今日のみ言葉 |
主の言葉によって万物は秩序立てられている。 By his word all things hold together. |
私たちを取り巻く自然の世界には、一つ一つを注意深い目で見ていくならば、木の葉の一つ一つの大きさや鋸歯、あるいは光沢や微細毛の有無、葉脈の状態等々、そしてそれぞれの花の様子もまた千差万別である。それらの葉が秋になって紅葉あるいは黄葉していく様子もまたそれぞれに異なっている。さらに木の幹の様子や全体としての樹の形など、どこを見てもその精密で整然と造られているさまには驚かされる。
それだけでなく、全体としての山々、渓谷、空や海、雲等々、夜になればまた星たちの輝きがあり、風が吹いてもその奏でる音楽にはまた人間の音楽演奏では不可能な重厚さと清らかさを併せ持ってしかも変化に富む音がある。
この集会の書の著者は、こうした神の創造の深い意味に魂の目を開いて見ることができるようになったゆえに、それを読者に指し示している。
そうした自然の世界に現れた神の力と無限に広がるかたちの変化は、またそのまま人間にもなされている。人間も実にさまざまの能力が与えられ、それぞれに唯一の存在として無限の多様性をそれぞれの人間が与えられている。
しかし、人間が作り出すものは、しばしば画一的なものとなる。機械で同じものが大量に生み出されるのに対して、自然の世界では、すべての木々の葉一つを見ても、同じものは二つとないほどに、一つ一つが独自のものとして造られている。
大量に人の命を奪うことを目的とするゆえに、最も大きな罪の集合体といえる戦争のときには、それに従事する軍人たちに最も画一的な行動が要求される。 逆に、最も愛に満ちた神に導かれるときには、自然の草木たちにも見られるように、人はそれぞれが他には見られない独自の歩み方をするようになる。
人間の考えや行動は狭く、小さい。しかし、その小さき存在にも神を見上げる能力を与えられている。そしてひとたび神を知った者は、どのような事態になろうとも、神こそはすべて! という希望を与えられる。それは神からあらゆる善きもの、すべての良きものが流れ出てくる源だからである。
ハマゴウ
鳥取砂丘にて 2008.11.20
11月下旬、晩秋の鳥取砂丘を歩く機会が与えられました。学生時代に大山から蒜山への登山からの帰途に立ち寄って以来、40数年ぶりになります。鳥取で、み言葉の学びの集まりがなされた場所は砂丘を目の前にするところでした。前日に、雪が降り、砂丘にも白い衣で覆われ、美しい雪の砂丘となっていました。翌朝には、それまでの雲におおわれた空が、晴れ渡り澄みきった青空と真っ白の雲が浮かぶようになりました。
その明るい大自然の砂の丘では、前日の雪のためか、朝は一人も砂丘を歩く人の姿もなく、広々とした日本では他に見られない砂の丘が眼前に与えられたのです。 神の創造の御手による、壮大な砂の芸術がそこにありました。人間の造るものがいかに小さいものでしかないか、私に迫ってくる自然の姿全体がそれを語っていたのです。
そのような砂ばかりのところにたくましくも育ち、根を広げ、花を咲かせて実を付けているのが、ハマゴウという植物です。これは海岸植物の中でも代表的なものの一つで、この植物全体にある香りと花のゆえに、私にとってずっと以前から印象的な植物でした。
この砂丘では、砂ばかりの土、海岸からの強い北風を受け、雪や砂に吹きつけられ、直射日光で夏は砂が暑くなり50度にもなるような厳しい状況のなかで、このように育っています。
この植物は、花は薄紫の美しいもので、全草に香りがあり、その黒い果実が薬用になる薬草として知られています。その名前ハマゴウとは、浜辺の香(ハマのコウ、香り)に由来ししいます。 ずっと以前、ハマゴウは、わが家のある日峰山の北側の海岸でかなり多く自生していて、近くの民家の庭でその果実をたくさん乾燥させていたのを覚えています。
神の言葉を特に選ばれて与えられた旧約聖書の民は、奴隷状態であったエジプトからモーセによって導き出され、40年という長期にわたって砂漠のような厳しい地域に導かれてて歩みました。そしてそこで枯れてしまうことなく、その荒野のただ中で多くの試練と苦しみに遭遇しつつ、その信仰の芽は失われることなく育っていったのです。
久しぶりにハマゴウを砂丘のなかで見出して、冷たい風にあたりつつ、聖書にある砂漠での神の導きのことに思いを馳せるひとときを与えられました。 (写真、文ともに T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 173 2008.11.5 |
新約聖書のなかでも最もよく知られている箇所の一つがこの聖句である。ぶどうの木はイエスが生きておられたその地方においてはとくに重要な果樹であり、乾燥地帯においてもよく育って人々の生活に深く溶け込んでいたものである。そのままで食べられて美味であり、乾燥しても干しぶどうとなり、またつぶしておくだけで発酵してぶどう酒ともなり、とても有用な果樹であった。
そのような身近な植物を用いて、最も重要なことを教えられたので、当時の人たちにもごく自然にこの言葉がはいってきたであろう。
主イエスの内にとどまっていようとするとき、主イエスも私たちの内にとどまっていて下さる。(*)
そのイエスが自然に実を結ばせるというのである。
(*)新共同訳聖書では、「私につながっているならば…」というように訳されているが、原文の言葉は、ヨハネ福音書でとくに多く用いられているメノー(meno)で、上記に訳したように、「留まる」という原意であり、たくさんある英語訳も、remain in あるいは abide in という訳語が最も多く用いられ、一部には、stay in や live in と訳しているのもある。
主が私たちの内にいて下さるということ、これは驚くべきことである。主は神と同質のお方であり、天地創造をされ、今も万物を支えておられるような無限大のお方がこの小さな罪深い私たちの魂のうちに住んでくださるということ、そのようなことは本来あり得ないようなことである。
ほかのどんなことがそれにまさる恵みと祝福であろうか。もし主イエスが私たちの内に住んで下さるなら、そのイエスがあらゆる困難をも乗り越える力を与えて下さるであろうし、ささやかなものにも感謝し、満たされることができるようにしてくださる。また、どこにも行けないような病弱になったとしても、なお内にいます主が私たちに天の国のいのちの水を注いで下さることを期待できる。敵対するような人に対しても憎しみを抱かずその人のために祈る心をも与えて下さるであろう。また死の近づくときにあってもその内なるキリストが私たちを支え、御国へと導いてくださることを信じることができる。
