今日のみ言葉 2010年 タカサゴユリ |
今日のみ言葉 198 2010.12.8 「目を覚まし、感謝を込め、祈れ」 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。 同時にわたしたちのためにも祈ってください。 (コロサイ4の2-3) Keep persisting in prayer, being watchful and thankful. |
この短い言葉のなかに、キリスト者の生きる姿が示されている。それは、すべてを神が愛をもって私たちのためになして下さっていると信じていくとき、実際にさまざまの予想していなかった恵みを受け、そこから感謝が自然に伴う祈りとなる。
そのためには、心の目、魂の目をいつも覚ましている必要がある。居眠り運転が危険であること、そしてその経験は多くのドライバーがもっているだろう。私自身ももう20年以上も前に、疲れと睡眠不足のためにもう少しで命を落としかねない危険な目にあったことを思いだす。
しかし、それはこの人生においても同様である。魂が眠ったまま、この人生を歩いていくことは危険なことである。悪の誘惑に簡単に引き込まれたり、闇や、泥沼に落ち込んだり、悪の力にぶつかって魂を壊されたりするからである。
目を覚ましていなさい、それは主イエスも繰り返し言われた。心の目を覚ましているために不可欠なことは、絶えず祈ること、祈りをやめないことである。ここで「ひたすら祈れ」と訳されている原語(*)は、祈りにおいて力を注ぐ、やめないで継続するということである。
だれでも何らかの問題、苦しみや悩みを持っているから、祈りということは程度の多少はあれ、だれでも祈りに似た気持ちはもっているだろう。しかし、何ごとを祈るときにも、つねに心からの感謝をもって祈りを続ける、ということは、聖なる霊の助けがなければ困難であろう。言い換えれば、どんなときにも感謝とともに祈れるという人は、聖霊の恵みを受けていると言えるだろう。聖霊は、私たちがどう祈っていいか分からないような困難な状況でも、深い共感をもって助けてて下さると記されている。(ローマ信徒への手紙8の26)
「私たちのためにも祈ってください」 これは、祈りとは互いに祈り合うのが正しいあり方であるのを示している。キリスト教の2000年の歴史において最大のはたらきをした弟子、ゆたかに聖霊を与えられ、主イエスとの直接の深い交わりをも与えられていた使徒パウロは、このように、各地の信徒からの祈りをも大切なものとしていた。二人三人主の名によって集まるところに、私はいる、と主イエスは約束された。それは祈りにおいても同様である。二人三人ともに心を合わせて祈り合うときに、主はその祈りのただ中にいて下さって、双方に力と助けを与えて下さるからである。
(*)プロスカルテレオー pros-kartereo これは、 方向を意味する前置詞 プロス pros と力、強さを意味する カルトス kartos (kratos と同じ意味)という語から派生した動詞である。
大山(だいせん 標高 ,1729m)は、昔から、日本の4名山の内の一つとされてきました。この写真は、大山の登山口に至る道からの撮影したものです。
去る11月16日松江市から、鳥取市のキリスト教の集会に向かう途中、予定になかったことでしたが、雪をいただいた山頂付近が、高速道路走行中にも、雲間から見え隠れしていたので、少ない時間でしたが登山口まで行き、そこから、若き日に歩いた道を二号目付近までたどりつつ、付近の植物なども調べる機会が与えられました。
私にとっては大山は忘れることのできない強い印象を残した山の一つで、40数年前に蒜山を目指して大山を縦走したことは今もはっきりと心に刻まれています。
多くのすぐれた山容を持つ山々があるにもかかわらず、とくに4つの名高い山としてあげられているは、遠くからの山容もすばらしく、近くにきても、また登ってもその力強い独立した峰々はその山に近づく人の心を引きつけ、その崇高ともいえる美しさによって、人々の心が清められ、またうるおされるからだと思われます。
主イエスも、生涯の最後が近づいたころ、高い山に数人の弟子たちを伴って登り、そこで神の姿のように変容されたことが聖書にも記されています。(マタイ福音書17章)これは、やはり高い山には独特の神の国に近い雰囲気があるから、その清められた場において弟子たちに特別なことを示されたのだと考えられます。私たちはだれでもそのような高い山に登れないのですが、神の聖なる霊を受けて、平地での日常生活においても、そうした高山の空気に接するような恵みを与えられたいと願います。 ( 文、写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 197 2010.11.13 |
この使徒パウロの問いかけは、現代の私たちにも問いかけられている。 神を信じている、と自分では思っていても、神の霊、すなわち神ご自身と同じもの、目には見えない神の力、その愛といったものが私たちに住んでいる、ということを本当に実感しているだろうか。神の霊が心のうちにある、といわず、住んでいる(*)と言われているのも意外な気がする。
(*)原語のギリシャ語は、オイケオー oikeo で、家 (オイコス oikos)と語源的につながっている。(家に)住む、という意味。
神の霊というたとえようもなく清い、しかも力あるお方が、小さなしかも罪深い私たちの内に住んでくださっている! このことは、驚くべきことである。
キリストを信じている人であっても 神の霊が住んでくださっていることを実感している人が少ないために、パウロはこのように問いかけている。
神はいつも私たちに問いかけている。人間の最初の姿であったアダムが、罪を犯したとき、神はただちに叱責せず、あえて「あなたはどこにいるのか」と問いかけたのであった。(創世記3の9) 自分がどこにいるのか、本当に正しいところにあるのか、ということも私たちは気付いていないことが多い。いつのまにか正しい道からはずれ、自分中心、人間中心の考えになっていることが何と多いことであろう。
同様に、私たちのうちに神の霊、聖霊が住んでくださっているということも静まらないと分からない。そして、このようなことがはっきり分からなくともそれを信じることによって、その実感が次第にはっきりしてくる。
私たちの内だけでなく、私たちが生きているこの世のただなかにも神の国(キリスト)はあると言われた。「神の国はあなた方のただなかにある」 と。
さらに、神の愛によって創造された自然のさまざまのもの、草木、大空、川や海、風等々、それらのうちにも神の愛と真実が宿っていることも、注意深くそれらの自然を心の目で見つめていないと気付かないままになる。
主イエスは、目を覚ましていなさい、と言われた。私たちもいつも心の目を開いて、私たちの内に住んでくださっている神(聖霊)、周囲の自然にも、そして世界のただなかにおられ、働いておられる神を意識しつつ、新たな力を受け、導かれて歩みたいものである。
