今日のみ言葉   (2015年)

今日のみ言葉 256 「神の力があなたを包む 」      2015.12.16


 

聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。(ルカ福音書135

 

The power of the Most High will overshadow you.

 

 これは、マリアに天使が語った言葉である。未婚であるゆえ、子どもが生まれることなどないはずのマリアに、救い主となるこどもを生むという知らせであった。そんなことはあり得ない、と反論するマリアに、御使いが答えた。「神にできないことは何一つない。」聖霊の力が臨むときには、それは全能の神の力であるゆえに、人間からみてあり得ないと思われることが可能となる。

ここにあげた言葉は、マリアに対してだけ言われたかのように受けとられやすい。

しかし、聖書の記述は、その程度の多少はあれ、キリストに起こったこと、あるいは最大のはたらきをしたパウロやほかの弟子たちに起こったことは、私たちにも起こりうることが記されている。

それは新約だけでなく旧約の最初からである。 例えば、「光あれ!」というみ言葉によって闇と混沌のなかに光が生じた、ということは、単に古代の神話のような人間の想像や創作でなく、本来万人に生じることの預言でもあり、実際そのように無数の人たちに生じてきた事実である。アダムとエバが神の言葉に背いたこともまた全ての人にあてはまってきたし、今もあらゆる人間に生じていることである。

  しかし、このような奇跡といわれることも、信じない人も多い。キリスト者だと自称する人でも、聖書のさまざまの奇跡を本当にはなかったことだと思っている―そのように信じている人たちもいる。

しかし、この奇跡の問題は、本来単純なことである。私たちが信じるのは、あることができるが、あることはできないという神でなく、全能の神である。広大無辺の宇宙、そこにある膨大な数の太陽のように核融合によって輝く星々、地上のありとあらゆる動物や植物、山々、谷―等々すべてを創造し、また科学的法則それ自体をも造り出しいまも支えている神である。

そのような全能の神を信ずるなら、奇跡と思われることもなすことができるのは当然のこととなる。奇跡的なことができないような神はそもそも全能の神でない。そしてそのような不完全な存在は聖書では神とは言われていない。それは偶像の神々だからである。

聖霊の力はすなわち神の力であるゆえに、その力が私たちを覆うとき―私たちを包むように上からその力が影が覆うように私たちを包むときには、そこに新たなことが生じる。主イエスも、聖霊が与えられるときには、真理がことごとく明らかにされる、といわれた。(ヨハネ1426)それゆえに、聖霊は毎日の生活のなかでたえず導いてくださるお方でもある。イエスを裏切って何度も否定したペテロをもまったく新たにし、命を捨てても福音を伝えようとする力を与えたのも聖霊である。そして私たちの死後、復活させ、神の命を与え、キリストと同じような永遠の存在としてくれるのもまた聖霊のはたらきである。(ローマ811他)私たちも日々そのような聖霊を求め、その大いなる力が私たちを上から影のように覆い、包んでいてくださることを待ち望みたい。 

************************************* 

  野草と樹木たち    エゾコザクラ   大雪山(標高2291m   2014.7.22 撮影

  エゾコザクラ   大雪山(標高2291m)   2014.7.22 撮影

大雪山とは、2000m前後の多くの山々の総称で、その中での最高峰が旭岳(2291m) です。この写真は一見どこかの低山の麓のように見えますが、この場所は、標高が2 000m近い高山地域で、大雪山系の縦走路から、だいぶ離れたところでの撮影です。 東西及び南北の60キロほどにわたる広大なこの山域には、驚くべき多様な高山植 物が、多く見られます。 それは関西の山々の比ではなく、この厳しい北の大地に神が備えられた花園がこの 山域の各地に広がっています。 エゾコザクラは、以前にもとりあげたことがありますが、この写真の地域は以前の ものからかなり離れた場所です。命の豊かさを感じさせる周囲の緑と、そこで咲く 花の美しさは心に残るものです。 この植物は 高さは10センチ程度、草原に紅紫色 の花がとくに印象的です。 この花は、日本国内では北海道のみに見られますが、国外では千島列島やアラスカ からカナダまで分布するということで、この可憐な花が、そのような厳しい寒さや 氷雪に耐えてはるかな古代から生き抜いてきたことにも驚かされます。 神はこのように、弱いと見えるところに強靭な力を与えることのできるお方です。 他のさまざまの大木、多くの樹木、また平地にはびこる雑草などがこうした地域で は育たないにもかかわらず、この弱々しく見える植物がのびのびとその清い大地や 大気のなかで生育し、美しい花を咲かせて神を賛美しているのです。 「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10)―という使徒パウロの言葉 が思いだされます。 このような神の直接の創造になる光景は、私たちが求めるなら ば、それぞれの心のなかにも与えられるといえます。目に見えないキリストが私た ちの内に住んで働いて下さるように。 (文と写真・T.YOSHIMURA




今日のみ言葉 255 「私は世に勝っている 」      2015.11.18

 

 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ福音書1633

 

I have told you all this so that you may find peace in me.

In the world you will have hardship, but be courageous:

I have conquered the world.

 

これは、聖書の中でも最もよく知られ、また愛され、引用される言葉の一つである。「これらのこと」とは、ヨハネ福音書の13章~16章の4つの章にわたって記されている主イエスの教え、その言葉である。これは十字架にかけられる前夜の最後の夕食であり、時間としてはせいぜい数時間程度ではないかと思われるが、その間に語られたという内容は、3年間の主イエスの伝道の期間の言動、教えの全体が20章にまとめられているから、章の数からみると、わずか数時間の夕食のときの教えが全体の2割ほどにもなる。それはこの最後の教えがヨハネ福音書でいかに重視されているかを示すものである。

  その真理の凝縮された教えが語られたのは、「主によって平和(平安)を得るため」だという。それほど、主の平和というものが重要だということなのである。それはこの世の平和や平安ではない。人間の努力や平和運動、あるいは思索や知識、学問、経験によってももたらされない。ただ直接に主イエスから、キリストから与えられるものだと言われている。

そしてその平和、平安は、この最後の夕食での教えの別のところでも言われている。

「私は平和をあなた方に残し、私の平和をあなた方に与える」(ヨハネ1427

キリストが最後に残していくそれほど重要なものが、主の平和(平安)である。この平和あるいは平安と訳される言葉の原語はギリシャ語であるが、そのさらにもとにあるのは、キリスト以前の旧約聖書から受け継がれた「平和」の内容である。