そのような愛の心、平安や力、喜びなどすべてを実と言われている。人間の単なる努力も、教育や科学技術や健康な生活もそれだけでは決してそのような実りはできないゆえに、私たちは主を仰いで主の内にとどまり、そのような実りをいただきたいと願う。
ガマズミの実 徳島県海陽町 2005.11.8
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秋になると、木々はさまざまの実をつけます。ぶどうや柿、栗といったものは生活にも身近で重要なものですが、自然の山野にて見て美しく、食べるによいものはごく少ないものです。この写真にあるガマズミは、数年前に撮影したもので、徳島県南部の山中のものです。この植物は、春には白い花がたくさん咲いてよく目立つものですが、その実もまたこのように赤く色づいて美しいもので、周囲の木々の葉が黄色や褐色になってくる晩秋に赤く実って食べられるようになります。野山で樹木の実はコナラ、アラカシなどドングリと言われているようなものも含めて多く見つかりますが、そのままで食べられるものはごく一部です。これは甘酸っぱいもので、いかにも自然の中で実ったものという感じがします。
このような植物の実りは、太陽の光と地中からの水や養分があればできます。しかし、人間においては、いくら太陽の光を浴びて元気に生活していても、また十分な食物を食べていても、実りはできないのです。それはみ言葉にあるように、人間を超えたお方(神、キリスト)と結びつき、上よりの力と祝福を受けることによってそれが可能になるのだといえます。
(写真、文ともに T.YOSHIMURA)
私たちは日々の生活のなかで、何を自分の前に置いているだろうか。朝起きるとき、まず私たちの心に浮かぶこと、それはそのとき私たちが自分の前に置いていることである。朝起きてまず思い浮かぶことが、愛と真実な神に関わることであるならば、その人の人生は勝利を得ていると、あるキリスト教思想家は言ったが、自分の前に何を置こうとしているか、それによって私たちの生涯の方向が決まっていく。
この世に生きて働く神のことを全く知らなかったときは、何を自分の前に置いていただろうか。幼な子のときには母親であり、幼稚園とか小学校に行き始めると友達や先生となり、またスポーツや学業の成績をいつも目の前に置いているということもある。あるいは心の合う友人ができたらその友のことがいつも自分の前にあるだろうし、ゲームとか遊びになる場合もある。食物の乏しい貧しい国々では日夜食べ物のこと、それを買うためのお金のことが、また病気に苦しむ人はその病気の苦しみが目の前にあるだろう。また、何か罪を犯したときにはその罪の結果やとりかえしのつかないことになったことへの恐れが日夜その人の魂の前に見えてくることもあるだろう。置こうとしなくとも、ふと気がつくとそのようないろいろのものが目の前に置かれているといった状況なのである。このように
国により、時代により、また個々の人々の置かれた状況によって人間がその前に置いているものは実に多様である。
しかし、いかなる状況にあっても、だれでもが同じように私たちの前に置くことができ、しかも力となり導きとなり、救いとなるもの、それがこの詩にあるように神なのである。神を前に置きつつ、そこから物事を見ることが私たちのあるべき姿なのだといえる。そうしないと前述したようなさまざまのものが目の前に置かれてそれに引っ張られるということになる。人間だけ、事物だけを前に置いているとき、私たちは間違った道へと歩いていくことが実に多い。人間そのものがあやまちに満ちた存在であるからである。
まず神を私たちの前に置こうとする意志があるとき、神もまた私たちの近くに来てくださる。そしてその力を与えて下さるゆえに、さまざまの出来事や間違った考え方にも動かされず、神の国への道を歩んでいくことができる。みなそのように導かれていくことこそ、私たちの願いである。
タカサゴユリ 徳島県小松島市日峰山にて 2008.8.18
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この百合は、書物には関東以西の地方に分布すると書かれてありましたが、最近は東北地方にまで広がっています。今年7月に福島県を訪れた際に、自生しているのを見出したことがあります。私たちの地域では白いユリの仲間では最もひろく見られます。8月はじめに近畿の集会からの帰途、淡路島から鳴門大橋に近いところの平地にたくさん群生していたのを目にしました。さまざまの夏の生い茂る草にもまけず、また切り崩しのやせた土地でもたくましく育つユリです。花の長さは20~30センチほどになります。
域によっては香りのないのもありますが、わが家の近くに自生しているものはよい香りがあります。この写真は雨上がりのときであったので水粒を付けて、いっそうその生き生きといた美しさが感じられます。このタカサゴユリというユリの名前は、台湾が原産地だからです。台湾のことを昔の日本人が高砂国といい、そこに住む人々を高砂族といっていたのでそこの原産のユリをタカサゴユリというようになったので、その意味は「台湾百合」ということになります。
これは、テッポウユリと比べると、花の筒の部分に淡紫色の筋が入ることや、葉が細いこと、種で増えることなどが違っています。種を実らせないときには、球根ができて多年草となるが、種を実らせると、球根は消えて1年草となるという変わった特徴ももっています。
これと似たテッポウユリは日本の南部の島々、沖縄や種子島、屋久島などが原産地で、その地域には自然に海岸の崖などにも生えているとのことですが、ほかの地域では野生化することはないようです。
白い百合はその純白の気品ある姿や香りのよさのゆえに、キリスト教では復活の象徴としてよく用いられます。
この写真のタカサゴユリは、樹木やほかの草が茂るなかでも成長して美しく花を咲かせていました。復活ということは私たちの最終的な希望ですが、その最も重要なメッセージを花の純白に託して私たちに送り続けています。(写真、文ともに T.YOSHIMURA)
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この世は不真実なことで満ちている。世界の国々の状況や日本の政治、あるいは生活に身近な食品の偽装販売や企業またスポーツの世界なども、新聞やテレビなどのニュースでは不真実なことが繰り返し報道されている。そのような中に日々置かれていると、私たちは真実なものなどどこにもない、というような考え方にとらわれてしまうことになる。
こうした現実のなかにあって、聖書は一貫してそれらの不真実とは全くことなる真実な世界があり、信実なお方がおられることを記している。