月山 ( 標高1984m 山形県) 2010.7.30
人ひとりいない東北の山地において、この光景に接して、まさに神の国からの風が吹きわたっているのを実感したのです。
この花は、中部地方以北、北海道の山地に見られるものでこの写真も標高1700mほどのところでの撮影。
北国の高山に広がる緑の草原、そこには広大な領域にわたって神によるいのちがあふれ、そこにたたずむとき、そのいのちに触れて心身ともにリフレッシュされるような気持ちになったものです。
そして、その緑の原に白い花を裂かせる高さ1mほどのこの花は、そのあふれるばかりのいのちを賛美しています。
こうした光景、それは 私たちも心の世界に、こうしたみどりの原と、白い花のある光景をもち続けているように、神のいのちに満たされ、この花のように罪清められて神を讃美しつつ歩むのが私たちのあるべき姿だ、と語りかけています。( 文、写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 196 2010.10.15 |
この世のあらゆる問題は、実は力不足から生じる。仕事がうまくできない、続かないといったことだけでなない。真実が言えなくて嘘を言ってしまうのは真実を語る力がなく、弱い人、あるいは敵対する人に愛を注げないのは、愛する力がないからである。人からの中傷や悪口につぶされそうになり、あるいは憎しみを抱いたり仕返ししたりするのもまたそれを忍耐をもって受け止める力もなく、またそのような悪しき心の人たちのために祈る力がない、愛がないからである。
このように、どんな人でも、欠けているもの、それは力である。いかなる権力者であっても、力不足を感じる。それゆえに、その権力者への批判を抑えようとする。ときには武力で弾圧する。かつて江戸時代に、キリスト教徒たちに過酷な迫害をした支配者たちは、キリスト教の力を恐れたからである。自分たちの力が弱くて、キリスト教の真理の力に立ち向かえないと知ったからこそ、鎖国までして、キリスト教の力が入ってくるのを全力で防ごうとした。
子供から老人、そして死に近づいた重い病気の人まで、そして何も持たない人から金や権力を持つ者まで、だれもが恐れているのは力を失うことである。
そして老年になるにつれて、人は病気になったり、体力や気力などにおいて、弱さと直面し、また元気であっても事故や人間関係が壊れたりして、力不足をだれもが思い知らされるときが来る。
こうしたあらゆる人の、いかなる状況における力不足をも、根本から救って下さるのが、聖書に記されている神であり、キリストである。
「弱っている人、疲れた人はだれでも私のもとにきなさい。休ませてあげよう。」と主イエスは万人に呼びかけておられる。
私たちが、力なきゆえに、弱り、魂も疲れ果ててどうすることもできない状況に追い詰められたとき、なお私たちがすがることができ、しっかりと立つことができるのは、不動の岩なる神がいて下さるからであり、キリストが私たちをその愛をもって招いて下さっているからである。
そして私たちがその呼びかけに信頼して、主のもとに行くときには、主はその慈しみのゆえに新たな力を与え、魂の平和を与えて下さる。
月山(山形県 標高1984m ) 2010.7.30
秋の代表的な花の一つは、リンドウです。この花は、今年7月に北海道の聖書集会からの帰途、少し時間がとれたので、月山の植物を調べに登ったときのものです。
リンドウは、多くの山歩きを好む人は、秋の山の喜びの一つと思われますが、私もとくに京都の由良川源流にて、深く澄んだ青いリンドウと出会ったのがとくに印象的で、もうそれは45年ほども昔のことですが、いまもその有り様が浮かんできます。
リンドウの仲間には、いままでに実際に私が山で見たのは、アサマリンドウ、リンドウ、フデリンドウ、ハルリンドウ、ツルリンドウなどいろいろあります。この写真のミヤマリンドウは、北海道や中部地方以北の高山帯に自生するものなので、徳島県では見たことのないものでした。草丈は5〜10cm程度、葉は長さ1p前後の小さな植物です。5枚の花びらの間に、先のとがったやや小さくて細い花びらがあって、10枚
ちの花びらのように見えます。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも、次のような描写があります。
「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ」カムパネルラが、窓の外を指さして言いました。
線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石(げっちょうせき)ででも刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花が咲いていました。…
カムパネルラが、そう言ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。
と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。(6、
銀河ステーション より)
こうした描写は、宮沢賢治も、北国のリンドウ、とくにその紫がかった青色が彼の心に刻まれていたのがうかがえるのです。
北国の厳しい寒さにも耐え、短い夏にほかのリンドウとはちがった、独自の花のすがたを見せるこのミヤマリンドウは、小さく目立たないけれども、厳しい風雪に耐える力を与えられているのです。私たちもまた、弱く小さなものであっても、神に結びつくときには、本来では有り得ないような力をいただくことを思わせてくれます。(文、写真とも T.YOSHIMURA) (文、写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 195 2010.9.8 |
これは、ヨハネ福音書において、イエスが最後の夕食のときに語られた長いメッセージの終わりになされた祈りである。この祈りをしたのち、捕らわれ、十字架の刑へと進んでいく。
そのため、主イエスの最終的な願いは、何であったかがこれによってわかる。それは、神の愛が弟子たちの内に宿り、復活したキリストご自身がかれらの内に留まるようになることであった。キリストは神の愛そのものであるから、これは同じことを異なる表現で強調していると言えよう。それほどこのことは、決定的に重要なのである。
人間のあらゆる問題は、このことが与えられるならば解決される。 人間の不幸は根本的には愛を受けない、愛を持たないことにある。教育も仕事、あらゆる場における人間関係のもつれなども、神の愛が当事者の内にあるなら必ず解決される。