それはヘブル語でシャーロームという。これは本来完成された状態を表す言葉であり、神の賜物(正義、力、愛、真実等々)で魂が満たされ、完成された状態を示す。それゆえに、この世の動向に支配されず、さまざまの悪の力にうち勝っていく。

主イエスは、私はこの世に勝利していると言われた。この世とは、悪の支配する闇の世界を意味していて、いかなる闇の力にも主イエスは勝利されたと言われている。

私たちもその主に従っていくときには、この世のあらゆる悪の力に勝利できると約束して下さった。

長い歴史において、たとえ殺されることがあってもそのような主の平和(平安)を保ちつつ、この世を去っていった人たちが数知れず存在してきた。

歴史上で最初のキリスト教殉教者となったステファノは、真理を語ったゆえに殺されたが、息を引き取る寸前に、「天が開けて主イエスが神の右に座しているのが見えた。」 ステファノは自分に向って石を投げつけてくる人たちに対して「主よ、この罪を彼らに負わせないでください!」と大声で叫んだ。」(使徒言行録75660)と記されている。

自分を憎しみのあまり殺そうとしている人たちに向けた最後の言葉が深い平安の中からの祈りだった。ここに主イエスが約束された主の平和がどのようなものであるかがはっきりと示されている。

私たちも自らの罪深さにもかかわらず、否それゆえに日々主を仰ぎつつ求め、そして周囲にもあふれ出るほどにそのような主の平安を与えられたいと思う。


  野草と樹木たち  リンドウ     山口県秋吉台高原    2013117.11 撮影 

 リンドウ     山口県秋吉台高原    2013.7.11 撮影

  秋吉台の高原に咲くリンドウ、これは以前にも取り上げたが、再度とりあげたのは、やはり、秋の野山に咲く花数多くの花々があるなかで、このリンドウはことに私の心に半世紀を超えて深く刻まれているからである。 リンドウに添えたのは、この花の咲いていた秋吉台の高原。ここは鍾乳洞がとりわけ有名であるが、この高原とそこに見られる花に関しては大多数の人は知らないのではないかと思われるので、リンドウがどのようなところで見られたかを示すためにここに入れた。 (前回と似ているが、高原も花も別のものの写真)

 リンドウ     山口県秋吉台高原    2013.7.11 撮影

いまから50年余り昔、京都の鞍馬山からはじめて、1週間近くもかけて京都北山から丹波高原という複雑な地形のほとんど人の行かない山を登り、谷を超えて福井県まで単独で歩き続けたときのことは忘れられない印象となっている。もちろん山小屋などなく、すべてテントでの野営だった。

その長い山行では雨風の激しいとき、道が分からなくなったとき、イノシシが現れておびえたこと等々、五万分の一の地図と磁石だけを頼りに、しばしば道なき道すでに廃道と地図で記されているところをもたどってその地域の最高峰の標高はせいぜい千メートル程度であったが、その複雑な地形、清い谷川、人のほとんど訪れない奥深い山域はその後各地の山々にのぼったなかでもとくに心に残るものであった。

何日も歩き続けて、ようやく日本海に流れる由良川の源流地帯にたどりつき、そこで見いだしたのが、リンドウだった。

途中の困難さのゆえに、いっそうこの花の青い色とその姿が深く心に残り、いまなおそのときの状況がありありと思いだされる。

そのころは私はまだキリスト教信仰とは無縁だった。しかし、由良川源流の静かな流れのそばで咲いていたこの青紫の花は、神からの賜物だった。当時はどのルートをとっても長大な山や谷を歩いて超えていく必要があるために、この地域にはほとんど人は訪れない。じっさい、1日中早朝から夕方まで歩き、登りつづけたのに、一人も人間には出会わなかった日が何日もあった地域である。そのような隔絶したなかで静かに咲いていた。

耳をすますとそこから天来の音楽が流れてくるようなそんな雰囲気だった。  (写真・文ともにT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 254 「この地はあなたの慈しみに満ちている 」      2015.10.10

 

 主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。

主よ、み言葉は、天に確立しています。(詩篇1196489

 

The earth, O LORD, is full of your steadfast love

Your word, O LORD, is eternal; it stands firm in the heavens.

 

この地は、混乱と闇で満ちている―日々の国内外のニュースではその感を深くする。しかし、聖書においては、この世のそうした闇を深く見据えつつ、他方で、この聖書の言葉にあるように、この地において神の慈しみ、愛が満ちているという実感を与えられていた人たちが次々と起こされてきた。

そしてそのことは、二行目に記した文のように、神の言葉が永遠に天に―霊の世界においては確立され揺らぐことなく存在してきたという実感と結びついている。

この世は至るところに苦しみや悲しみ、またそうしたことを引き起こす悪にとらわれた人間たちがいる。どこに神の愛や真実があるのか、と多くの人は現在も思っているし、ここにあげたような聖書の言葉などはまったく考えられない―という思いの人が多数であろう。

しかし、この世にはこの詩がつくられた数千年の昔から、このように神の愛や、真理そのものの神の言葉の揺るがない本質を知らされていた人たちはいて、その人たちが次の世代に、それを伝え、そこから歴史のながれのなかで、文学や音楽、哲学、あるいは人間の行動に深い影響を与え、人類を導くものとなってきた。ダンテやゲーテ、シェークスピア、トルストイ等々の作品やバッハ、ベートーベン、モーツァルト等の音楽など世界的に浸透してきた作品に接して感じるのはこうした真理の香りである。

こうした真理の永遠性を知り、その真理は弱者や背くもの、また失われたような者への愛そのものでもあるということを知ったときが、私たちが新たに生まれたときだと言えよう。

夜空に永遠の真理を象徴する星が輝いていても、そこから永遠の真理や何にも汚されない清い世界からのメッセージをくみ取ろうとする人はごく少ない。星など心して見たことがないという人たちも多い。 そのことは、神の慈しみが地に満ちていても、また神の言葉の真理が天―目には見えない霊的世界に確立されていてもそれを求めようとせず、気付かないことと似た現象である。

私自身は、21歳の頃にこのような永遠の真理の世界を突然知らされた。たまたま読んだ一冊の本―キリストの十字架を意味を説き、その真理を指し示す内容がそのような世界への扉を開くことにつながった。それは神が私に出会わせてくださったことだった。 神の御手がはたらくとき、まったく信仰とか聖書などに関心がなくとも、こうした世界に入れて頂けるのだと知らされた。