神の真実さが最もはっきりとあらわれるのは、私たちが直面する悪から守って下さるということである。最もよいものは目には見えない、同様に最も悪いものも個々の悪人でなく、その背後にある目に見えない悪そのもの、悪の霊ともいうべきものである。そのような悪からも、また具体的な悪い者からも救って下さる。(「悪」と訳された原語は、悪そのもの、あるいは悪しき者のいずれをも意味することができる表現である。)
私たちが最も必要としているのは、人間の愛をはるかに超えた神の愛であり、その愛の本質的な部分ともいえる忍耐である。それゆえ、そのことを神がわからせて下さいますようにとの願いがある。
キリストの忍耐とは、キリストが持っておられる愛ゆえの忍耐であり、またキリストによって与えられる忍耐をも意味している。そのような忍耐は希望とも深く結びついている。神の愛を信じるゆえにこそ、耐え忍ぶのであり、しかもそれはあきらめの気持で耐えるのでなく、希望をもって耐え忍ぶということである。 深く悟るとは、英語訳にあるように、神の愛とその忍耐へと私たちの心が導かれることであり、それを受けることである。この世のさまざまの動きや、経済、政治、あるいは科学技術などのことが分からなくとも、ここで言われている神の愛とキリストの私たちへの忍耐がわかり、それを受けることさえできれば、この世で最もよきものを受けたことになる。
ハマナス 北海道にて 2008.7.17
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夏の北海道など北国ではよく見られるバラのなかまで、野ばらのうちではとくに美しいものだと言えます。 今年の夏に、小樽から日本海側の道を通って、南部にある瀬棚方面に向かう道で出会ったものです。
紅紫色の花の大きさは10センチほどもあり、実は赤く食べられるものです。ハマナスというのは、この実の形がナス、あるいはナシに似ているということでハマナス、またはハマナシという名になったと説明されています。バラというと普通は園芸種の大きな花を思いだして、実が食べられるといったことは思わないのですが、バラ科の植物には食べられるものが多くあります。キイチゴの仲間は、よく知られているモミジイチゴのほかにもたくさんありますが、これもバラ科、梅やサクランボ、リンゴなどもバラ科です。私がまだ大学二年のころの夏休み、北海道のほとんど山ばかりを歩いたときに、礼文島にも立ち寄ったときに親切に宿泊を提供して下さったKさんが、数年前に、ご自分の家のすぐ裏に自生しているハマナスをわざわざおくってくださったのですが、それが今年は花を咲かせ、実もなって、徳島の真夏の暑さにも耐えて最北端の島からのメッセージを送ってくれたのです。
この世のさまざまの混乱した状況にあって、こうした自然の純粋な美しさは私たちの心に天からの水を流してくれるような気がします。(写真、文ともに T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 170 2008.8.6 |
神とは目には見えない存在であるのに、なぜこのように言われているのだろうか。心が汚れていたら神を見ることはできない。 神を見るということは、神の愛や清さ、そして今もすべてを支配されているその万能の力、永遠の命などを見るということである。
私たちの悩みや苦しみは、神を見ることができないとこから生じているといえるだろう。病気の苦しいとき、もし神の愛の御手、そのいやしの御手をはっきりと見ることができるなら、大いなる励ましとなる。
かつて創世記にあるように、兄が殺そうとねらっているゆえに一人で遠くに逃げていくヤコブは、夢の中に、天に通じる階段が見えて、御使いが上り下りしているのを見ることを許された。
それは孤独と危機、前途がまったくどうなるか分からない不安のただなかに現れて、ヤコブの前途を力強く支え導くものとなった。
これは、神、あるいは神が直接遣わした御使いなどを見るという恵みが与えられるときには、大きな力になることを示すものである。
神を見るなどあり得ないとか、自分にはそんなことは必要ないなどと思っている人たちが多い。しかし、神を見るということは、夢うつつのなかで何か霊的なものを見るといったことではない。現実の生活の中で、いかなることにも増して力を与え、どんな困難にあっても前進していく力と勇気を与えるものなのである。
そのようなはっきりした例は、新約聖書にも記されている。それは真理を語ったために迫害され石で撃ち殺されて最初の殉教者となったステファノである。
怒りに燃えた人たちに取り囲まれ、石を投げつけられて死に至るほどの痛みの中で、彼は神を見るという大いなる恵みを与えられた。それゆえに、彼は恐怖におびえることなく、天が開けてまっすぐ神とキリストを見つめ、そして周りの荒れ狂う人たちへの深い祈りをもって地上のいのちを終えたのであった。
ここに、神を見るということがいかに力を与えるかという具体的な例がある。
私たちは、悪の力、闇の勢力、あるいは私たちを絶望に陥れようとするこの世の力にしばしば恐れ、不安となり、また敵対してくる人たちに嫌悪や憎しみを持つことが多い。しかし、もし私たちがそのようなときも神を見ることができるなら、すなわちそうした悪の力の背後に働く愛と正義の神の御手をはっきりと見ることができるなら、そうした悪の力によって動かされることもなく、主の平安をもって歩んでいくことができるであろう。
また、そうした困難や苦しみの状況に直面したときでなくとも、日常の生活においても、たえず接する人間たちの背後にその人たちをも深い意味をもって創造された神の御手をみるときにはどのような人たちもそれぞれに救われるべき存在なのだと思えてくるだろう。
また、私たちが接する自然のたたずまいにおいても、毎日の青空、白い雲、輝く夕日や夜空の星、また身近な樹木や野草の花など、あらゆるものの背後にそれらを創造した愛の御手を感じ、見ることができるなら、私たちの生活はどれほどうるおいのある豊かなものとなるだろうか。
そうしたすべてが清められた魂には与えられるという。そして私たちの魂の赦しと清めのために、主イエスは十字架にかかって死なれたのであった。 私たちはただそのことを幼な子のように信じるだけで、魂の清めが与えられ、そこから神を見るという大いなる恵みへの道が続いていることを知らされている。
ヤマユリ (山百合) 山形市から鶴岡市への山道にて 2008.7.25