しかし、それに関わる双方にこの神の愛がかったら、言いかえたら、憎しみや無関心、ねたみなどがあれば、人間の心は次第に破壊されていく。そして相互の関係もむしばまれていく。戦争という最大の国家間の悲劇も愛と正反対の憎しみによって燃え上がり、多くの人たちが倒れていく。
政治や社会的な問題も、みなこうした神の愛、キリストのような清さや真実がないゆえに、さまざまの欲望や、権力や金、それらがもたらす地位や快楽に引き寄せられていくことから生じている。
病気の苦しみ、それはひどくなれば、医者も家族も友もどうすることもできない。だれも解決不能な死ということに向かっていくだけとなるからである。しかし、そこにもし神の愛がその人の内にあり、キリストが魂のうちに住むならば、その人生最後の苦しみをも支えられ、御国での復活を仰ぎ見つつ、地上の生活に別れを告げていくことができる。
どんなに、人間から冷たくされて、孤独であっても、そこに神の愛がその人の内にあるなら、その孤独のなかでかえって純粋な天来の平安と喜びをすら感じることができよう。悲しみのなかから主を仰ぐとき、最もその愛を感じることができるからである。
捕らえられる直前、十字架の恐ろしい苦しみが目前に迫っているそのときに語られた このイエスの祈り、それはその後2千年の間、無数の人たちにおいて実現してきた。イエスの祈りは必ず聞かれる祈りだからである。
私自身、小さきものであるが、その神の愛を知らされ、生きてはたらくキリストが内に来てくださって、力を与えられてきた。キリストを知らされてから今までの40数年信仰を続けられ、新たな力とはげましを与えられてきたのは、まさにその内に来てくださったキリストのゆえであり、また神の愛からの憐れみのゆえである。
主イエスのこの地上生活の最後の祈りを、私たちもまた同じ祈りを続けていきたいと願うものである。
主よ、あなたの愛が私たちの内に留まり、あなたご自身が私たちの内にいつも いて下さいますように、と。
シモツケソウ
伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境、標高1377m ) 2010.8.6
この花は、伊吹山で今回初めてその群生に出会うことができました。 かつて、徳島県の剣山でも見たことがあったが、それは花の色も淡い紅色で、ごく少ないものでした。しかし、この伊吹山のシモツケソウは、その赤色の色彩があざやかでしかも山の一部では群生していて、まるで赤く染まった庭園のようでした。 またある所ではところどころにカワラナデシコなどと共に咲いているのも見られました。
北海道からの帰途、各地の聖書の集会に加わり、最後の日程である京都での近畿集会を前にして、時間をとることができてこの山の植物たちに再会する機会が与えられ、それは まさに、神のお心が記された生きた聖書を見る思いでした。
今でこそ、車が頂上のすぐ下まで登ってこれますが、昔であれば、何時間もかかって長い登山道を登って頂上に達していたのです。そこでこのような美しい花々が、地上には到底見られないような広範囲に、しかもさまざまの種類のものが咲いているのを目にすることになったわけで、登ってきた人たちの心を驚嘆とやすらぎで充たしてくれたことと思います。
頂上に近いところからは、丈の高い樹木がほとんどなく、弱々しいはずの野草たちが厳しい風雪に絶えて頂上近くの山域で増え広がっていったのはとても不思議なことと感じます。頂上付近一帯には高山性の美しい花を咲かせる野草たちが広がっています。それらは、一つ一つをとれば、踏みつけられたらそれで枯れてしまうかと思われるほどであるのに、こうしたもっとも環境としては厳しい山頂部で増え、生き続けてきたのです。それは、聖書の有名な言葉、「神の力は弱いところに現れる」というのを思い起こさせてくれます。
神は、このように自然のなかにも、弱いと見える野草たちに、また別の強さを与え、それだけでなく、強そうにみえる植物、樹木などが持っていない繊細な美しい花をつけるように創造されているのです。
人間の世界にも、似たようなことがあります。 社会的にも活躍し、強そうにみえる人、能力に恵まれているように見える人の心にはかえって清い花が咲かず、何も取り柄のないような素朴に見える人のなかにかえって清いものが感じられるということはよくあります。
神は、さまざまの領域において、その愛と万能の力をもって、驚くべき深みのある世界を創造し、いまも支えておられるのだと感じます。 (文、写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 194 2010.8.14 「見えるものでなく、見えないものを」 見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
|
たいていの人が、大切なのは目には見えないものだ、ということを何となく感じているだろう。自分と関わる人について、弱い人をも重んじる心のやさしい人、嘘を言わないような人をだれでも好むのは当然のことであるが、それは良き心という目には見えないものを誰もが重んじていることを示すものである。
このように、目には見えない心の大切さを敏感に感じ取るのが人間なのである。しかし、他方では、目に見えるもの、外見のよい人や、お金の力そのものや、また金で買えるもの、あるいは人からの評判など、 目で見たり、聞いたりするものからの誘惑が大きいために、目に見えるものに引きつけられてしまう。
自然の美しさに心を動かされる人は多い。しかし、その自然のたとえようのない美しさや、かぎりない多様性などを創造された神そのものに心を向け、神のすばらしい力と美を感じて神を賛美するという人になると、とくに日本人にはきわめて少数となる。そのような神を信じる人がごく少ないからである。そのために目に見えるものでとどまってしまうということが実に多い。
人間に関しても、高齢の人や病気、あるいは障がいをもった方々と接して、その見える部分だけを見て軽視、あるいは差別するということもしばしば見られる。しかし、そうした人たちの心を見つめるときに、まったく違ったものが感じられてくることが多い。
さまざまの人間の背後に、目には見えない神の愛のお心があり、太陽のように同じようにその愛をそそいでおられる、ということは私たちが意識してそのように心の目で見つめていかなければつい表面の見えるところだけを見てしまう。
見えるものはみな移り変わっていく。しかし、神の愛や真実など、神の本質は永遠に変わらない。人間世界はいかに汚れて暗いものが多くても、その背後に輝き続けている太陽のごとき存在である神とキリストを見つめることで私たちはその闇に吸い込まれていくことから守られる。
若いときにも、目に見えない神の愛を信じ、それを見つめて歩むことで新たな力が与えられるし、病気のとき、老年のとき、苦難のときにはなおさら見えるものでは力を与えられないから、見えないものを仰ぎ、すがって力を与えられたいと願う。
