけておられるのである。
野草と樹木たち チングルマ (大雪山 2017.7.18)
チングルマとは、稚児車(チゴグルマ)から出た名前で、花が終わったあと、その実(花柱)が伸びて風車のように見えることからと言われています。 これは高さ10cm前後、3cmほどの白い花で花びらは5枚。中部地方のの高山から北海道、アリューシャン、カムチャッカなどに見られる花で、しばしば群落をつくります。
上の写真は、大雪山の数百メートルに及ぶと思われる広大な群落で、天然の雄大な花畑です。この花は、雪渓の周辺などでよく見られますが、この写真の地域は、冬には厚い雪で覆われ、その下で長い期間を眠り続けて、初夏になって雪解けが終わるころに成長して一斉に花を咲かせます。
このチングルマだけを、ここに特別に咲かせているかのような、そのような気持ちになるほどにこのあたり一面にこの花が広がっているので、神の見えざる御手によって手入れされた感がします。
北方の厳しい環境にて咲くこの花は、夏の数カ月花を咲かせて種をつくり拡散させて雪に埋もれていきます。神はどんな厳しい状況にあっても驚くべき清いもの美しいものを生み出すことができるのを実感させてくれます。
人しれず奥地の高山に咲く花々、神ははるかな古代から、このように清く、美しいものを世界に至るところに創造され、人間の心にもその一部を注いでこられたのを思います。
(文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 270 「キリストの言葉を」2017.06.13
信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。 (ローマ書10の17)
キリストの言葉を、あなた方の内に豊かに宿らせなさい。 (コロサイ書3の16)
Faith comes
by hearing, and hearing by the word of Christ .
Let the
word of Christ dwell in you richly.
信仰は、何からはじまるのか。それは、キリストの言葉を聞くことによってである。キリスト以来2000年、世界中で、キリストの言葉によって信仰を与えられた人たちにより、その生涯にわたってその真理が体験され、証しされてきた。
12弟子たちもキリストから直接に呼びかけられ、また使徒パウロも復活したキリストからの語りかけによってキリストを救い主と信じるように変えられた。
現在の私たちも、復活していまも神と同じ存在になったキリストの語りかけによって信仰への道が万人に開かれている。復活ののちは、聖霊となったキリストから直接に語りかけを受けて信じるようになった人たち、また直接のキリストの言葉でなくとも、信じた人の言動、またその生き方によって、キリストの言葉を聞くようになった人、また私のように、一冊の本に書かれたあったキリストの言葉によってキリストを信じるようになった人々も数多くいる。
キリストは、遠い昔の単なる偉人ではない。現在も世界中で、生きて働いておられ、その言葉を人々に与え続けている。それゆえに、キリストを信じる人は、絶えることなく、つづいてきた。
聖書の言葉、とくに新約聖書に記されている言葉は、地上で生きておられたイエスの言葉(福音書の言葉)と共に、十字架での処刑後、復活して聖霊となったキリストの言葉を啓示されて記された言葉も多く記されている。
ローマやコリント、エペソ…等々の地方のキリスト者に宛てた手紙には、受けとった使徒たちによって書かれたものであり、それらもキリストの言葉だということができる。
さらに、キリストは、地上にこられる前には、神と同一であり、万物を創造し、さらに現在も万物を支えていると記されている。(ヨハネ1の3、ヘブル書1の2~3、コロサイ1の16~17)それゆえに、自然のさまざまの草木や大空や、星、雲、青い海、山野等々、みなキリストのご意志によって創造されたゆえに、その愛や真実、あるいは神(キリスト)の深い御計画が刻まれたものと言える。それゆえに、そうした身近な自然のさまざまの姿、色、美、力…等々もキリストの言葉の表れでもある。
そのように、さまざまのところから、キリストはその御言葉を私たちに語りかけ、新たな人たちが、キリストを信じるようになり、そして周囲の人たちに、後世へと伝えていく。
そのような力をもっているキリストの言葉を常に内にとどめることによって私たちはいかなる闇と混乱があろうとも、希望を持ち続けることが可能となる道が備えられている。