  野草と樹木たち   マルバシモツケ(丸葉下野)大雪山(旭岳)   2014.7.22 撮影 

マルバシモツケ (丸葉下野) 大雪山(旭岳)   2014.7.22 撮影

 この花は、大雪山の最高峰である旭岳(標高2290m)への登りの途中でみられた花です。高さは30cm1m程度の低い樹木です。一つ一つの花の直径は6ミリ程度の小さい花ですが、これらの 真っ白い多数の小さな花が寄り集まってくもので、全体として丸くて白い球状になっています。

このようにぴっしりと集って咲かねばならない理由などないと思われますが、植物の花の形、色、このような咲き方など実に千差万別です。

こうしたことも、創造主が無限の変化を好まれることの反映だと思われます。

私たちからみれば理由の分からないことも、創造主たる神はそれぞれの花をそれぞれの個性に創造する理由を持っておられるのだと思われます。

ちょうど芸術家が絵画や彫刻などをつくるときに、それらのひとつひとつの形や色彩、全体の構成など一つ一つに作者の直感や思考が背景にあることを考えてもわかります。

この花は、北海道や関東北部の高山などに生えるもので、南国ではみられないものです。純白の花は、創造主の清いお心を反映しているように感じられます。

この花には、花びらより長い多数の雄しべがあり、それがまたこの花に込められたこまやかな配慮として感じられます。

この花を見つめていますと、小さな一つ一つの花が私たち声なき声をもって語りかけている感じがしてきます。

そして高山の厳しい寒さに耐える強さを持つ植物ですが、この全体としての丸い形は、厳しさに耐える柔和を感じさせてくれます。       (文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 253 「あなたの重荷を主にゆだねよ 」2015.9.10

 

あなたの重荷を主にゆだねよ。 主は、あなたを支えてくださる。 主は決して、正しい者がゆるがされるようには なさらない。 (詩篇5523

 

Cast your cares on the LORD and he will sustain you; he will never let the righteous fall.

 

 重荷は誰にでもある。また、いつでも私たちが生きているかぎりある。重荷がなくなったと思っても、また思いがけない重荷自分や家族の病気その他の問題、職場のこと、あるいは将来のこと、老齢化にともなう数々の重荷、あるいは突然の災害や事故に巻き込まれて生きることそのものが重荷となることまた内乱、戦争のただなかにある人々、祖国で住むことができなくなった人、貧しさのために食物や医療にもかかれない人たち等々、いかなる時代も、、どこにいてもさまざまの重荷がふりかかってくる。

そして人生の最後に、死という重荷が圧迫してくる。それは孤独や病気、あるいは動けないとか物忘れがひどくなった等々のゆえに人から軽視、無視されていくといった精神的な圧迫感までさまざまのものがある。

そのようなこの世において、何がいったいそうしたありとあらゆる重荷を軽くしてくれるのだろうか。

  人間はそうした個々の人たちの重荷を軽くすることは、とてもできない。一部のものはともに担うこともできるだろう。しかし、病気のひどい苦しみガンの末期だと言われたときなど、その心身への重荷は医療、医者も家族もどうすることもできないものがあると推察される。

人は、しばしば日常のさまざまの重荷のゆえに、たとえ元気なときであってもさまざまの快楽でそれを忘れようとする。そうしたことの一つとして大量のアルコール飲料が消費され、さらには麻薬のようなものまで用いられることがある。そうして自分や周囲まで害悪をもたらすことになる。またそうした重荷のゆえに、不満をもち、あるいは苦しみや悩みにつぶされて生きていけなくなる場合もある。

私たち、いかなる重荷であってもそれを軽くしてくれるものを無意識的に求め続けている。しかし、どんな人にに対しても重荷を軽くしてくれるものそれは人間ではない。科学技術や医療でもない。それらすべてを超えたものでなければ人間のありとあらゆる重荷を軽くするものはない。

それが、はるかな昔から存在しつづけている愛と真実な神であり、そうした存在以外にはあり得ないということに気づく。

主イエスも、この詩がつくられてからこれがダビデのものとすれば千年ほどものちになって、このことを言われた。

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ1128

*************************************

野草と樹木たち   ソバナ (岨菜)  伊吹山(13777m    2015.8.3 撮影

 ソバナ

  キキョウの仲間であるこのソバナは、花の多い伊吹山でもほとんどの人が訪れる山頂に近い駐車場からのいくつかの頂上への道でも見かけないもので、この写真は、ほとんど人が気付かない山の崖のようなところで咲いていたものです。

この花の名前はソバナですが、ソバ(岨)とは急斜面あるいは崖のようなところを意味する言葉で、若芽は食用にされていたとのことでこの名前があります。

さわやかな、薄い青紫色のこの花は、おそらくたいていの人にとって好まれる色とその姿だといえます。

こうした青、あるいは青紫の花は、山野に自生するリンドウがとくに知られていますし、愛好されています。

しかし、この花やリンドウは一般の庭ではそぐわないように思われます。自然の山野において周囲のさまざまの野草とともに咲いているものが最も美しくまた私たちに語りかけるものを感じさせてくれます。

さらに青紫のこうした花は、私たちの頭上に広大な広がりを見せている大空の深さと清さをも思い起こさせ、そこからさらに神の国をも指し示しているようです。

赤い花は情熱、緑なす草原や若葉などは命の希望を感じさせ、そしてこの花のよう青は、澄んだ深いものの存在を私たちに指し示しています。

自然の世界には、とくに身近な植物にはさまざまの色、形、匂い(香り)、そしてさらに四季によって赤、黄色、褐色等々の葉の色の変化、そしてさまざまの色彩をもった果実をもつけます。

そして、樹木であれどその全体としての樹形、幹の表面や枝の伸び方等々もじつに変化があります。

そのような多様な姿をもって、神は私たちに自然を通してメッセージを伝えようとしておられるのを感じます。

それは普通の言葉でなく、霊的というべき言葉で語りかけているといえます。             (文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 252 「さまよいから魂の牧者のもとへ 」 2015.7.10

 イエスは十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。それは、私たちが罪に対して死んで、義に生きるためだった。

そのイエスが受けた傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

あなた方は、羊のようにさまよっていたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへと戻ってきた。 (Ⅰペテロ22425より)

He himself bore our sins in his body on the tree, so that we might die to sins and live for righteousness; by his wounds you have been healed.