私たちはみな、最終的には死を迎えるが、見えないものを見つめるまなざしをしっかりと持ち続けるとき、死後に約束されている復活ということ、しかもキリストと同じ栄光の姿に変えられるということをも信じることができるし、目には見えない神の導きを受けてこの世を歩むことができる。
ニッコウキスゲ 月山 2010.7.30
この花の名前はもう40年以上も前、大学を卒業後、最初の赴任先の高校の同僚であった生物の教師から教えられて知っていました。 しかし、植栽でなく、実際に広々とした自然のなかで咲いているのは、今回初めて見ることができたのです。写真などでよく見られる日光付近のこの花の大群落でなく、この写真のように、雄大な月山(*)の緑のなだらかな山の斜面にほかの花とともに咲いていたものです。 オレンジ色の美しい花は一日で終わりますが、次々と新たな花が咲いていきます。
聖書とは神の言葉が記された書物です。 神の言葉とは、神のご意志が表されたものです。そして自然の植物もまた、神のご意志によって創造されたものであるゆえに、神の言葉の一つの表現だと言えます。
人間の理解できる言葉で書かれた神の言葉たる聖書と、神のご意志そのままが見えるかたちで現れた太古の昔から存在している野草たち、そしてそれを取り巻く自然の姿、そこに私たちは人間の意志を超えた神の広大にして深遠なご意志の一端に触れることができます。
広大な緑の草原と山の連なりを背景にして流れてくる霧とともにこの花が神への賛美を歌い続けている、という感じがします。 それはいかなる不純なものも存在しない天の国の賛美を奏でている雰囲気をたたえています。
清さと、美と深さ、そして広がりといった私たち人間世界では存在できないようなものが、ここに豊かに広がっているのを実感して、まさに神のご意志の一端に手を触れるような身近な感じを与えられたことです。
(*)月山(がっさん)は、火山で標高1984m。山形県のほぼ中央付近にある。この山に登るという特別な機会が与えられたのは、北海道の南西部の日本海側にある瀬棚地方での聖書集会からの帰途、山形県鶴岡市での聖書の礼拝集会を終えて、山形の集会に向かう途中であった。その日の夜に予定された聖書の集会にはまだ時間があり、毎日、長距離の自動車運転と室内での集会を繰り返していると、だんだん睡眠が十分とれなくなってくるので、身体を動かし、心身を別のところに向けることが必要だった。 以前そのために眠ることが十分できなくなり、体調が悪くなって回復に数カ月かかったということもあり、 そのためにリフトなどがあって高山植物が咲いているところまで歩かずに達することができ、しかも高速道路から近いという条件の山としてちょうど月山が行程の途中にあった。
なお、写真の白い花は、モミジバカラマツ、赤い花は、ヨツバシオガマ。手前の幅の広い葉は、コバイケイソウ。キスゲ(黄菅)という名前は、黄色の花で、スゲ(菅)という植物の葉に似た細い葉をしているから名付けられた。 (文、写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 193 2010.7.10 骨に力を与えてくださる。(*)
|
(*)ここで骨と言うのは、現代と違ってもっと広い範囲で使われている。私たちの体全体、あるいは体を支えるものを意味し、さらに人間の精神なども表すことがある。
私たちが本当に求めているのは、適切な導きである。そのことは、私たちが病気になったときに何を求めるか。適切な医者、そして医療である。それと同様である。まちがった診断や処置をされたりすると取返しがつかないことにもなる。
人間の魂、心も深い観点からみるとみな病気である。どんな人でも、心の奥には自分中心というガンのようなものを持っていて、それがあらゆる人間の問題の根本原因となっている。
それゆえ、適切な導きがなかったら、どこまででも落ちていく。逆に、そのガンのようなものを取り除かれ、適切な導きがあれば、限りなく高められていく。
主イエスの深い嘆きは、人間が、「飼う者のいない羊のようだ」ということであった。そして、健やかな者には医者は要らない、私は病人のいやしのために来た、と言われた。そして主はすべての人の魂の病をいやすために来られたのである。
主が導いて下さるときには、たとえ渇ききったところであっても、その渇きはいやされ、そこで、私たちに力を与えて下さる。
それだけでなく、私たちの存在そのものを変えて、一つの泉、うるおいに満ちた存在として下さる。
常になにか満たされず、渇いていて動揺し、まちがったものをすら求めてしまうのが人間である。それなのに、今から二千数百年も昔、このように、人間の根本的な変革が可能であることを神から示されていたことは驚くべきことである。
人間という存在が一つの泉になる、ここに大いなる祝福がある。泉とは絶えず外に命を支える清い水を注ぎだすもの、私たちもそのようにしていただきたいと願うものである。
チシマノキンバイソウ(千島の金梅草)
北海道 大雪山 2009. 7.21
(←の写真をクリックすると拡大表示されます。)
この野草は、大雪山系の黒岳(1,984m)への頂上に近い登山道にて咲いていたもので、この写真は、残雪の残る峰が遠景に見えます。前回のトカチフウロとほぼ同じところに見られた群生です。 金色(黄色)の大きな梅のような花ということで、金梅草という名前がついています。花の大きさは、4cm内外、高さは20〜70cmほど。(去年の8月11日の「今日のみ言葉」を持っている方は、この野草が木陰で一輪咲いているもので参照してみてください。)
残雪があることからもわかりますが、夏でも気温の低い北海道中央部の高山帯で咲く花、その名前も千島列島に咲くことを思わせますが、さらにアリューシャン列島など寒さ厳しい環境のもとでも咲く花です。
この写真に見える白い花はカラマツソウで、これも本州の高山や北海道でしか見られないものです。 これらの野草たちには、本州ではなかなか見られない貴重なものと言えますが、北海道ではこのように群生していて、厳しい環境を好んで咲く花に心が惹かれます。
人間においても、神の国のために、あえて厳しい状況に身を置こうとする、そのような人に心が惹かれるのと同様です。
そのような人のうち、生涯、神の御心にかなった最も厳しい状況に歩み続けたのがキリストだったと言えます。それは二千年を経ても世界の歴史の歩みのなか、世界各地において無数の人たちの心に清い花を咲かせ続けてきたのです。(文、写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 192 2010.6.10
乏しい人は永遠に忘れられることなく、苦しむ者の希望は決して失われない。 You, LORD, have never forsaken those who seek you. |
だれでも困難な状況に直面することがある。そして、さまざまの人に可能な助けを求める。それは病気であれば医者であり、また人間のかかわる問題、仕事のことならば、友人、役所の人、カウンセラー、弁護士等々。 そしてそれによって自分でけではとてもできなかった解決の道へと導かれる。 私たちはそうしたさまざまのことによって助けられ生かされている。