人間の言葉が、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、インターネット…等々、歴史上でかつてない規模においてこの世界にはんらんしている現代にあって、神の言葉、キリストの言葉を聞くことの重要性はそれゆえに、かつてないほど増している。
「御言葉を愛するものは、川のほとりに植えられた木のようだ。時が来れば実を結び、葉もしおれることがない。」(詩篇1篇より)
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野草と樹木たち コバギボウシ 秋田駒ヶ岳 2016.7.22
東北、北海道には高山植物が、近畿以西の山々とは比較にならないほど豊かに存在する山域があります。秋田駒ヶ岳(標高1637m)もその一つです。 各地にある駒ヶ岳という名前の山々でも、最も高山植物が多い山と言われています。
この花は、多くの人が登る登山ルートとは別の、少数の人たちしか歩かないルートで見いだした花です。ギボウシシは、園芸用として花壇にもよく見られる花ですが、各地の山野でも見られ、これはその一つです。葉の大きいオオバギボウシに比して、小さい葉なので、コバ(小葉)ギボウシといいます。
この花の高さは30~ 50cm、葉の長さは10~20cm、幅は4~8cmほど。花期は7~9月で、ろうと斗型の濃い紫色から淡紫色の花をやや下向きにつけます。
標高1500mほどの、人のわずかしか通らない登山道にあって、緑の高原にこの紫色の花が静かにたたずんでいる様は、印象に残るものでした。
誰一人見るものがなくとも、はるかな昔からこの付近で咲いていたであろうこの花、神は、人間とちがって他者から評価されることを目的としてきれいに着飾ることなく、ただ天に向って咲いています。
沈黙でありつつ雄弁、この花が高原の草地のところどころに咲いている姿を見ていると、その声なき語りかけを聞く思いです。
つぼみも開いた花もその姿や色調が、接する者に何か天の国からの雰囲気を感じさせてくれます。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
2017.5.17
神は人の思いを知り
心を正しく見抜き
人の言葉をすべて聞いておられる。
主の霊は全地に満ち、
すべてをつかさどり、あらゆる言葉を知っておられる。
(旧約聖書・続編 知恵の書1の6~7より)
God
observes the very soul and accurately surveys the heart, listening to every
word.
Because the
spirit of the Lord has filled the world, and that which holds all things
together knows what is said,
この世において、自分の思いー考えることや苦しみや悲しみをすべて知っている人間がいるなどとは到底考えられない。たとえ夫婦や兄弟、あるいはキリスト者同士であっても、それぞれの抱えている問題の深さ、難しさなどは到底わからない。
植物の無数の葉に一つとして同じものがないように、私たちの心の世界も全く同じなどということはあり得ない。
科学技術や一般の学問がいかに発達しようとも、それぞれの人の心の奥に何があるのか見抜くことはできない。光が長い年月をかけて到達するような遠い星の成分がわかっても、なお、すぐそばにいる人の心は分からない。
人間にはこのような決定的な限界がある。しかし、神だけは、私たちすべての人の心を見抜き、その高ぶりや罪も、あるいは良き願いや切実な祈り、また突然の災害や事故、あるいは愛する家族の死などで打ちのめされている心をもすべて知っておられる。
それゆえに、心のうちで悪しきことを考えていても、神はそれを見抜き、そのことに対しても必ず何らかの裁きを与える。そのような心を持ち続けていれば、清いものに感動し、真実なものへの憧れなどが消え、真によきものを味わったり受けられなくなることがその裁きである。
逆に、だれにもわかってもらえない悲しみや苦しみ、訴えも、神だけはわかってくださるし聞いてくださっている。 それは、聖書に示されている神は全能であり、しかも正義の神であり、愛の神であるからである。
このような神を信じて、その心の深い思いー苦しみや呻き、また救いの喜びや感謝をありのままに、表しているのが、旧約聖書の詩篇である。