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夏の、東北の高速道路の左右の山沿いなどに多くのヤマユリが咲いていて目を楽しませてくれます。しかし、高速道路上ではゆっくり鑑賞はできなくて、写真も撮ることもできないのですが、これは、山形市から100キロ近く北西に位置する鶴岡市に向かう一般の山道で見かけたものです。夏草の生い茂るなかに、目を覚まさせるような大きな、美しい野生のユリが咲いているのを間近に見るのは初めての経験でした。植物園などで見られるものとちがって、この自然のなかでこのような見事な花を見るのは喜びでした。花の直径は20~30センチほどにもなり、香りも強く、草丈も大きく1~2m、花は白い花びらの中央に黄色いすじが入り、花びらには赤みを帯びた斑点が散りばめられています。ユリの女王とも言われるのもうなずけるものがあり、このユリが、江戸時代末期に日本に来たヨーロッパの人たちによってほかのカノコユリやテッポウユリ、ササユリなどとともにとくに強い印象を与え、彼らが持ち帰ってさまざまのユリを作り出したと言われています。その一つが、有名なカサブランカというユリです。しかし、人工的に作り出されたユリにはない深みのある味わいがこうした野生のユリには感じられます。
なお、英語名は、Golden-Rayed Lily of Japan と言います。これは、金色の放射条のすじの入ったユリ という意味で、とくに花びらの中央に入っている黄色いすじも印象的であったのがうかがえます。
このユリは、カノコユリやテッポウユリなどと共に世界で最も美しいユリとされていて、このようなユリがほかの夏草とともに自然に生えている姿はとても印象的でした。
このようなさまざまの点で心を引く植物を創造される神は、正義や憐れみといった点だけでなく、かぎりない美をも持っておられるお方なのだと感じます。
(写真、文ともに T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 169 2008.7.8 |
私たちはたいていの人は何らかの希望を持っている。希望が全くなくなったとき、生きていけないし、生きていてもその魂は死んだようになってしまうだろう。 しかしその希望というものは、たいてい実現性はごく少ない。よく子供に将来の希望を尋ねて、学校の先生になりたいとかサッカーの選手になりたいとかいうことがある。 将来の希望を夢と言い換えたりすることでわかるように、それは夢のようにはかないもの、実体のないものである。
しかし、この世を愛と真実をもって支配し、導いておられる神を信じるときには、全く異なってくる。それは必ず実現して下さる希望が存在するからである。 上にあげた聖書の言葉では、神とは「希望の神」と言われている。さまざまの困難があっても必ずそれに打ち勝つ力を与え、それを乗り越えさせて下さるという希望、死にすら打ち勝ついのちを与えていただけるという希望は必ずかなえられる。
喜びや魂の平和、それはこの世の願いが実現されたときにも生じるが、一時的である。それに対して、神の絶対的な力と愛を信じるところからは、おのずから喜びと平安がある。
希望にあふれている日々、それは人間の計画とか能力によるのでなく、聖なる霊の力によってそのような揺るぎない希望に生きることができることが示されている。
シロツメクサとベニシジミ 徳島県小松島市 勝浦川岸
2008.6.1
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このシロツメクサという野草は最も広く知られている野草の一つと思われます。時々みられる四葉のクローバーも愛好されることもあり、子供たちにも親しい植物です。シロツメクサとは、白い詰め草
の意味で、江戸時代の後期にオランダ国王か徳川の将軍に贈られたガラス器のまわりに、この牧草の乾燥したものがクッション材といして詰められていたことで、その後も壊れやすいものを守るための材料として用いられたということです。
昔はガラス製品はとても貴重なものであったし、長期の船旅での破損を防ぐための材料として日本に入り、後になってアカツメクサとともに牧草としても輸入されて各地に広まったと言われています。
アカツメクサのほうは、シロツメクサよりも大きく、徳島県など暖かい地方では、野生のものはわずかしかみられませんが、シロツメクサはよくみられます。アカツメクサは、北海道などの寒いところではたくさん道路際にも見られます。
どこにでも見られる野草なので、とくに愛好するという人は少ないと思われますが、この地味な庶民的な花に、よき香りがあるので心を惹くものがあります。
人間は、老年になると外見はたいてい美しさが衰えてきます。しかし、そこに どこかキリストの香りを持ったといえるような人がいます。そのような人たちはただ存在するだけで、周囲によきものを静かに提供していると思われます。
シロツメクサの蜜を吸うためにきたこのチョウはシジミチョウの仲間で、地味な色のものが多いなかでとくに目立つ種類です。私が小学校のころは、たくさん周囲にシジミチョウがいて、いろいろな種類を昆虫採集のときに標本にしたことを思いだします。このベニシジミも当時から私に親しいものでしたが、最近はわが家の周囲で少なくなっています。
蝶の仲間は、世界で2万種類近くいて、そのうちシジミチョウの仲間は、その4割ほどにもなるほど種類が多いということです。 チョウも花のように美しい色合いを持つのが多く、創造のわざの不思議さを感じさせてくれるものです。 しかし、その幼虫はこのチョウとは全く別の生物かと思われるほどにちがったもので、毛虫やワラジムシのような気持のよいものではない姿を持っています。このように全く異なる美しい姿に変容するゆえに、ハンセン病で長期にわたる苦しみののちに、身体を大きく損なわれた人が、復活後の自分がチョウのように美しくされ、自由にとびまわる姿を思い描いて俳句にしたのを印象深く読んだことがあります。
私たちもたしかに、汚れた土の器ですが、復活のときには、主イエスのような栄光のすがたに変えていただけるという大きな希望を与えられています。昆虫の変容もそうしたことの象徴的なこととして感じます。使徒パウロも、「蒔かれるときには、卑しいものでも、輝かしいものに復活し…」(Ⅰコリント15の43)と言っているとおりです。(文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 168 2008.6.6 |
この簡潔な主イエスの言葉は、意味深長である。「私の羊」とは、キリスト者のことである。その特質を第一に、イエスの声を聞くとされている。 この「聞く」と訳された原文は、継続のニュアンスを持っているので、一度聞くということでなく、耳を傾け、聞き続けるといった意味を持っている。(*)