For you were like sheep going astray, but now you have returned to the Shepherdb and Overseer of your soul 

 

人間はさまよっている。はるかな古代から、現代に至るまで、どのような民族、国家であっても、またいかに現代のように一部の欧米の国々のように福祉が整い、豊かとなっても、なお魂のさすらいは止まることがない。

若くで元気なときも、間違った道へと迷い込む危険は大きく、さまざまの快楽に引き込まれて大きく道を踏み外してしまうこともある。貧困であってもまた経済的に豊かであっても、人間はそれぞれに迷い、さまよっている。

多くの日本人は死後もその魂がさまようと信じている。それゆえに、死者に供養をしてそのさまよいをとどめないと、生きている者たちにたたってくるといわれてきた。

さらに、日本全体、世界もさまよいのただなかにある。どこに向っているのか、だれも本当のことはわからない。いかに科学技術や経済学、哲学を学ぼうとも、こうしたはてしなきさまよいは止めることができないのである。

そのような、どこまでも続くと思われる人間のさまよい、さすらいを根本的に止めるものはあるのだろうか。

それが、聖書に記されている神、キリストだけがそのようなさまようものをとどめ、揺らぐことのなきところへと導いてくださる。

さまよいの根源たる人間の自己中心、欲望中心の魂を方向転換して、壊れることなき真実と愛をもたれる神とキリストに立ち返るときに、私たちは初めて、そうした世界に満ちているさまよいの力から抜け出すことができる。

この世界には、どんな学者、政治家も真の牧者導き手となることはできない。人間の学識や経験というものはきわめておおきな限界をもっており、明日のことすらどうなるのかそうした学問をいくらおさめても確実なことはだれひとり言えないことからもわかる。

すべてを見抜き、万物を創造し、かつ現在も支えておられる神だけがその愛をもって私たちの魂をみちびき、世界を導くお方なのである。

そしてその神を牧者とするためには、何らの能力も経験もいらない。ただ、いま、その場において、そのような神とその神が地上に送られたキリストを信じるだけでよいというのがキリスト教といわれる信仰なのである。

いまも神は万人にむかって、この神とキリストのもとに立ち返れ!  とたえず呼びかけておられる。

*************************************
野草と樹木たち   ウコンウツギ    大雪山(赤岳)          2013.7.16 撮影

ウコンウツギ


 コマクサ平からの赤岳
(山の写真は、 コマクサ平からの赤岳。)

この花は、日本では本州北部岩手、青森の高山と北海道の高山にだけみられるウツギの仲間なので、大多数の人たちには、直接に見ることができない花です。

ウコン(その根茎は黄色い染料の原料、また、薬用、カレー粉などに使われる。)のような黄色の花ということでこの名がついています。

これは、赤岳頂上への道の少し下部に見られた。徳島では聞いたことのな小鳥たちの澄んださえずりのある樹林帯の小さな谷沿いにてしずかに語りかけるように咲いていたものである。

この地上には、平地からこのような高山に至るまで、赤、白、青、青紫、ピンク、黄色等々、さまざまの色の花がある。それらの色彩が花のそれぞれ独特の姿、形とあいまって、人間の心に向けられて咲いているのを感じる。

私たちは、山々を覆う緑とそのなかにそびゆる樹木の力強さ、さらにそのなかに沈黙しつつ咲く美しい花々、また日あたりのよいところには別の多様な野草たちと実に変化に富んだ植物たちに出会う。

それらすべては神の国の美と力と清さ、そしてその限りない多様性を指し示しているし、また神はそうしたさまざまのものをもって現代の私たちにも語りかけておられる。                                (文・写真ともT.YOSHIMURA















今日のみ言葉 251 「神は眠ることもまどろむこともなく 」2015.6.10

 

私は山に向って目をあげる。

わが助けはどこから来るか、

わが助けは天地を創造された主から来る。

主はあなたの足がよろめかないようにし、

眠ることなく守ってくださる。(詩篇12113より)

 

I lift up my eyes to the mountains; where is my help to come from?

My help comes from the LORD, who made heaven and earth.

He will not let your foot  stumble

He who watches over you will not  fall asleep !

 

私たちの永続的な助け、救いはどこから来るのか。そもそもそのような変ることのない助け手がいるのか、それはだれにとっても人生の過程で繰り返し私たちの前に浮かび上がってくる問題である。

生まれつき、非常な貧困や困難のなかに置かれているような、アジア、アフリカのさまざまの国、あるいは、病気とか体の障がいによって重い荷を負って生まれてきた人たち、さらにそうでなくとも、生きていく過程で自らの罪、あるいは高齢となって家族や友人もいなくなり、あるいは見捨てられた状況に陥った方々も数知れずいる。

そうしたあらゆる人々へのメッセージがここにある。周囲にひろがるこの天地宇宙を創造したお方神こそはそのような助けである。

それは限りない希望である。人間の助け肉親や友、また医者やカウンセラー、あるいは福祉関係の人たちによってももちろんさまざまの助けを受けているし、それがさらに大きな苦しみに陥ることから助けられたという人たちもいくらでもいる。私もそうしたいろいろなことによって助けられてきたのを思い起こす。

しかし、そのような助けであっても、決定的な限界がある。それはいよいよ医療も限界となって、死が近づくときには、死から救いだすことに関してはどうすることもできないということである。あるいは死を思うような悩み苦しみ、あるいは重病のゆえの絶望的状況となれば、もうそうした助けはどうすることもできない。

しかし、そのような状況に陥ってもなお、助けであり続けるのは、天地万物をも創造された全能の神だけである。私たちがいよいよいっさいの助けが失われる死ということに直面していっそうその神の助けは明らかになってくる。信じる者はだれでも、永遠の神の国へと導いてくださるからである。

老年となり、心身の機能がつぎつぎと失われていくさなかにあって、なおこの神の助けだけはいっそう心にはっきりと感じられてくるのは、大きな恵みである。しかもこれは病気の人、孤独な人、貧しい人いっさいに関わらず、ただ、心から神を信じ、その神がこの世に送られたキリストを救い主と信じるときに与えられる。 そうして万能の神ゆえの助けであるゆえ、日常の生活においてもたえず守られることを信じることができる。

 