…主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙しないでください。わたしは御もとに身を寄せる者…。(詩篇39の13)
…主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
(詩篇40の2)
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野草と樹木たち クルマユリ(車百合)
秋田駒ヶ岳(標高 1,637m )から湯森山への縦走路にて 2016.7.30 撮影
クルマユリは、日本各地に広く分布するオニユリに似た花を付けますが、葉が写真のように、放射状に、車の輻(中心から放射状に出ている棒)のようになっているのでこの名前がついています。
この写真のものは、秋田駒ヶ岳からほとんど人が歩いていない縦走路から少し脇道に入ったところで見いだしたものです。
オニユリは、日本各地の平地に広く見られるのですが、この クルマユリは、寒冷な地域のもので、本州の中部から東北などの深山~北海道の山、さらに千島や樺太等に見られるものです。(徳島の剣山などにもあるとされるが稀。)
どこにでも見られるものでなく、何時間も歩いてもどこにも見られないことが多いです。
同じように、平地でなく山地に見られる似たような色のユリに、コオニユリがあり、その名のように小さく、オニユリのようにムカゴを付けないで種で増えるということです。オニユリはムカゴが落ちると次々と発芽して、毎年増えていきますが、このクルマユリはムカゴもなく、そのように増えないのです。
緑の山野を歩き続け、時折珍しい高山性の花々が見られるなかで、ただ一株だけこのクルマユリが咲いていた。ずっと以前に十和田湖への山道でやはり一株だけ咲いていたのが印象的でした。 (幾つかの県では絶滅危惧種に指定されています)
北海道では低い山でも見られ、以前に小樽市の低い山で見かけたことがあります。
このように、ただ一株、赤橙色(オレンジ色)の花が、緑の草原、山野で咲いているのはとても目立つものです。
このような花が一輪咲いているだけで、その周囲の自然がいっそう引き立ちます。
この世界においても、キリストという大いなる花が咲いているだけで、全世界がうるおされてきたのを思います。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
2017.04.12
主よ、深き淵からあなたを呼び求めます。…
主よ、私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。 …
私は主に望みをおき、主のみことばを待つ。 (詩篇130の1~6より)
From the depths of my despair I call to you, Lord.
Hear my cry, O Lord; /listen to my call for help!
I wait for the Lord, my soul waits,And in His word I do hope.
私たちは、しばしば深い淵に陥る。病気、事故、災害、そして、老齢ゆえのさまざまの苦しみや孤独、あるいは家族の病気などの難しい問題、そしてしばしば気付かないが自分の罪ゆえに。
そして、健康なときには思いもよらなかった苦しみや悲しみ、魂にかかってくる重荷に耐えかねることもしばしばである。そしてそのようなときの重荷は、人それぞれに異なり、他者はたいていの場合本当には共感できないために、その重荷、悲しみはわかってもらえない。
そのようなとき何が私たちをその深き淵から救いだしてくれるのか。それはどのような時代や状況にもかかわらず永遠の課題である。
聖書には、そうした人間の根本問題については、そこから引き上げられ、解放される道が指し示されている。
いまから数千年前に生きた一人の人間が、それを詩のかたちにして残したが、それは現代の複雑な時代にいきる私たちにとってもそのままあてはまる。
それは、唯一の愛の神、宇宙のすべてを無限の英知と計画をもって創造し、かついまも支えている神を信じて、その神に向って叫ぶこと、祈ることである。
それはどんな人にも開かれているゆえに、過去数千年にわたって無数の人たちがこの詩の作者の経験を追体験することができてきた。
「私を仰ぎ望め、そうすれば救われる! 」 (イザヤ書45の22)