(*)それゆえ、原文のニュアンスを詳しく訳に反映させた THE AMPLIFIED NEW TESTAMENT という英訳聖書では、この箇所は、The sheep that are My own hear andare listening My voice,… と訳されている。
それは、何らかのよい行いをしているとか、組織に入っているとか、何らかの儀式をしたとかいったこととは関係なく、ただ生きて働いておられる主イエスに常に聴こうとしている人、実際に聞き続けている人なのである。
私たちはつねに何かの声を聞いている。私たちの内側からの人間的なつぶやきや不満、他人の言ったこと、新聞やテレビなどで語られる無数の言葉…等々、それらは次々と消えていく泡のようなものでしかない。人間の声に聞いても私たちを永続的な力を与えるものとはならない。たえずゆらゆらと揺すぶられるばかりとなる。
しかし、一度主イエスの声に聴こうとし、何らかの細き静かな御声を感じる経験が与えられたなら、私たちはこの世の荒波にもまれそうになるとき、静まってイエスのみ声に聴こうとする。そしてそこから励ましやあらたな力を与えられる。こうした経験こそ、キリスト者としての最も根本的な経験なのだと言おうとしているのである。私たちに愛をもって語りかけて下さるお方がおられる、そのことに気付いた者は、聴こうとすることを決して止めないであろう。 それが従っていくということである。 聞きつつ、従っていくとき、たえず与えられるものがある。それが永遠の命であり、時間や場所を超えたものであるゆえに、私たちも時間の中から消えていったとしても、それは別のところへと移されただけなのである。決して滅びることはない。
しかし、いくら20年、30年というキリスト者の生活があっても、また社会的に地位があり、聖書に関する学問的知識が多くても、この主イエスにいつも聴こうとしているのでなければ、イエスのものではないということになる。 主イエスは神の愛は太陽のように、また雨のように万人に注がれている。と言われた。 それは、神がまたたえず私たちに向かって語りかけておられるということでもある。
人や書物を通し、祈りを通し、またさまざまの出来事を通し、そして周囲の自然のたたずまいなどを通し、あらゆるものによって神は私たちに語りかけておられるゆえ、私たちも常にその御声を聞き続ける日々でありたいと思う。
マルバウツギ 徳島県小松島市日峰山 2008.5.6
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この花は、写真のように、木々や野草の繁った谷筋で咲いていたものです。日もあまり当たらないところですが、それでもこのような純白の美しい花をたくさん咲かせて、星のような美しさをもって見るものに語りかけてきます。 ウツギのなかまはいろいろありますが、これは高さは2メートルにもならないほどの木で花は、1センチほどの大きさのものです。 このウツギは空木と書きますが、茎の中が中空だからです。別名は卯の花というのは、旧暦の卯月(4月)に咲くからで、これは太陽暦では5月となります。
本来のウツギは香りはないのですが、♪~うのはなの匂う垣根に~♪ と歌われてきたので、香りがあると間違って思われている場合が多いようです。この歌において、「匂う」とは、古くから用いられてきた意味で、香りがあるという意味ではありません。この場合の語の意味は、広辞苑などでは、「色が目立つ、生き生きとした美しさなどが溢れる。」といった意味があてはまります。 樹木が繁るなかで、ぱっと目に入る白い花、まさに活き活きとした美しさにあふれています。
野生の樹木の花というのは、ほかの時期はごく地味な樹木であるのに、ある時期だけこのように目を引きつけるような花を咲かせるのがしばしば見られます。
人間もこの世に生まれ出たのは、それぞれが何らかの花を咲かせるためであり、 神あるいはイエスの証しとなること、真理の証しとなることこそ花を開くことと言えます。(文、写真とも T.YOSHIMURA)
(Ⅰヨハネ3:14) |
死から命へ移る、この言葉を聞けばたいていの人は、死んでいた人あるいは死にかかっていた人が生き返る、ということ、例えば、海や山の現場から救い出されたとか、重い病気であったが、特別な手術とか薬で助かったということをイメージするだろう。
しかし、ここではそのような私たちの通常のこととは全くことなることが言われている。それはほかの人たちを愛することができるかどうかでわかるというのである。キリスト教では、唯一の父なる神から霊的に生まれたということで、キリスト者同士を兄弟姉妹といったりするが、広く神が創造された人間はひろく兄弟姉妹だと言える。
私たちに関わる他のひとたちを憎むならばそれは死んだ状態だというのである。私たちが生きているかどうか、それはこの世の仕事をいかに活発にしているかとか、脈拍や呼吸があるかどうかではない。私たちの周囲の人たちを愛しているかどうかこそがその分かれ目なのだという。 聖書で愛するということは、好き嫌いの感情をいうのでなく、相手がいかに自分によくないことを言っても、また何か悪いことをしてもなおその人が本当によくなることを願い祈る心を指している。
何か冷たい仕打ちをされたら、その人に反感や敵意を持ったりするならば、どんなに活動的であっても、その人は死んだものなのだということである。このようなものの考え方は私たちには驚くべきことである。
これはいかに聖書の死生観がふつうの考え方と異なるか、そのきわだった例となっている。
神から永遠の命をいただいているときには、私たちは憎しみや反感は生まれないで、かえって相手のそうした闇の心に光が注がれるようにと祈りの心をもって対する。そのようなことが少しなりともできるとき、その人は自分のうちに神の命が脈打っていることを実感する。
ここで聖書が言っていることは、たんに頭で考えたこととか戒めなどでなく、そうした魂に実感できることを言っているのである。
他者を相手を選ばずに愛することができるかどうか、それは私たちの生死にかかわることなのである。キリストはそうした新しい命を与えるため、私たちが互いに真実に愛することができるようにと、この世に来られたのであった。
マルバアオダモ 徳島県小松島市日峰山 2008.5.2
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この花は、私たちのふつうの生活で取り上げられることは少ないようです。白く小さな羽のような花びらであり、木々の中でとくに光が射しているところなどでは、静かに白く輝いているように見えるものです。