けれども、どのように方法によっても解決できないような問題もある。それは犯してしまった大きな罪のこと、それはもとに戻すことができない。また、自分の心が自分でもどうにもならないほどに、痛み、苦しみがあるとき、とくにそれが難しい病気で、死に至るような苦しみの場合、それは人間への相談や話し合いではどうすることもできない。
旧約聖書の詩篇にはそうした深い苦しみや悩みに陥った魂の求める叫びが多く記されている。そしてこの詩のように、そこから主に真剣に求めるときには、必ず何らかの助けが与えられる、という経験をしていく。
神の名、それは神ご自身がどんな本質をもったお方であるかであり、そのことを知っているときには神に求め、より頼む。 私たちの魂が傷つき苦しむとき、どんな人でも分かってもらえないとき、決して見捨てることのないお方がいてくださるということは何と感謝すべきことだろう。
この世は実に不可解なことも生じる。どうしてそのようになるのか…。解決のできない問題に直面したときでも、神はこのような詩を通して、決して希望が失われない、何らかの助けは確実だ、と語りかけて下さっているのである。
北海道 大雪山 2009. 7.21
この野草は、大雪山系の黒岳(1,984m)への頂上に近い登山道にて咲いていたフウロソウの仲間で、チシマフウロ(赤紫色)の白い色のまさった変種です。これは北海道の中央山地に多いとのことで十勝地方の地名をとってその名とされています。フウロソウの仲間にはよく知られた薬草であるゲンノショウコがあり、徳島県の剣山の1500メートル以上の一部の山域には、シコクフウロという赤紫の美しい花が夏に見られます。
この写真のものは、はるかに周辺の山々を見下ろすような高山にあって、このように柔らかな 色調の花びらをつけ、静かに咲いている様子には、高山の厳しい気候に耐えてきたこの野草の内に秘められた力を感じさせてくれます。
地上とはことなる天の国のような清い雰囲気に包まれた北国の高山、その大気のただなかで育ったこの野草たちに接して、私たちも、日々、神の国の風に触れ、育てられたいと願うものです。(文、写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 191 2010.5.25 わたちたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。
Seek the LORD while he may be found; call on him while he is near. |
だれでも何かを求めている。乳飲み子はミルクを、また子供は母親の愛や友だち、あるいは遊び道具を、そして成長すると仕事や富を、将来のよき家庭を、あるいは健康、病のいやしを、人から認められること等々。そのようななかで、ここに言われているように、神を求める人は、きわめて少ない。とくに日本においては周辺の中国やロシア、韓国、台湾、フィリピンなどの国々よりはるかに唯一の神を信じている人は少ない。それゆえ、神に求めることがない人が圧倒的に多い。
いかなる人をも受けいれてくださるような愛の神などいない、と考えるとき、私たちが直面する苦しい問題や重荷が心にふかくのしかかるほど、どこに何を求めたらいいのか分からなくなる。
神は目には見えないうえに、愛と正義の神などいないように見える現実が至るところにある。しかし、そのただ中から神がたしかにおられることを実感し、信じる人たちは世界中で起こされてきた。現在でも同様である。
現在どんな状況にあっても、またどんなに過去に罪を犯してきた歩みであっても、開かれている道がある。それが、ここに言われている神を求め、神に向かって叫ぶ道である。
天地創造をされていまも万物を支えておられる、神が私たちを見守ってくださっているのなら、どんなときでも恐れることはない…、それゆえに、聖書では、繰り返し「恐れるな!」と言われている。
神に心の方向を転じること、それはしばしばこの箇所のように「立ち帰る」と訳されている。 この原語の意味は、英訳にも見られるように、「転じる、方向転換」であり、ここで言われているのは、神へと心の方向転換をすることである。(turn to the Lord)
人間を見つめていたら、そこには救いはない。ますます事態は悪化する。 「私を仰ぎ望め、そうして救いを得よ」(イザヤ45の22)といわれていることと同じことが強く勧められている。
このように、人間の根本問題の解決のために、実はきわめて単純な道、だれにでも、しかもいつでもできる道が備えられている。そうすれば豊かな恵み、私たちの消すことのできない罪の数々をも赦し清めて下さる。
毎日の生活のなかで接する自然のたたずまい、青空や星の輝き、風のそよぎ、草木の繊細さ等々、そこからも主に立ち帰る道が開けている。また、喜ばしいときも、主に心を転じて、自分の努力とか他人のおかげと思うより先に、まず神に心を転じて神の支えを感謝、そのうえで、具体的に関わりを与えられた人たちにも感謝する、そして苦しいときに、まただれもが分かってくれないようなつらいとき、いわれなき非難を受けるときにも、人間でなく、主に心を転じて神に助けを求め、みもとにその苦しみをゆだねる、さらにはすべての人に訪れる死が近づくときにも、さらに集中して主に心を転じて、天の国を仰ぐ。ここに、御国への道を歩ませていただく幸いがある。
このタチツボスミレは、白色の美しいものです。ふつうのタチツボスミレは淡い紫色で、春に山を歩くと最も群生などしばしば見られる最もなじみのあるスミレの種類と言えます。 スミレにはたくさん種類がありますが、「スミレ」という植物名のものは、花の色は濃い紫色で葉にも特徴があります。これは、野山を歩いてもなかなか見つからないものです。
この写真の白い花のタチツボスミレは、近くの山の谷川沿いにただ一株だけひっそりと咲いていたものです。その山道は樹木の生い茂ったあまり日も当たらない道で、山仕事の人がわずかに通るくらいでほとんど歩く人もなく、しかもその山道から少し離れている草むらのなかにあるので、ほとんどだれも気付いていないと思われます。
これがタチツボスミレであることは、画面右下に少し見られる櫛状の托葉(たくよう)があることで分かります。いままで何十年の間、春の野山でいろいろなスミレを見てきましたが、この白いタチツボスミレは、この写真のもの一つしか出会ったことがありません。