私たちはただ、神を仰ぎ望み、私たちの心を集中して神に訴えるー、そして、そこから語りかけられる神の言葉とその力を待ち望む。
それによって とき至れば、主は、それぞれが置かれている深き淵から逃れる道を備えてくださる。
もちろん、私たちの思うようには、解決の道が与えられないときもあり、すぐには答えや力が与えられないことも多くある。
しかし、人間の最も深い苦難や悲しみの深き淵にあって、ほかのどんな方法がそこから脱することにつながるだろうか。
その深き淵から出ることができないままに、絶望してみずからの命を断つ人、断とうとする人たちは毎年何万人とおられる。
死こそは、私たちすべてが向っていく深い淵である。その死とは何であるのか、についても哲学や思想、さまざまの知識等々は明らかにできない。ただ、宇宙すべてを創造された神のみがその死の本質を知り、かつその死の力にうち勝つ力ー復活の力を持っておられる。
私たちは、どのような深い淵であってもそこから救いだして命を与えてくださる神を信じ、キリストによる罪の赦しを与えられて歩む道が与えられている。
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野草と樹木たち ソバナ 伊吹山 (標高1,377 m)滋賀県と岐阜県の県境付近にある) 2016.7.30 撮影
伊吹山、この山は、それほど標高は高くないにもかかわらず、山頂近くの一帯には、数多くの高山植物が生育していて、車でも手軽に登れることもあって、シーズンには多くの人たちが訪れます。山頂下の駐車場から、1時間ほどで頂上まで登れるし、駐車場付近でもすでにいろいろな植物がみられます。
伊吹山は、遠くの新幹線や高速道路からもそのどっしりした山容が目立つのですが、その無言にそびえる山に登ると、頂上近くにはこのようなさまざまの平地にはみられない植物たちが、語りかけてきます。
この花の名前のソバナ とは 崖など切り立っている 峙ったところにみられるからという説明もありますが、たしかにこの写真の場所も人が登れないような崖にさいていたものです。
キキョウ科の青紫の美しい花が、崖の多数のほかの植物たちのなかから、茎をのばしてさいている様子は、とくに心惹かれるものがあります。
多くの野草が緑ゆたかに生育していても、こうした美しい形、色、姿をもっているものはわずかです。
人間の世界でも、とくに神に引き上げられて聖霊の賜物を受けて、それを多くの人たちに分かつべく、選ばれる人もあり、神の御計画は、こうした野生植物にも感じられます。 こうした色彩やすがたを通して、私たち人間に 天の世界からのメッセージを伝えようとしておられるのを思います。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 267 「主はすべての苦難の中から救いだされる 」2017.03.08
正しい人には、幾多の苦難がある。しかし、主はすべてその中から救いだされる。 (詩篇34の19)
Many are the afflictions of the righteous, but the LORD rescues them from them all.
神の目からみればみなさまざまの自分中心という本性(罪)のない人はいないので、正しき人というのはいない。しかし、ただ神の正義やその全能を信じるだけで、正しいとみなしてくださる―ということはすでにはるか数千年の昔に、旧約聖書のアブラハムにおいて言われ、キリストの時代以降もこの本質的真理が福音となって今日までつづいてきた。
キリストは神の本質を持っておられ、そのキリストが私たちのそうした自分中心の罪というものを担って十字架で死んで下さったーそう信じるだけで正しき者だとみなしてくださるようになった。 そのような正しさを神から受けたものは、神からも愛される。しかし、苦難はなくなるわけではない。
それは、旧約聖書の時代から今日にいたるまでずっとつづいてきた。キリストご自身、完全な正しさと愛によって歩まれたが、その伝道の最初から大きな苦難がつきまとってきた。
キリスト以降の時代においても、ただちにローマ帝国の数百年にわたる長い迫害の時代が続き、ようやくキリスト教は認められたが、そこからまた周囲の国々に福音を告げようとする人たちは、その先々で大きな迫害を受けることになった。