*************************************

野草と樹木たち      クチナシ   日峰山(徳島県)       2015.6.8 撮影    

クチナシ

  クチナシは、園芸店でもよく見られるし、庭に植えているのもしばしば見られる花です。この写真は、わが家のある山に昔から自生しているものです。

家が山を少し登ったところにあるために、こどものときから、周囲の野草や樹木などの植物には関心があったけれども、その名前となると、ほとんどは知らないものばかりでした。

そのなかで、このクチナシだけは、両親も知っていたからこどものときから親しかったのです。その真っ白い花、黄色の大きい雌しべがとくに目立っていますが、それ以上にその香りが心ひくものでした。

これは日本でもどこにでもあるのでなく、静岡県以西で分布する植物ですから、東北や北海道の方々はこの野生のクチナシの香りには接することがないわけです。

そのクチナシは、花屋さんなどには、八重咲きのものや小さい花のものいろいろありますが、私がかつて知ったどのクチナシの香りよりも、わが家のある日峰山での野生のクチナシは、とくに香りに気品あるものと感じています。

花開いた直後の純白そのものが心を惹きつけるものですが、その香りもまた魂に届くハーモニーとなっています。

キリストの香りという言葉があります。私たちが祈りに心を注ぐとき、そのキリストの香りがほのかに感じられることがあり、また長く信仰に歩んで、晩年を迎えた信仰者からも、ほのかなキリストの香りがただよってくるような方もあります。

神は、こうした自然のなかに驚くべき多様な花や香りを刻んでおられますが、今日の都会化した町々では、このような野生のクチナシはるか何万年も昔から続いてきたであろうその香りには接することができない状態です。

それゆえに、神はどのような状況におかれようとも、だれでも求めることによって与えられるキリストの香りを備えてくださったのだと言えます。

その香りはただ、神とキリストを信じるだけで、心の霊的嗅覚を敏感にすることによってこの世のさまざまの汚れた状況にあっても香ってくるようにしてくださっています。

キリストは、光であり、また力であり、命であり、そしてさらにいのちの水とともに、御国の香りをも二千年にわたって注ぎだしてきたのです。

                                                                                                                                                                                                                                           (文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 250 「霊に蒔く」             2015.5.13

 

人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。

霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る。

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。

たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになるからである。(ガラテヤ書67-9より)

 

 A man reaps what he sows.

The one who sows to please the Spirit, from the Spirit will reap eternal life.

Let us not become weary in doing good,

for at the proper time we will reap a harvest if we do not give up.

 

 私たちは意識的、無意識的を問わず、絶えず何かをどこかに蒔いている。すでに乳児として生まれたときから、その天使のような笑顔は、母親や周囲の人たちに何か清いもの、愛すべきものを知らせ、汚れなきものを蒔いている。

そして学校に行けば、友だちや教師たちは子供の心に次々と新たな考えや、友情、あるいはいじめに遭ったりすれば、悲しみや憎しみ、怒り等々の感情をみずからの心に蒔いていくし、テレビ、インターネット、ゲームなどによって有益な知識や考え方も蒔かれることもあろうが、有害なものもたくさんその心に蒔かれていく。

私たち自身も、また、人生の旅路のなかで周囲の人々に善きもの、悪しきものなどさまざまのものを蒔きつづけている。

  多くの人は、ボランティアなど何か善いことをして、良き種を蒔きたいと思っているであろう。しかし、現実の世の中は、いくらよいことをしようとしても、それをつぶそうとする力が必ず働く。善きことを行なっても、かえって悪口、非難の言葉がなげかけられたりすることもある。それで続けるのが困難となる。

上にあげたみ言葉は、人間の自然のままの心や考えによって蒔くのでなく、霊に蒔くすなわち聖なる霊によってうながされ、聖なる霊のために為すときには、その聖霊から、永遠の命を刈り取るということを示している。

  真によきことの前に、神は壁を置きたもう。それが本当に純粋な意図でなされているかどうかが問われている。 いかに結果はわからずとも、善きことを続けるそれは、ただ神のみを見つめて生きるときに初めて可能である。それが、霊に蒔く ということである。まず神の国と神の義を求めていくということである。

神のみ、聖霊の助けだけに寄り頼んで 物事をなすとき、いかに小さきことであってもその小さなことを、主が用いてくださる。 特別にすぐれた能力もなく弱い体であっても、だからこそ、弱い人たちへの共感をもって人知れず他者のことを思い起こして祈ることそれもよき種を蒔くことである。周囲の自然を見て、その美しさや力、清さに触れて神を賛美し、感謝するそしてそのような清さ、力が自分にも周囲の人たちにも与えられるようにと願うそのような心でこの世を歩めたらそれも小さな良き種をこの世界に蒔きつつ歩むことになる。 

************************************* 

野草と樹木たち      アオノツガザクラ    大雪山(旭岳)       2014.7.22撮影 

アオノツガザクラ    大雪山(旭岳)       2014.7.22撮影

 ツガザクラとは、ツガの木のような葉をした桜のように美しい花、という意味。赤色のツガザクラが多いので、このような名がつけられたと思われます。

ツガ、またはコメツガという木は、四国や関西の高山にも見られ、徳島の剣山の頂上に近い地域でも見られます。高さは30mにも達する大木となることもあります。(クリスマスツリーに使うモミの木もこの近い仲間)

そのツガの葉とよくにていること、 そして花がアオい(薄緑色)(*)なのでこの名があります。

 

*)アオという言葉は、現在の青色だけでなく、緑色にも用いたので、草が青々と繁ると言ったり、植物名にも、庭木にも植えられるアオキは枝が緑色なのでその名があるのもその例です。

 

このアオノツガザクラは、日本の代表的な高山植物の一つと言われますが、一般の人とくに近畿、四国、九州などに住む者にとっては、近辺の山々に登っても目に触れる機会がなく、なじみのないものです。これは、高さは、1040cmと小さく、この写真のものも草のように見えますが、樹木の仲間で、ツツジ科の植物です。

そして、この植物が分布しているのは、本州の中部以北の高山や北海道、さらに千島、アリューシャン、アラスカといった厳しい過酷な気象条件のところです。    この花は、つぼみではなく、このように花びら(花冠)の先を小さくつぼめた形で、身近なアセビやネジキ、あるいはドウダンツツジのような壺形のツツジのなかまです。