白い花びらは、天使たちの衣のようで、清められた御使いたちが神へのコーラスをしているかのようです。黙示録の著者が、神から天の国の状況を啓示され、数えきれないほどの人々が、白い衣を身に着けて、神とキリストの前で 「救いは、神と小羊(キリスト)のもの!」と大声で叫んでいたということ、そして、 私たち人間の目標は、このように清められ、あらゆるこの世の闇の力に勝利して、神とキリストを賛美するというところにあるのだということを思い起こさせてくれるのです。 (文、写真とも.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 190 2010.4.10
To be distressed in a way that God approves leads to repentance and then to salvation with no regrets; it is the world's kind of distress that ends in death.(NJB). |
私たちが生きていくときに、何らかの悲しみはつねにつきまとう。悲しみはそれがひどくなると耐えがたい苦しみとなり、生きていけないほどになる。
私たちが罪を犯してしまったとき、また、愛するものを失うとか、難しい病気、自分がひどく見下されたり、差別されたときなど、さまざまのときに、人は、深い悲しみに陥る。その悲しみや苦しみは深いほどに生きる力を失わせる。 また、そのような悲しみを与えたのが、特定の人間であればその相手に深い憎しみを抱くようになることもある。そして憎しみを持つことはその人の魂にとってのさらに害を与えることになり、二重の打撃を受けて魂は命を失う。世の悲しみは死をもたらすと言われているとおりである。こうした悲しみの根源に、「自分」がある。私たちの心が自分というものから離れて見ることができないかぎり、この世の悲しみや苦しみが大きいほど魂は死に至る。
しかし、私たちがそうした悲しみの中心に神を置くとき、罪による悲しみをも神に立ち返って赦しを受けることができるし、さまざまの悲しみも、愛の神からのものとして受け取ることができるように導かれる。 そして、どんなに不可解でもきっとその背後によき意図があるのだ、と信じていくとき、言いかえると、神への方向転換によって私たちは命を与えられる。神はそうした方向転換を祝福して実際にその悲しみや苦しみを乗り越える力を与えて下さる。(悔い改めとは、原語ではメタノイアであり、これは何らかの個々の罪を悔い改めるといったことでなく、本来の意味は、魂の神への方向を意味する。)
このことは、使徒パウロが、「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8の28)と言っていること共通している。神を愛するのでなかったなら、この世の悲しみ、苦しみはそれが深いほど回復できなくなり、最終的には死へと通じている。
主イエスも、「ああ、幸いだ。悲しむ者たちは! なぜならその人たちは(神によって)慰められるからである。」(マタイ5の4)と言われて、悲しみを通って、神の励まし、慰めを受けることを約束してくださった。
私たちの魂に対して根本的ないやしの力を持つのは、神に立ち返ることによって与えられる神の愛なのである。
野草と樹木たち
ヒュウガミズキ (マンサク科)
2010.3.16 (わが家の植栽)
このヒュウガミズキは、3月にこのような、黄色の花を咲かせます。高さは、2〜3メートルほどの木です。木々の芽がまだ、ほとんど出ていないころ、この木自身、葉が出るまえに咲き始めるもので、同じなかまのトサミズキよりは、花の穂が小さく、落ち着いた感じのする花です。春の到来を告げるような初々しい黄緑がかった花で、新しい命の季節を告げているような雰囲気があります。
これはもともと宮崎県の日向地方で自生があるということから名前が付けられたものですが、近畿北部の福井、富山、岐阜などに多くみられるとのことです。
こうした春先に咲く花によって私たちは、春の到来を知らされ、いのちの芽吹く季節への希望を強められます。この世にはさまざまの問題があり希望のないような状況があちこちにみられますが、こうした人間よりはるか昔から存在して、変ることなく花を咲かせ続ける自然の姿は、私たちへのメッセージが込められているのです。
それは、それらを創造した神の無限の力、静けさのなかにあって、つねに新しいものを生み出される神に立ち返るようにとの呼びかけだと感じます。(文、写真とも.YOSHIMURA
今日のみ言葉 189 2010.3.10 |
福音という最も重要なものを伝えるために、さまざまの人たちが働いた。パウロもその一人であった。しかし、そうした人たちは、いわば種を植えたり、水を注いだりしたと言えるのであるが、いくらそのような働きがあっても、成長させるのは神である。
この世のことでは、最初のきっかけを与えたり、指導、助言したりして成長させるのもまた人間であると思われている。
例えば、野球やサッカーなどのスポーツは、監督の指揮、采配が重要であり、監督が成長させるのだと思われているし、オリンピックでメダルを取るほどに成長するのは、指導者の技量が決定的であるし、音楽など芸術の方面で成長するためには、小さいころから優れた指導者についてはじめて成長できると考えられている。
しかし、最も重要な目に見えない領域のこと、唯一の神を信じ、キリストの福音を信じてその力を受けていくといったことは、最初のきっかけは人間が知らせ、祈りとか言葉などで助けることはなされる。しかし、それらがいくら与えられても、神が成長させてくださらなかったら魂は成長しないというのである。
ここにも、人間の関与することがごく部分的であり、決定的なことは神がなされるという深い思いがある。
魂の成長とは何か、それは、聖書に記されているような、愛、喜び、感謝の心、平安、真実などが与えられている状態である。成長していないほど、自分中心であり、傲慢な心となり、他者への愛もなく、目に見えない神のことを思っていろいろな出来事を喜ぶこともできず、従って深い心の平安もない。
それゆえに、どんなに環境が悪くとも、成長させて下さる神にしっかり結びついているときには、その人の魂は成長していく。逆によい環境にいながらも、そこに安住して直接に生ける神と結びつこうとしないならば、知識は増えても霊的な成長はない。
このことから、神からの愛が深まり、主にある喜びや平和などが与えられるのは、聖霊の実として与えられると言ったパウロの言葉が思いだされる。
病気やさまざまの生活上の困難、また能力的に恵まれないといった状況にあっても、真の霊的な成長はなされ得る。どんな状況でも神と結びついているかぎり、その人は成長させていただけるからである。スポーツなどは、病気になればたちまち技術的に成長できなくなるが、魂の成長に関しては、病気になってかえって深い成長がなされることが多い。
また、どれほど長く成長できずに停滞していたとしても、神の御手がはたらくときには突然、その魂は成長をはじめることもできるのであって、ここに私たちすべてに与えられた希望がある。
野草と樹木たち
リンドウ (リンドウ科)
伊吹山(標高1377m、滋賀県と岐阜県の県境にある)2009.9.21