日本でも300年近い間、キリスト教は厳禁されて見つかると耐えがたい拷問を受け、処刑されることになった。 そのようなこと以外に、身近な生活のなかでも、キリスト教信仰を与えられ、この世の流れとは違った正しいあり方を求めていくとき、何らかの苦しみが伴うことは常に生じてきた。キリストも「この世では苦難がある。」といわれた。使徒パウロも、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言った。(使徒言行録14の22)
苦難 ― それは信仰あるものも、信仰を持たないものもさまざまの形で襲ってくる。 病気や事故、災害、また、周囲の圧迫、迫害、人間同士の憎しみや排斥等々、いかに科学技術が発達しようとも、また大学など教育機関が普及しようとも、人間の苦しみは次々と新たなものが生まれてくる。科学技術の発達で以前には想像もしなかったような苦しみが新たに生じてきた。数多くの有毒廃棄物、排気ガスによる環境汚染、交通事故、さらに核兵器や原発といった取り返しのつかないような大災害をもたらすものまで作られてしまった。また医学、薬学の発達で薬の副作用など新たな苦しみも多く生じ、寿命は伸びたが、それによって健康を失ったまま、寝たきりや孤独が長期にわたるといった以前にはなかったような状況が生まれ、長く苦しみ続けて死ぬ人たちが増大してきた。
それらを見てもわかるように、人間社会はどこまでいっても苦難はある。闇はある。そうしたこの世の根本的な問題から救うのは何なのか、それこそ、そうした人間が生み出した一切の困難や危険、さらには自然の災害などの苦しみからも救いだす力を持っておられる神の力を受けることである。聖書に示された愛と全能の神だけが、そうしたあらゆる苦難のなかから救いだす力を持っておられる。
困難な時代を前にして、そのすべてから救いだす神の力については、ここにあげた御言葉のように、すでに数千年も昔から明確に示されている。
私たちは、今後生じるかも知れないいかなる闇にも光を与え、どんな困難からでも― 死の力にも勝利する神の力に頼り、そこからじっさいに救いだしていただけることを信じるーその単純な道を歩ませていただきたいと思う。
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野草と樹木たち エゾニュウと田沢湖
秋田駒ヶ岳
2013.7.19 撮影
これは秋田駒ヶ岳の山頂部に近い所から、田沢湖を望む風景です。手前右の白い花が、 エゾニュウで、この植物は、1~3メートルほどにもなり、北国の高山ではよく目立つ花です。北海道北端の礼文島では、利尻富士を望む低い山の斜面にも多くみられ、もう50年数年前の学生時代に北海道の山を登る旅の最初に訪れた礼文島で、一番に目についたもので今もその風景がよみがえってきます。
ここでみられる田沢湖は、秋田県にあり、その湖水の深さが400mを越えて日本では最も深い湖と言われ、その色合いも微妙に変化ある深い藍色~青色となるということです。この湖は火山の噴火によるカルデラと言われていますが、その成因には不明なところもあるようです。
蝦夷ニュウという名前にあるニュウとはアイヌ語で、こうしたセリ科の大型植物を指していう言葉。セリ科の植物には、春先に私の住む徳島県の低山でもよくみられるセントウソウというごく小さな花をつける高さ20センチ内外の野草から、このような3メートルにも達するような大きいものまでさまざまのものがあり、水辺や湿った田んぼなどにもみられる食用のセリだけでなく、野菜のニンジンもこのセリ科で、なじみ深いものでもあります。
このエゾニュウはこの写真ではわかりにくいですが、大型で、草の仲間としてはどっしりとして力強さのみられるものです。セリ科特有の多くの小さい白い花々を次々と放射状に丸い形に出して、そこから日の光を受けて純白の花は、私たちに親しみをもって語りかけてくる花なのです。 空や湖の青い色、山を覆う真っ白い霧、白い花、そして植物の緑と、変化に富んだ山々の静けさと力…それらすべてに神の力と命、そして限りない美と清さを感じます。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 266 「人を養うのはあなたのみ言葉 」2017.01.18
人を養うのは、さまざまの収穫物ではなく、信じる人を守るあなたの御言葉である。 (旧約聖書続編 知恵の書16の26)
O LORD, that it is not the various kinds of fruits and crops that nourish man,
but it is your word that preserves those who believe you!