  これは、真夏の大雪山の主峰旭岳の標高1700m付近での撮影で、7月下旬であったけれど、付近にはまだ残雪が一部残っていたような地域です。

樹木といっても、このように野草にまじって静かに咲くものもあれば、100mにも達する巨木もある、というように実にさまざまです。そして、この花は、あえて寒さの厳しい条件に育ち、樹木とは思えないような小さい姿に可憐な花を咲かせる神の創造の驚くべき多様性をここにも感じます。

高山の厳しい状況には、低山にない気品ある花々も多く、人間も厳しい状況のもと、神の導きによって生きてきた人たちは、自分中心に生きてきた人とは異なる雰囲気があるのを思いだします。

他方、路傍の雑草といわれるような野草であっても、その小さな花をルーペで見るときには驚くべき繊細な美を持っているものもしばしばあり、神の御手による自然のなかには、見る目を持ってみるときには、その背後に神の深いお心を感じ取ることができます。 主イエスが「野の花を見よ」(マタイ福音書628)といわれたのもそうした意味があると思われます。                   (文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 249 「地の果てに至るまですべての人が   2015.4.13

我らの救いの神よ、

遠い海、地の果てに至るまで

すべてのものが、あなたに依り頼む。

御力をもって山々を固く据え

力を身に帯びておられる方。

あなたは海のとどろき、大波のとどろき

国々の騒乱を鎮める方。 (詩篇6568より)


O God our Savior, the hope of all the ends of the earth and of the farthest seas,

By your strength you hold the mountains steady, being clothed in power,

You silence the roaring of the seas, the roaring of their waves, the tumult of

he peoples.


私たちはこの揺れ動く世界、悪の力が至るところにみられる世にあってそこからの救いを求める。私たちのあらゆる苦しみや悲しみ、また悩みはそうした悪の力に翻弄されることから生じてくる。いかに自然的な災害からの苦しみであっても、そこに神からの助け聖霊が豊かに与えられるならば、絶望は消え、その苦難に耐えるためのあらたな力が与えられるからである。


この詩の作者は、そうした全世界から無数の人々が叫び、祈る声を霊的に実感してきたのであった。この世の目に見えるいっさいは揺れ動き、変質していく。だが、神はその永遠に変わらぬ本質を保ちつづけ、その万能の力を示している。山々は、ことにその神の力を象徴的に指し示すものである。

「わたしは、山に向って目を上げる。わが助けはどこから来るか。天地を創造された神から来る。」(詩篇121)山こそは神の不動の本質を我々に語りかけ、身近に感じさせてくれるものである。

神は単に変質しないというだけでない、その不動性、また大波のとどろきにみられる神の力の大きさは、またその不動の力をもって私たちを変ることなく愛し、支え、担いつづけてくださる。

  神の力は、さらにそうした不動の姿や大海のとどろきだけでなく、また植物のさまざまの花のような繊細な美をも創造する力をもっておられる。

そしてそのようなさまざまの意味において大いなる力をもっているゆえに、私たちのあらゆる困難に際しても、道を開き、その困難をも乗り越えていく力を与えてくださると信じることができる。

それゆえ、地の果ての人たちも この神により頼んできたしこれからもこの神に希望を持ちつづけていくことをこの詩は語りかけている。そしてそれはまたこの詩の作者の背後におられる神からのメッセージそのものなのである。


 野草と樹木たち      ソツツジ    大雪山(旭岳) 標高2291m       2014.7.22撮影

イソツツジ    大雪山(旭岳) 標高2291m       2014.7.22撮影


















(添えた山の写真は、大雪山の旭岳、この写真を撮った場所付近に、イソツツジが見られた)







(添えた山の写真は、大雪山の旭岳、この写真を撮った場所付近に、イソツツジが見られた) 

  ツツジの仲間で、このように丸い形になって、純白の15個前後の小さな花が咲き揃うというのは、このイソツツジのほかにはほとんどありません。花壇などでも見かけるコデマリに似た形になっており、葉は厚い皮質となっています。

これは、高さ40cm内外で、東北地方と北海道の高山地帯に見られる植物です。そのために、西日本のような暖かい地方ではまったく見られない珍しいものです。

ツツジには多く種類があり、山野や公園の花壇などにもいろいろあり、高山植物だけにかぎっても50種類ほどもあるという豊かな多様性をもった植物です。

一つ一つの花を見ると、ツツジとは思えないような花の形をしていますが、葉はシャクナゲに似ているので、シャクナゲを知っている人は、これがツツジの仲間だとわかります。

北国の高山に咲くこうした植物は、長い歴史のなかでは、ずっと人間が見ることもほとんどなかったと思われます。近年になってようやく山の麓に至る車道が整備され、さらにケーブルカー、ロープウエイなどができて、幾万年も人の知らなかったようなこうした植物にも触れる機会が与えられるようになりました。

このような高山植物の花を創造された神は、人が全く見ることができないようにところにも、はるかな昔からこのような清い美しさを持った花をそなえられています。

  これは人間世界でも感じられることで、ほかの人の目に触れないところで、人知れず、神への深い信仰をもって清められた魂がいるということを思います。

神は人が見ていようと見ていなくとも、その深い御計画に従って自然の世界にも人の世界にもよきものを創造されているのを思います。     (文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 248 「あなた方と再び会う」 2015.3.13

今、あなた方は悲しんでいる。

しかし、私は再びあなた方と会い、

あなた方は心から喜ぶことになる。

その喜びをあなた方から取り去る者はいない。

(ヨハネ福音書1622

You are sad now, but I shall see you again,

and your hearts will be full of joy,

and that joy no one shall take from you.