子供のころから近くの山で見かけていても、だれも名前を知らず、花瓶にさしてあるということもなく、花が咲く期間は短いし、咲いていても、幹の上のほうで花の形もよくわからず、枝を折り取ることもしにくいからです。平地では庭などでも見かけたことはありません。白い花びらは細く、長さは6~7ミリ程度のものです。
高さは5~15メートル程度となります。
アオダモという木の名前は枝を切って水につけておくと水が青くなるからです。このアオダモのなかまは、トネリコと言われ、このマルバアオダモも、別名トサトネリコともいいます。ヨーロッパのトネリコの仲間では巨木になるため、北欧の神話にも登場し有名なものです。トネリコという変わった名前は、トヌリキ(戸を塗る木)よりきたと言われます。この木に寄生する虫により分泌した白蝋(はくろう)をトネリといい戸滑りに用いたということです。(牧野富太郎植物図鑑より)。この木の材質は粘りがあり優れているため、各種建築、器具材として用いられ、野球のバットなどに特に用いられ、野球のイチロー選手のバットをこれでつくっているという記事を見たことがあります。
さらに昔から刈り取った稲を干すための木としてとくに植栽してきたということで、さまざまのところに用いられてきた木です。
樹木はこのように実用的な目的から宗教的な意味をも感じ取ったりされてきましたが、この花はそうしたすべてと関わりなく、山の木々間でひっそりと咲いていて、近づくものに静かで清い雰囲気をなげかけている花です。
(文、写真とも.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 166 2008.4.4 |
神は、愛である。それゆえに愛は神から出る。
この短い言葉が本当に私たちの魂に深く刻まれるなら、この世のさまざまの問題は生じないだろう。 あらゆる人間の問題は、この事実を知らないことから来ているからである。
私も、以前はこのようなことは全く知らなかった。神でなく、人間が愛を持っている、と思っていた。しかし、それは本当の愛でなく、愛の影でしかなかった。そのことは、聖書とキリストの世界を知って初めてわかった。
それ以前は神などというものをおよそ心に深く思ったことがなかったのであるから、神から来る愛などという考えも私のなかには皆無であった。
愛とは心にだれでも持っているのだと漠然と考えていた。愛などだれでも分かることだ、差別的な態度や不親切、見下すことなどが愛の心でないことくらい、子供でもわかっていると思われ、愛についての本なども読む気持になれなかった。
しかし、私が知っていた愛は人間から出るもので、それは愛の影にすぎないものであった。
それは、はかないもの、すぐに消えていき、変質してしまい、ときには激しい憎しみにすら変わってしまうもろいもの。そのような愛でも人間を一時的に奮い起こし、成長させ、喜びで満たすように感じさせることはある。
しかし、それは必ず終りがあり、ちょっとした言葉や、罪、行動によってたちまち壊れてしまう。
神から来る愛は、そのような人間的なものとまったく異なっている。
人から純粋な愛を受ける機会は少ない。人によっては人間的な愛すら受けたことがないという人もいるだろう。しかし、神の愛はどんな孤独な人、重い犯罪を犯してしまって周りのひとたちから見すてられたような人でも及んでいく。
そのような愛が少しでも与えられたら、自然にその人は周りの人への愛が生まれるだろう。
今日の聖句で、互いに愛しあうことが勧められている。それは相手を感情的に好きになるということでない。神から受けた愛をもって人間をみつめ、その人の魂が神に近づき、神からの祝福を受けるようにと祈り、願う心なのである。そのような心が与えられているということ、それは神によって新しく生まれたと言われている。私たちはだれもがこうした新しい誕生へと招かれていると言えるだろう。
タチツボスミレ 徳島県小松島市日峰山 2008.3.29
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石ころばかりのような山の岩陰、小さな花びらを広げて語りかけるように咲いています。いつの頃からかこのように自然にこのスミレが咲き始めたのです。わずか5㎝程度の高さの小さい花ですが、その花びらは薄紫、真ん中の花びらは、美しい模様付きで、色合いもグラデーションがあり、うっすらと白いぼかしが入っているようになっています。この色彩の美しさをじっとみつめていると、この植物の背後にある存在の英知を深く感じずにはいられない思いです。
このような人間は到底創り出せない美しさ、それらを地上の至る所で、それぞれに変化のある色彩やかたちを生み出していく、その元の英知は計り知れない英知と力があり、清い美があると感じます。
このような野の花のすがたを見よ、と主イエスは言われました。人間がどんなに着飾っても野の花の一つに及ばないと。人間のどのような考え、芸術的才能も、野の花の無限の深さには到底及ばないのです。
神は、この写真のような石ころばかりの山道であってもこのように美しい花を咲かせることができるゆえに、人間においても、汚れや苦難、悲しみに取り囲まれていても、そのただ中にこの花のような心を与えることができるのです。
(文、写真とも.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 165 2008.3.12 LORD will watch over your coming and going both now and forevermore. |
この詩は、短いものであるが、そのなかにここにあげた以外の節のも合わせると5回も「見守る」という言葉が出てくる。この詩の作者にとって、神とは人々を愛をもって見守って下さるということが、揺るがない実感であったのである。
見守るといっても、愛なくして見守ることがある。監視するため、支配するためにずっと目をつけているということもある。
しかし、この詩では、私たちが眠っているときも、目覚めて仕事に打ち込んでいるときでも、神はつねに自分も身近な人も、そして数知れない人たちをじっと愛をもって見守り続けていることを実感していたのである。
しかし、私たちは愛の神から見守られていない、見すてられたのではないか、というような疑問もしばしば生じる。
自分につぎつぎと病気を事故、仕事の上の失敗、あるいは経験上の苦しいことが続くと、神などいないのでないかとか、あるいは神から見すてられているのではないか、とに思われてくることがあるだろう。
主イエスご自身、十字架上で、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか !」 と激しく叫んだほどであった。