私たちを養うのは、さまざまの収穫物であり、そこから造られる食物であるということは、だれでも知っている。
私自身、大学で生化学専攻のコースであったから、食物がいかに体内で化学変化していくか、生体のエネルギーはどのようにして取り入れた食物から生じるのかなど学んだが、ここにあげた言葉のような内容は、聖書の世界を知らされるまで全く考えたこともなかった。他の学生たちも同様であろう。先生方もこのようなことはもちろんひと言も語ることはなかった。
体を支える力、エネルギーというものは食物からえられる。しかしいくら豊かな食物を食べても、心が清く、愛や真実に満ちた状態にはならない。貧しくてとても栄養的に貧困であっても、そうした純真さや愛が見られることがしばしばである。
日本では戦前と最近とを比べるなら、比較にならないほど、食物は豊かになったが、心の真実や愛、あるいは勇気、正しいことへの力、忍耐力などはより豊かになっているとは到底言えない。
そのような心の栄養となるのは、神の言葉である。
キリストは、これと同様な言葉を言われた。
「人はパンだけでは生きられない。
神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」 (マタイ福音書4の4)
神の言葉とはそれほど不可欠なものであるから、神は人間を取り巻く至るところで、神の言葉から直接に創造されたものを数知れず置かれた。それが天地至るところにひろがる自然である。そうした大空や大地や山々、また海のひろがりや草木一切は人間が作ったものでなく、神の創造によるものであり、神の言葉の別の表現である。
そしてそうした周囲に「自然」というみ言葉を配置された上で、どのような状況にある人でもわかるように、人間が理解できる言葉で、神のご意志をあらわされ、それが聖書となって万人を導き、生かし、またあらゆる悩みや苦しみをいやすものとなってきた。
…主よ、彼らをいやしたのは、薬草や塗り薬でなく、すべてをいやすあなたの言葉であった。(旧約聖書続編「知恵の書16の12、26」より)
日々を生きるための力も、また日常さまざまの病にあってそれを根本的にー魂のいやしにまで至るほどにいやすものは、神の言葉なのである。
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野草と樹木たち エゾノハクサンイチゲ (蝦夷の白山一花) 大雪山(黒岳) 2016.7.20 撮影
雨上がりの大雪山系黒岳の頂上近くなったところで咲いていた花。これは、本州中部地方の高山にみられる ハクサンイチゲ(白山一花)の北海道や東北、サハリンなどの高山に分布する変種。
遠くに、雲が晴れていく山々を展望しつつ、純白の花の群生を目にしていると、これらの花々はこのような澄みきった環境できびしい冬の寒さや風雪に耐えて生き延びてきたことを思い、その花の白さが心に沁みてきます。
白い花びらのなかに黄色い雄しべが見るものに語りかけるようなやさしさがあります。
平地の野草とちがって、こうした高山の白い花は、高潔な感がただよい、見る者をして、地上世界の汚れから引き出してくれるものです。
白―それは聖書においても罪の汚れなき状態をあらわすものとしてあらわれます。
キリストが自分の最後が近づいたときに、高い山に3人の弟子だけを伴ったとき、その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白くなったことが記されています。(マタイ28の3)
また、迫害され死に至った人たちは、天の国にて復活し次のようにキリストとともに生きるものと変えられるのが示されています。
「彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩く。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはない… (黙示録3の4-5)
どのような教養や学問、経験もあたえることができないものーそれはここに記されているような、清められること、罪からの赦しと清めです。
北国の高山に咲くこの花は、 そのような清められた世界を指し示しているように感じるのです。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)