この主イエスの言葉は、これから十字架にかけられて処刑される前に、弟子たちに語った言葉である。愛の神、そして全能の神は、真理の証人たるイエスを死んで滅びたままには決してなされない。必ず、復活させる、そして再び弟子たちと会うことになる。

それは、三日目には、復活したイエスに、さらに後に 弟子たちの祈りによって待ち望むところに、聖なる霊として来たり、彼らは霊的なイエスに出会うことになった。

そして、そのときには大いなる喜びが与えられ、それは持続していく喜びであり、私たちのほうで背を向けないかぎり、その喜びは消え去ることがないと言われた。

たしかにその喜びは 個々の人々の心にも消えることのない喜びを与えてきた。

私たちの死のときには、イエスと同じように、御国へと引き上げられ、そして文字通りその喜びは永遠となり、いかなるものも取り去ることができないものとなる。

さらに、その喜びは 歴史の中にあっても過去2千年の間、この復活したイエス聖霊を与えられる喜びは消えることなく、人々の魂を流れてきた。


  現在、それぞれの人たちは、それぞれに悲しみや重荷を持っている。一見そのような重荷を持っていないように思われる人も、その家庭や心の内部を知らされるときに、深い悲しみや重荷を負って生きているのを知らされることはしばしばである。

主イエスは、神のまなざしをもってそうしたこの世における人間のことを、いかなる人間よりも洞察しておられた。

そして、最もよく知られた山上の教えのなかにおいて言われた。

ああ、幸いだ、悲しむ者は。 その人たちは、(神によって)慰められるからである。(マタイ福音書5の4)

今、深い悲しみや苦しみにある方々にあっても、この主イエスの約束を信じて、聖霊を求めていくときには、再び主との出会いが与えられるであろうし、暗い谷間を通ってきただけに、いっそう深い喜びとなると期待できる。 そしてその喜びは、誰も取り去ることのないものになると言われている。

*************************************

野草と樹木たち   ヨツバシオガマ、 キンコウカ (金光花)      乳頭山(標高 1478 m への道にて。  2014.7.25撮影 

ヨツバシオガマ、 キンコウカ (金光花)      乳頭山(標高 1478 m) への道にて。  2014.7.25撮影













































(乳頭山遠望、上の花は、下の写真を撮影した田代平という高層湿原地帯で見られたもので、撮影地点は標高1200mほど) 

(乳頭山遠望、 上の花は、下の写真を撮影した田代平という高層湿原地帯で見られたもので、撮影地点は標高1200mほど)

乳頭山は、その南部にある秋田駒ヶ岳とともに古くから知られていた山ということで、登山口には、秘湯として有名だという乳頭温泉郷があります。しかし、そこからの登山口の標識もなく、付近をいろいろ探しても分からないので、付近にあった温泉旅館の人に尋ねてようやくわかったので、これは人があまり行かない山だとわかりました。

予想どおり、そこから稜線に登って乳頭山への縦走路を歩き(上の写真はその道での撮影)、登山口の温泉のところに帰るまで、誰にも会わないという静かな山と植物たちのなかでの数時間でした。

  乳頭山は奥深い山で、それだけにその静けさのなかで咲いていた高山植物たちの語りかけがいっそうはっきりと感じたものです。ここにあげたヨツバシオガマは、四枚の切れ込みのある葉が、階段状に付いていて、その上に赤紫の花が咲いています。これは中部以北から北海道の高山の湿地に見られるもので、四国や近畿の山々では出会うことがなかった花です。 (徳島の剣山には、シオガマギクの仲間としては、トモエシオガマやコシオガマなどがあります。)

そして周りに咲いている黄色の花もやはり中部以北や北海道の高山の湿地で見られる花で、星型の黄色い花が特徴的で、金色の光の花ということで、金光花と言われます。

花の形も葉の形や色合いもさまざまで、高山の風雪厳しいところで、夏の短い間にこうした花々がそれぞれに個性を表し、創造主の無限の英知と美を見るものになげかけているのを思います。

こうした実際に咲いている花や周囲の清い光景は、私たちの精神の世界へと広がっていくものです。

旧約聖書の預言者が啓示を受けて語ったように、神との深い結びつきが回復されたその暁には、かつては荒れ果てた状態であっても、その民族に、その地域に、そしてそこに生きる一人一人の心のなかにこうした花のごときうるわしいものが咲くというのです。 

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。(イザヤ書351  

現実のさまざまの問題があるこの世の荒野にあって、私たちの心の内にもこうしたうるわしい花々、青い空、緑の草原が広がっていくようにと願っています。 (文・写真ともT.YOSHIMURA


今日のみ言葉 247 「重荷を主にゆだねよ」  2015.2.13

あなたの重荷を主にゆだねよ

主はあなたを支えてくださる。

主は従う者を支え

とこしえに動揺しないように計らってくださる。(詩篇5523

Cast your cares on the LORD and he will sustain you,

He will never let the righteous fall.

どんな人でも心に重荷を持っている。 それは病気や、人間関係、災害や事故による苦しみからくる重荷などさまざまである。そのような重荷を軽くしたいというのは万人の願いである。 聖書においては、飲食や娯楽その他によって重荷を忘れようとするのでなく、重荷を見つめつつ、しかもそれが軽くされる道を示している。

それが、ここに記されていること、「主にゆだねる」ということである。愛の神、真実な神がおられて私たちを守ってくださっているゆえに、その神にゆだねるということである。ここで「ゆだねる」と訳されている原語(ヘブル語)は、ハーラク といい、「投げる」というのが原意である。(*)穴に投げ込む(創世記3720)など。

英語訳聖書も、上記のように、cast (投げる)を用いている訳が多い。

このように「投げる」という言葉を用いているのは、そのことによってただちに重荷が軽くなることを実感していたゆえと考えられる。

  私たちの重荷には、さらに深い根をもったものがある。それが自分の弱さゆえの重荷である。正しいことができない、他者に愛のない言動やどうしても真実にかなったことができないこのようなことを罪といっているが、その罪の重荷こそ、もっとも深い重荷であり、しかもすべての人が持っている。その人が意識せずともそれはある。 使徒パウロのような人であっても、善いことをしようという意志はあるがどうしてもできない死のからだを持っていると言っているほどである。

こうした人間の本質にかかわる重荷を含め、いっさいの重荷を軽くする道、しかもだれにでも与えられるのがこの聖句による道である。それは、長期にわたって修行してやっと軽くなる、というのでなく、ただ神とキリストを信じるだけでよいのである。このことは、「天路歴程」という作品のなかでも記されている。天の国に向って旅をする人が、旅路の途中で、キリスト十字架の立っているところに向っていくと、十字架のある場所に到達したちょうどそのとき、それまで彼の重荷だったその荷物が肩から落ちた。キリストの十字架を見つめることがこのように重荷を取り去って楽にする、ということは驚くべきことであった(「天路歴程」岩波文庫 98p   

キリスト教信仰の大きな恵みはここにある。現代においても、キリストの十字架を私たちの罪を赦してくださるためのものだったと信じて仰ぐときには、私たちの心の重荷が不思議に軽くされる。キリスト者とは、このような実感を与えられた人のことである。