この花は、秋の代表的な花であり、多くの人たちには、花屋さんで売っているリンドウを思い出すでありましょう。しかし、あの花屋のリンドウはエゾリンドウの栽培種で、花が階段状になってつきますが、この「リンドウ」は、一部は下部にもつきますが、多くはこのように茎の上部にまとまって咲きます。 その色合いが、花びらの元の部分はややエンジ色で、太陽の光を受けて開きます。この写真は、2009年の秋に、伊吹山で咲いていたもので、野生のリンドウに接するのは何年ぶりかのことでした。
この青紫色の美しさは、多くの人の心を引きつけるものがあります。
かつて私は大学時代に、京都の北山をよく歩いていて、秋のころには、時折このリンドウを見付けたときは、一人の山歩きを歓迎してくれているような気持ちになり、うれしかったのを思い出します。
テントや食料、燃料なども携行して、京都市北部の鞍馬山から登りはじめて、北山、丹波高原の山々を越え、谷をわたって何日も歩いて日本海を望む峠を越え、福井県まで出たとき、途中の由良川の源流地帯で出会ったリンドウの美しさは今もわすれられないものがあります。
天の国の青さ、というようなものを感じたのです。
宮沢 賢治も、このリンドウの青紫色に惹かれた一人だったと思われます。彼の作品には次のような描写があります。
---------------------------------
「あゝ、りんどうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だねえ。」
カムパネルラが、窓の外を指さして云ひました。
線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたやうな、すばらしい紫のりんどうの花が咲いてゐました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍らせて云ひました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」
カムパネルラが、さう云ってしまふかしまはないうち、次のりんどうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。
と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光って立ったのです。(「銀河鉄道の夜」より)
---------------------------------
私の心のカメラに映ったリンドウ、それは40年以上の歳月を経てもなお消えることがありません。この花自体は秋だけしか見られず、また実際の野生状態で見る機会はなかなか普通の人には与えられません。しかし、この花にたたえられた深い青紫色は、頭上にひろがる青い空、また海の青い色などにも通じるものがあり、それは私たちを神の国の深みへと招こうとするメッセージをたたえているのです。
(文、写真とも.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 188 2010.2.10 |
二人は、「(イエスが)道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカ福音書24の32)They asked each other, "Were not ourhearts burning within us while he talked with us on the road and opened theScriptures to us?" 心が燃える、 人は何によってその心が燃やされるのだろうか。遊びやスポーツといったごく普通のことにもそれに似た気持ちになるだろうし、政治やボランティアのような社会的活動、あるいは勉強や研究、仕事、芸術的活動などでもそのような経験をすることがあるだろう。 また、すばらしい景観の大自然に出会ったときにもそれはある。また、人の純粋な愛や行動に触れたときにも、心のなかの何かが燃やされあつくなる思いがする。 この世に生きているとき、そのようなことが何もなかったら、この世に生きていたいとは思わないだろう。 しかし、たとえ燃やされる経験を持ったとしても、たいていはそれはロウソクの炎のように、ある期間でしかなく、またせっかく燃えていてもこの世の風にふき消されてしまうことが多い。 そのような現状にあって、一度燃え始めると消えることのないような状態、燃え続けるということはいかにして可能であるだろうか。 ここにあげた聖書の言葉は、復活したキリストに関する言葉である。十字架で処刑されたイエスは、三日目によみがえったのであるが、そのイエスが弟子の二人にどこからともなく近づいて語りかけられた。弟子たちはそれがだれであるか分からなかった。しかし、後にともに食事をするとき、目が開かれてイエスだと分ったのであった。そして、復活したイエスとともに道をあるいていたとき、かつてないような不思議な、印象的なことが彼らの内に生じた。それが「心が燃え続けた」(*)ということなのである。(*)原文では、進行形が用いられていて、継続のニュアンスがある。そのためこの英訳では過去進行形で訳されている。 それは、復活のイエスによるものであった。 人の魂を深いところで燃やし続けること、それは二千年前のこの特異な出来事に終わるのでない。それ以後、無数の人たちの心は、よみがえった主イエスによって、またそのイエスの別の現れである聖霊によって燃やされ続けているのである。主イエスの十字架の死以後、わずか数十年でローマ帝国全体に広がっていったのも、そのような力による。 しかし、その燃やす力、聖なる霊を持続的に与えられるためには絶えざる祈りが必要となる。使徒パウロも、「絶えず祈れ、どんなことにも感謝せよ、聖なる霊の火を消すな」と書いている。(Tテサロニケ5の17〜19) 現在も、私たちの日々の生活において、しばしば生活の単調さやどうにもならない困難な問題に直面して意気消沈しそうになるとき、私たちが祈りのうちに主を仰ぐときには、ふたたび心が燃やされてくる。 求めよ、そうすれば与えられる、このイエスの言葉によって私たちも日々聖なる霊を求め、そして与えられ、からだは弱ることがあろうとも、心は常に燃やされていたいと願うものである。
野草と樹木たち
ツリガネニンジン(キキョウ科)
伊吹山(標高1377m、滋賀県と岐阜県の県境にある)2009.9.21
この野草の花は、伊吹山の1000メートルを越える山道に見られたものです。このような山地でなくとも、平地の野にも見られますが、徳島では、あまり見られなくなっています。高さは30cm〜1mほどです。キキョウの仲間(*)だということはその薄紫色や形からも感じられます。
(*)キキョウ科は、Campanulaceae(ラテン語で、カンパーヌラーケアエと読む)といいますが、それは、ラテン語の campanula (カンパーヌラ)小さい鐘、鈴を意味する言葉から作られた言葉です。