しかし、それにもかかわらず、イエスはたしかに神の大いなる守りのもとにあり、それゆえに処刑されたのち復活し、神と同質の存在として私たちのところにも聖なる霊というかたちで きて下さるようになった。
このことでも分かるように、人間としての弱さ、肉体を持っているがゆえの苦しみゆえに神が見守ってなどいないのではないか、という疑問が生じるが、決して神は求める者を見放すようなお方ではない。そのことを私たちはどのような事態が生じても、信じ続けていきたいと思う。
トサミズキ わが家の庭にて 2008.3.8
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春の暖かい日がを浴びて、トサミズキが咲き始めました。この淡い黄緑色の花は、梅の花が終わるころにちょうどバトンタッチをするように、つぼみがふくらみ、次々と花を咲かせていきます。この色調は春のいのちを感じさせてくれるものです。この木は、高さは2~4メートル程度にしかならず、枝を次々と上下左右に伸ばし、また幹もわが家のものは芸術的な曲線を描いて独特の姿となっています。
色も花のすがたも、樹木の花としてだれもが親しみを感じるものだと思われます。
このトサミズキは、もともと高知県の石灰岩地などに自生していたということからその名前があります。
日本の広い地域でわずかにこのところだけにしかなかったというのも、不思議です。なぜそこだけに生じたのか、といった理由はだれも分からないことです。現在は各地に植えられて春の訪れを告げるものとなっています。
この花は、梅やサクラなどと全く異なる花のつくりです。それぞれの花が独自の個性をもって私たちの前に示されます。
人間もそれぞれが独自の存在としてつくられ、それぞれに深い意味を与えられてこの世に生まれてきたのだと思われます。
ヤマガラ わが家の庭にて
2008.3.7
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小鳥のうちでも、ヤマガラは、色調の美しい鳥で、しかも人懐っこいところがあり、数メートルのところに近寄ってもこのように逃げないで水を飲んでいることもあります。背と腹部が赤みがかった茶色です。ツツピー、ツツピーという独特の美しいさえずりをきかせてくれることがありますが、地鳴きは、ピィーピィーといった声で鳴き交わしているのが聞こえます。私の住む日峰山では、シジュウカラは見かけることが少ないのですが、このヤマガラは、毎日のように、この水槽に水を飲みに来たり、木々の枝にいるのが見られます。
このような小鳥も、その姿、色また鳴き声や動き、そのひとつひとつが神のわざを示すものとなっています。
(文、写真とも.YOSHIMURA)
まことに、まことに、あなたがたに言う。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを得、さばかれることがなく、死からいのちに移っている。 |
この聖書の箇所では、命ということが特別に強調されている。まず、「まことに、まことに言う」という言葉が二回も繰り返されていることが目にとまる。この言葉「まことに」と訳されている言葉の原語は、「アーメン」であり、真実という意味を持っている。祈りの後でアーメンと言うのも、本当だ、真実だ、という意味を込めて言われる。 このように強調されているということは、それほど、ここで言われている内容が重要だからである。
永遠の命というのは、神の命である。神は永遠の存在であり、万物を持ち、支配されているのであるから、神の命もまた、あらゆるよきものを含んでいる。時間によっても変質せず、真実性や力、愛、清さなどを完全な形で持っておられるのが神であり、神の命にはそれらすべてが含まれている。主イエスの言葉を聞いて父なる神を信じる、というただそれだけで、人間に与えられる最高の賜物である永遠の命が与えられるという驚くべき内容なのである。
この世のあらゆるものは朽ち果てる。家も地位も、健康、人間関係などもみな、衰え、変質し、死とともに消えていく。 しかし、永遠の命とはあらゆる時代や状況の変化、そして死によってすらも壊されることのないものである。それがイエスを信じ、イエスの父なる神を信じるだけで与えられる。
人間とはどんな人でも神の永遠性、その真実や愛に比べるなら、死んだようなものでしかない存在であるが、そのようなものにもただ神の子イエスを信じてそのみ声を聞き入れるだけで、新たな神の命が与えられると約束されている。
これは、不平等に満ちていると見えるこの世において、最も価値あるものを与えられるためには、ただ信じるだけで与えられるという深い平等性があるのを示している。
ウメ 2008.2.13
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冬の厳しい寒さのなか、ほかの樹木や野草たちはみな春を待って芽もまだ固い状態であるけれども、ウメだけは次々とその清楚な花を咲かせていきます。真冬に咲く花として印象的なものです。
スイセンも同様で、一年で最も寒いこの頃に花を見せてくれます。そして純白の花びらとともによき香りを持っているということも共通しています。 これらは、咲く季節の厳しさ、白い花、そして香りという組合せによって他の季節の花とはまた違った気品を感じさせる花です。
ウメとよく似て、2月ころに咲く純白の花である、野生のアーモンドの花、私は10数年ほど前の2月下旬、シナイ山のふもとの修道院の庭で咲いていたのを見る機会がありました。(なお、栽培種の花びらはやや赤みがかっています。)そのときの真っ白な花の印象が今も強く残っています。そしてすぐに神が預言者エレミヤに語られた言葉を思いだしたのです。真冬の寒さでほかのものが眠ったようになっている時期でも、花を開いて見守っているアーモンドの白い花、それは神の眠ることのないまなざしを、さらに、神が、神のことばが実現するのを見守っている象徴として用いられているのです。(旧約聖書 エレミヤ書1:11~12)
ウメの花の白さ、真冬に咲くこと、香り、このような組合せは、人間においても比喩的な意味で有りうることで、どのような厳しい状況にあっても、花を咲かせ続け、この世の汚れに染むことなく、神の国の香りを感じさせるということです。それは、完全なかたちとしてはキリストだけに見られることです。 私たちはそうしたよきものを本来持ち合わせていないものですが、キリストに結びつくときにはその度合いに応じて与えられるものだと言えます。