主イエスご自身、次のように言われた。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ1128

このよく知られたイエスの呼びかけは、上にあげた聖句にあるように、古く旧約聖書の詩篇にその源流がある。はるか数千年昔から、このように重荷を背負って苦しんでいる無数の人間に対して、神は呼びかけてきたのである。そして私たちもは過去にどんな罪を犯した者でも、また病気や人間関係で苦しみ重荷に耐えかねている人たちすべてに、その重荷を私のところに来て軽くするように、と呼びかけてくださっているのである。
*************************************

野草と樹木たち  サンカヨウ (山荷葉)      大雪山(赤岳)標高 2078m  2013.7.16撮影

サンカヨウ (山荷葉)  大雪山(赤岳)標高 2078m  2013.7.16撮影 

この花は、本州中部から北海道の高山、サハリンなどに自生し、ややしめった所に見られるものです。深山にあるために一般的にはあまり知られていない花です。

大雪山というのは、黒岳、赤岳、旭岳等々の多くの山々の総称で、そのうちこの花を撮影した赤岳というのは、ロープウェイなどもなく、一般の観光客はなかなか立ち入れない奥まったところにある山です。真夏であっても下の写真のように、かなりの雪が残っています。

フキの葉のような大きな柔らかい葉の付け根のところから真っ白の花が咲き、黄色い雄しべ、緑色の雌しべとともに、清い雰囲気をたたえた花です。

花の大きさは、2cm程度の小さな花ですが、30cmにも及ぶ大きな葉から花茎を出して咲いていて、この様子は、大きな御手の中で慈しまれているようでなにかほのぼのとしたものが感じられます。

この純白の花は、その雰囲気が緑の羽をもった天使のようであり、林の中で静かに咲いていたものですが、見つめるものに、語りかけて来る雰囲気があります。

この花を創造した神のお心、そのご意志がこの花を通して伝わってくるようです。 (文・写真ともT.YOSHIMURA

(大雪山系赤岳への登山道にて)

 (大雪山系 赤岳への登山道にて)





























今日のみ言葉 246 「新しく、確かな霊を」 2015.1.13

 

わたしの内に清い心を創造してください、神様。

そして、新しく、確かな霊を授けてください。 (詩篇5112)

 

Create in me a clean heart, O God, and put a new and steadfast  spirit within me.

 

 私たちが最も必要としているのは、人間の努力や決意では生み出すことのできない清い心を創造していただくことである。

「創造する」この原語は、人間が単にものを作るといったときには用いられない。そのような、神の直接的創造をあらわす言葉が、この詩篇でも用いられている。(*

 

*)上記で「創造する」という原語(ヘブル語)は、バーラー。この語は、旧約聖書全体で54回つかわれているがそのうち、32回がイザヤ書と創世記に用いられている。そしてイザヤ書では21回つかわれているうちの20回までが、バビロンからの捕囚から祖国に帰還する時代に記された40章以降に現れる。そして創世記では、宇宙と人間の創造ということに限って用いられているなど、とくに神の無からの創造や、根本的に新しくするという意味をこめて用いられている。

 

一般的には、よい心、きれいな心になりなさい、と言われたりするから、努力や決意でそのような心になれるように思っていることが多い。しかし、それがいかにできないかは、私たち自身をふりかえればわかることである。

清い心というようなものは、学問や経験を重ねても、またいろいろなことを本やネットなどで知っても生まれるものではない。

この詩が作られてから、3000年経ってもなお、この詩の作者ダビデ王と伝えられているが魂の力をこめて記したこの詩の内容は、現代の私たちにもそのまま通じるものとなっている。人間の心は、その罪深さから清められたいと、数千年を経ても変ることなく、同じこと清い心が私たちのうちに造り出されることを求めてきた。それは言い換えると、神の霊それこそが永遠の新しさと揺れ動くことのない堅固さを持っているを与えてくださいという祈りである。

人間は、さまざまのもの健康やよい家庭、能力、権力、才能、お金等々をつねに求めている。しかしそれらがいかに与えられていても、なお欠けているものこそが、この真実な清い心、変ることなき真実な霊である。 それは、生まれつきや財産、地位、能力などがいかにめぐまれていてもなお、伴わない。また逆に、それらがごくわずかしか与えられていない貧しい人たち、地位の低い人たちであってもなお、真実な心で神に求めることによって豊かに与えられる。「求めよ、そうすれば与えられる」(ルカ福音書119)と言われている通りである。

現代の世界が直面しているさまざまの問題それらは人間同士の差別、憎しみ、無視、敵意、あるいは権力や快楽への欲望等々がその内に潜んでいる。それは、みなこの清い真実な心が十分に与えられていないということと深くかかわっている。

それゆえに、これからの世界において、上記の聖句清い心を私たちの魂のうちに創造し、神の清い霊をいただくことが共通の願いとなる。

御国を来らせたまえ! との「主の祈り」は、このことをも含んでいる。御国とは、神の真実な御支配のうちにあるすべてのものを意味しており、それは神ご自身の清さ、また新鮮ないのち、変ることなき愛そのものである。

それゆえに、この祈りは私たちのどこまでも続く祈りであり、その祈りこそは、祈る人自身と周囲の人たちにとっても喜ばしいものが注がれることにつながっていく。

 

*************************************

野草と樹木たち イワカガミ(岩鏡)   秋田駒ヶ岳( 標高1637m   2013.7.19 撮影

イワカガミ

このイワカガミは、淡紅色のものが多いのですが、この写真のように白い花のものも見られます。岩場などで見られ、葉に光沢があり、鏡のようだということからつけられた名前です。

これは北海道と本州の高山に咲くもので、花茎の高さは5~10cm程度の小さな野草で、花も長さは2cm程度、花の直径は1cmほどで、ヨーロッパの教会の鐘のような形です。

 

この花の先端部分はたくさんの切れ込みが美しくなされていて、房のようになっており、赤いめしべとともに、全体として気品ある美しさをたたえてものとなっていて、 清い天使のような雰囲気があります。

このような、繊細なつくりは、創造者たる神ご自身の御手でなされたもので、この植物自身が生きていくためにはとくに必要とは思えないものです。朝顔のように切れ込みのない花冠であっても十分生存できるものですが、とくに神のご意志で、このような特別な美しい切れ込みがなされているのを思います。

こうした姿の美を味わうことができるのは人間だけなので、人間がこの姿に触れて神の創造の力、神ご自身のうちに秘められている無限の美の一端に触れるようにと招かれているような感じがします。 (文・写真ともT.YOSHIMURA