日本語のツリガネニンジンという名は、花の形と、根がニンジンのように大きいからです。
なお、このラテン語から生じたイタリア語の campanella(カンパネラ)は、人名として使われ、宮沢賢治の銀河鉄道の夜という作品にも、ジョバンニ(ヨハネ)とともに現れるので、なじみのある方も多いはずです。
この写真の花は、頂上へ向かう一般の道とは違って、ほとんど人が通っていない山道で見出したものです。天に向かい、また周囲の自然のただなかで、さわやかな声で賛美しているかのような雰囲気があります。この花は、おそらくだれによっても愛され、親しみを感じさせると思われます。
人間には好みや相性というのがあって、だれでもが近づきやすい人というのはそう多くはないと思われます。 しかし、自然のこのような野草の花やその姿は、近づくものはだれでもがほっとするようなものをたたえています。 キキョウ科のラテン語名のように、清い鈴の音を大自然のなかで静かに響かせているようです。
対立や憎しみ、嫌悪など、入り組んだ人間感情の錯綜するなかで、この花は、そうした混乱に決して巻き込まれない清いすがたを私たちに提示し、神の国を指し示すものとなっています。(文、写真とも.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 187 2010.1.13 |
私たちが真理を悟るためには、どのようなことが必要と思われているだろうか。 小、中、高校や大学教育における勉強や各人の努力によって、あるいは、人生経験によって、またさまざまの読書や厳しい修業によって等々、さまざまのことが、思いだされるであろう。
しかし、ここでは、普通考えられているようなこととは、まったく異なる道が示されている。それが、真理の霊によってということである。
大学関係で専門的に研究してその分野に関する真理を深く知る人はたくさんいる。しかし、この聖書の言葉で言われている真理は、そのような科学的な真理、学問的な真理とも異なっている。
ここでいう真理とは、生きる力を与えるものであり、外的な状況にもかかわらず、希望や喜びを与え、何ものによっても変えがたい平安を与えるものあり、死の力にも打ち勝たせるものである。
このような真理は、現在の学校や大学などが存在しなかったときから、またそうした教育をまったく受けていない人たちも与えられていたのであり、そのような学問とは関わりなく与えられるものであることは、はっきりしている。
実際、イエスが語られた当時、福音を伝えられた多数の人たちは、学問などしていないし、書物を持つということすらできない人たちであった。イエスの代表的な弟子であったペテロ、ヨハネ、ヤコブたちは、みな学問や研究などとは全く関係のなかった漁師たちであった。彼らはこの言葉にあるように、真理の霊(聖霊)を受けることによって、真理が何かを知り得たのであった。
使徒パウロは学問をしていた人であった。しかし、その学問にもかかわらず、彼はキリスト教の真理を見抜くことができず、かえってキリスト教を全力をあげて迫害していたのである。このことは、パウロが受けていた学問が、聖書でいうような真理を与えなかったということを示している。
そのパウロは次のように書いている。
「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
…神は、この世の愚かな者を選び、この世の弱い者を選び、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」
(Tコリント1の26〜28より)
そのような弱い立場にあった彼らが、全体としてみるなら、厳しい迫害にも耐えて信仰を守り抜き、キリスト教は最終的にローマ帝国の迫害の力に勝利したのである。
彼らが驚くべき力を発揮して、福音の真理を後代に伝えていくことができたのは、まさに真理の霊が与えられたからであった。
この真理の霊によって、生きる希望を失った人にも、そうした絶望に打ち勝つ力はどこにあるのかをも悟るし、その力をいかにして得るのか、ということも知り、実際にそうした力を与えられることで、闇の力に勝利していくことが可能となる。
そしてこの真理の霊が与えられるためには、学問や能力など関わりなく、いま置かれているところで、神に求めるだけでよい。それを主イエスは、次のように言われたのである。
「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば、見いだす。」(マタイ7の7)
アケボノソウ(リンドウ科)
伊吹山(標高1377m、滋賀県と岐阜県の県境にある)2009.9.21
この日は、静岡での聖書講話を終えての帰途でした。高速道路の料金が安くなったこと、9月の5連休ということで、私がかつて経験したことのない大渋滞となり、あまりにも進まないので以後の予定を変えて、途中で高速道路からおりて、近くの伊吹山の植物を調べることにしたわけです。
ずっと以前から、高速道路や列車で通るたびに、その特徴ある山容を目にしていたこと、また徳島の剣山でも、イブキトラノオという花には以前からなじみがあり、その花の名前になっていることもあって、いつか登りたいと思っていたのですが、時間的な余裕がまったくないので、そのようなことはあきらめていただけに、予想外の賜物でした。
ここにあげた、アケボノソウは、伊吹山でもわずかしか見られないということでしたが、この写真のものは、本来の山頂付近の道からは相当離れた山道、ほとんどの人が訪れないところで、見出したものです。
花びらの半分ほどから先端の部分にある黒い小さな斑点が、夜明け(あけぼの)の星のようだというので、この名前があります。純白の花びらにこの小さな星のような点、そしてその手前にある緑色の二つの斑点とあいまって類のない色合いと変化にとんだ模様となっているので、一度、野生の状態で見た人は忘れがたい印象を残すのです。
私も、40年ほども昔、徳島県の中津峰山(標高773m)の頂上近くの沢で初めて見付けて印象に残っていた花で、その後も折々に各地の山で見かけたものですが、最近は少なくなっているようです。
この花が、リンドウ科に含まれ、薬草として有名なセンブリ属で、センブリの花を見たことのある人は、すぐにその類似性に気付くと思います。
暗い夜空に点々と光る星たちに対して、この花は、白い花びらに点々と小さな黒い点と緑の大きい点が星のように散りばめられた美しいものです。
この地上に見られるこのような野草の存在も、しばしば星のような輝やきとして私たちの心に残ります。そして、こうした植物の花を実際にみることができない体の弱い人たち、あるいは目の見えない方々の心の内にも、星のように光るものを与えて下さるのが、聖書に記されている愛の神だと言えます。
(文、写真とも T.YOSHIMURA)