「心の貧しい人たちは幸いだ。天の国はあなた方のものである。」と言われています。心の貧しいとは、心に何等の高ぶり、傲慢を持たず、幼な子のような心です。そのような心で主を仰ぎ、人生の真冬にも花を咲かせていくことができるように導かれたいと願います。 (文、写真とも.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 163 2008.1.2 キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new has come ! |
ここで言われていることこそ、私たちの深い願いを解決する道である。だれでも、現在の自分とは違ったよいものでありたいと願っている。人間というのはきわめて不十分なものであって、その言葉や行動、日常のあり方において、さまざまのまちがったところ、汚れたところ、足りないところ(聖書で「罪」と言われている)を限りなく持っている。それゆえに、何とかして変わりたい、という願いがある。
しかし、もしその一部が改善されたとしても、さらに新たに以前には見えなかったよくないところが見えてくるゆえに、そうした心の欠陥を最終的に克服することはだれもできない。
また、心だけでなく、体も次第に弱く、病気がちとなって思うままにならない状態となっていく。
そうした心身の弱さというのは、どうすることもできないと思われている。
しかし、そのきわめて困難な、否、不可能なことが、解決される道、だれも考えたことのなかった道が示された。
唯一の神がいますことを信じ、キリストが私たちのそうした弱さを担って十字架にかかって下さったと信じるだけで、私たちのさまざまの欠陥、罪というものがぬぐい去られ、キリストと結ばれるようになる。その状態は、新しく創造されたものになったと言えるのである。
それこそ、長年超えることのできなかった古い自分とは全く異なる者へと変えられる道なのである。
キリストの弟子であったペテロやヨハネはごく普通の漁師であって、学問も宗教的経験も、また地位も何もなかった。しかし、そのようなごく普通の人が、まったく異なる人物と造り変えられた。
ペテロはローマの迫害の厳しい時代にあって、数えきれない多数のキリスト者たちの魂を導き、自らは殉教していったと言われている。そしてヨハネはその後だれもそれを超える文書は現れない深い真理に満ちたヨハネ福音書を書いたと伝えられてきた。
そしてそうした最初の弟子たち以外に、無数の人たちが、たしかに新しい創造と言えるような人間と変えられて、目に見えない、お金でも買えない、そしていかなる権力をもってしても破壊することもできない永遠の真理を受け継ぎ、それを世界に伝達していくという働きを委ねられていったのである。
私たちに悪意を持つような人に対してすら、敵意を持たないようになったばかりかその人の魂のために祈ることができる、ということだけでも、たしかにそれは新しい魂となったしるしである。
そして、新しい創造は、私たちの生きている限り続いていく。さらに、年老いて病弱となり、何も目に見える働きができなくなったときでも、なおもそれは続く。キリストご自身の別の現れと言える聖なる霊を受けて、輝く新たな魂となっていくからである。
そしてこの地上を去るときには、完全な意味であらたな創造となり、この小さなそして汚れた 罪深い魂であるのに、キリストのような栄光を与えられる存在と変えられるという。
絶えず古くなっていくこの世、すべてが朽ち果てていくこの世界にあって、どこまでも新たにしていただけるというのはなんと言う大いなる約束であろう。この年も、私たち一人一人が真の意味で新しく創造されつつ、新たな歩みを続けていけるようにと願っている。
カツラ(桂) 徳島県中津峰山 2007.11.3
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これは、桂の大木です。これは、中津峰山(標高773m)登山口の一つにある渓谷沿いにあります。
この山は、西日本第二の高峰である剣山から延びる山なみの東端にある山で徳島県の東部地方一帯からよく見える山なので親しまれている山です。 この付近にはもうかなり長い間行くことのできなかったのですが、「いのちの水」誌に桂のことを書いたこともあり、また、その美しい黄葉に触れることと、独特の香りを持つ桂の葉を紹介したいとの思いもあって、妻とふたりで休日の午後訪れたときの写真で、桂の落葉を集めているところです。
ここには、数本の堂々たる桂の木が自然に生えています。桂はこうした渓谷沿いを好む樹木なのです。そして自然に一つの幹以外にこの写真のように何本もの幹が成長して独特の姿となります。巨木となれば30mもの高さにまで成長するということです。
この木に初めて出会ったのは、40年以上も前、私が高校一年のときのクラス遠足で初めてこの地域に行ったときです。その後大学を卒業して県内の山々を歩くことが多くあったのでここには一人で、または生徒たちを引率して何度となく訪れたところです。そしてここから頂上までの自然ゆたかな、それだけにほとんど人とは出会うことのない山道を登って行ったものです。
そのように繰り返しこの桂のある道を歩いて、いつも心になにかを語りかけるようなものを感じてきたのがこの桂の大木でした。 樹木、とくにこのような歳月を経た大木には、ほかには感じられない重々しさがあります。数知れない風雨を受け、それによって倒されることもなく、かえって力強く成長し、太陽の光を浴び、地中のさまざまの養分や水を得てこのような風格ある樹木となっているのを思うとき、はかることのできない思いがここに込められているように感じるのです。
一人で、こうした年月を経た樹木のそばにたたずむときに、人間からは与えられない平安、そして励ましを受けることがしばしばでした。
かつて、県内の中央部の山深いところに目立ったピークをみせている高丸山(1,438m)に登ったときに、他ではみたことのない、ブナの直立した大木が林立しているのに接したことがあります。そのときは単独の登山で、ほかには誰一人登る人もいないしずかな山でした。その樹木の群れは私に強い印象を与えたのです。その大木のそばで引き寄せられるようにしばしたたずんでいました。そこには、神の揺るがない力、すべてを受け入れ、どんなものによっても打ち倒されない力のこもった静けさを感じたのを今も思いだします。
聖書が書かれた地域では大木として知られていたのは、レバノン杉でした。
「主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち…」(詩編104:16)と記されているように、この詩の作者も、こうした特別に力を感じさせる大木には神ご自身が植えられたと実感させるものがあったのがうかがえます。 (文、写真とも.YOSHIMURA)